第20話 路地裏の取引
「あんた方の作ったシナリオは、少々設定が甘いようですね」
雨上がりの匂いが残る石畳に、穏やかだが通る声が響いた。
ラド商会の男が鼻で笑う。
「設定が甘い? 何を寝ぼけたことを……」
「そう焦らずに。まずは落ち着いて、この少年の足元を見ていただけますか?」
俺は促すように、うずくまる少年の靴を指差した。
「今は雨上がりです。もし本当に彼が倉庫裏のぬかるみを逃げ回っていたのなら、靴には新しい泥がついているはず。ですが、彼の靴の泥は完全に乾ききっている。つまり彼は最初から、この乾いた路地を歩いていただけだ。違いますか?」
男の口が半開きになり、その頭上に【ステータス:動揺】のアイコンが浮かび上がる。
「た、たまたま水たまりを避けただけかもしれないだろう!」
「では、もう一点だけ確認させてください。店主ではなく、ラド商会のあんたに」
俺は商人の反論を穏やかに制し、男の手元にある布袋を見つめた。
「失礼ですが、その袋。南方胡椒の香りがしますね。……おや、驚きました。今、その最高級品を独占しているのはラド商会のはず。それがなぜ、末端の小売店にあるんでしょうか?」
一歩、圧力を感じさせない距離まで歩み寄る。
「あんたが自分の懐から取り出し、彼の持ち物に見せかけた……と考えるのが、ロジックとしては一番自然です。この少年を泥棒に仕立て上げ、私を脅迫するために。……残念ですが、杜撰な仕事ですよ」
決定的な沈黙が落ちた。
男の顔から余裕が消え、視線が激しく泳ぐ。
「貴様……!」
「……お勧めはしませんよ」
男が腰の短剣に手をかけた瞬間、俺はさらに声を低め、諭すように告げた。
「ここで私を刺しても、事態は悪化するだけです。衛兵が介入すれば、店主の帳簿もあんたの胡椒の出どころも、すべて洗われることになる。感情に任せてラド商会の看板に泥を塗るリスクが、今のあんたに見合うリターンだとは到底思えませんが?」
男の動きが、ピタリと止まった。
怒りよりも、提示された「損失」が上回った瞬間だった。
「……覚えていろよ」
ラド商会の男は忌々しげに舌打ちし、路地の奥へと立ち去っていった。利用されただけの商人も、慌てて姿を消す。路地には元の静けさが戻った。
◇
ふう、と小さく息を吐く。
頭の奥にきた重い疲労感を無視し、壁に背を預けて呼吸を整えた。
少年を見る。まだ石畳に蹲ったまま、困惑と警戒の混じった目でこちらを見上げていた。
「立てるか?」
あえて手は貸さない。だが、突き放すためではなく、彼が自分の足で立ち上がる時間を待つ。少年は膝を震わせながらも、自力で立ち上がった。
「怪我の治療が先だが……その前に一つだけ。帰る家や、心配する親御さんはいるか?」
俺が大人として当然の確認をすると、少年は自嘲するように鼻で笑った。
「角のない魔族のガキだぞ。帰る場所なんて、とうの昔になくなったよ」
吐き捨てるような言葉。だが、強がるその瞳の奥に、彼がこの街の底で味わってきた孤独の深さが透けて見えた。
胸の奥が、チクリと痛む。
だが、ここで安っぽい同情の言葉をかけるのは、過酷な路地裏を一人で生き抜いてきた彼の尊厳を傷つけるだけだ。俺は湧き上がる感情にコンサルタントの理屈で蓋をし、あえてフラットな声で切り出した。
「なるほど。丁度よかった。有能な協力者を探していたんだ」
俺は努めてビジネスライクな態度を保ち、言葉を続ける。
「街の裏側に詳しく、そして何より、過酷な状況でも『口を割らない』人間を。お前はさっき、痛めつけられても最後まで声を上げなかった。……誤解しないでほしいんだが、私はその忍耐強さを買ったんだ。だから助けた。それだけだ」
少年の目が、微かに細くなる。
――本当は、違う。
前世の俺なら『関わるだけ損だ』と、間違いなく見て見ぬふりをして通り過ぎただろう。
だが、今の俺は違った。
抵抗できない子供が石畳に叩きつけられる光景が、理屈抜きで、ただ不愉快だった。それだけだ。
「私は慈善事業家ではないから、これはあくまで対等な取引だ」
「俺みたいな『欠陥品』と、何の取引ができるってんだよ」
少年が再び自嘲気味に笑った。深い自己嫌悪の影。
「私は無価値なものに時間を使うほど、暇ではないよ」
俺は彼の言葉を、静かに否定した。
「お前には身軽さと、状況を判断する目がある。今の私にはそれが必要なんだ。宿と食事、そして相応の給料を出す。同情ではなく、正当な報酬として」
少年はしばらく、俺の顔をじっと見つめていた。
頭上の【デバフ:不信】が、ゆっくりと形を変えていく。
「飯は、毎日食えるのか?」
「ええ、約束しよう」
「肉も?」
「仕事に見合うだけ、たっぷりとな」
沈黙。
やがて、少年から小さく息が抜けた。
「乗ってやるよ。俺はノクトだ」
「俺はコウ。よろしく、ノクト」
俺は歩き出す。
少し遅れて、ほとんど音を立てない足音がついてきた。水たまりを完璧に避け、気配を殺して歩くその足取り。俺の『調査員』として、これ以上の人材はいないだろう。
◇
夕暮れが石畳を染め、橙の空が揺れている。
隣に並んだノクトの歩調を確認し、俺は前を向いたまま口を開いた。
「この先に宿がある。俺の相棒を紹介しよう。……きっと、驚くと思うがな」
ラド商会との本格的な抗争は避けられない。
だが、信頼できる駒は一つ増えた。
盤面は、まだ動かせるはずだ。っくりと形を変えていく。
「飯は、毎日食えるのか?」
「ええ、約束しよう」
「肉も?」
「仕事に見合うだけ、たっぷりとな」
沈黙。
やがて、少年から小さく息が抜けた。
「乗ってやるよ。俺はノクトだ」
「俺はコウ。よろしく、ノクト」
俺は歩き出す。
少し遅れて、ほとんど音を立てない足音がついてきた。水たまりを完璧に避け、気配を殺して歩くその足取り。俺の『手足』として、これ以上の人材はいないだろう。
ラド商会との本格的な抗争は避けられない。
だが、信頼できる駒は一つ増えた。
盤面は、まだ動かせるはずだ。




