第2話 最弱のモンスター
次に目を開けた時、俺は森の中にいた。
それも、想像していた"異世界の森"より、ずっと現実的で、ずっと不親切な森だった。
木。草。湿った土。以上。
ファンタジーっぽい大理石の神殿もなければ、親切な村人の姿もない。
転生直後にチュートリアルの案内人が迎えに来ることも、当然ない。
あるのは、じめっとした空気と、聞いたことのない虫の声と、やけに生々しい腐葉土の匂いだけだった。
「え、まじか」
思わず、間の抜けた声が出た。
大通りとか、初期装備の入った革袋とか、そういうのはないのか。見事なまでに誰もいない。ポケットを探っても財布もスマホもなく、試しに「ステータスオープン」と呟いてみたが、ただ虚しく森の空気に溶けるだけだった。
俺の唯一のチートは「コミュニケーション能力」だ。
女神から貰った転生特典。人の心を汲み取り、言葉を届ける力。
だが、誰も一人もいないこの森の真ん中で、一体何に使えというのか。
「動かないと始まらないか」
道具ゼロ。食料ゼロ。土地勘ゼロ。戦闘力は、元の貧弱な俺のまま。つまり最弱だ。
それでも葉の隙間から差し込む太陽の位置を見て、なんとなく明るそうな方向へと歩き始めた。
――そして、十五分後には激しく後悔した。
地面は柔らかくて足を取られ、低い枝は顔に当たる。運動不足の身体には、ただ森を歩くだけできつすぎる。
「人、いないのかよ」
その時だった。
ガサァッ――。
右手の茂みが、大きく揺れた。
現れたのは、真っ白でふわふわした毛並みの、小さな生き物だった。
うさぎ、だった。ちんまりとした身体に、ぴんと立った耳。だいぶかわいい。
「おっ」
一瞬だけ、笑顔になりかけた。
「キィアァァッ!!」
その瞬間、そいつは弾丸のような速度で飛びかかってきた。
額には鋭く尖った短い角。両目は、理性を失ったような赤黒い光を帯びていた。
「うおぉっ!?」
無我夢中で横へ身を投げる。直後、さっきまで俺の顔があった空間を、角が風を切って通り過ぎた。
「嘘だろ、うさぎだぞ!?」
対話など意味をなさない。
そこに「言葉」を受け取る意志など、微塵も存在しなかった。
「待てくれ、俺は戦わない」と言おうとした口が開くより早く、角うさぎは鋭く向き直り、再び跳んでくる。
「くそっ!」
俺は泥だらけになりながら立ち上がり、背を向けて死に物狂いで走り出した。
斜面に足を取られてそのまま転がり落ちた先で、辛うじて奴を振り切る。
どれくらい逃げ込んだか分からない。
腹が減り、喉の渇きが限界だった。息を吸うたびに肺が痛み、口の中は砂をかんだようにパサパサだ。
ふらつく足で進んでいると、前方の木の根元に「何か」が見えた。
半透明の、ぷるんとしたゼリー状の物体。バスケットボールくらいの大きさで、微かに青みがかったそいつが苔の上でのたうっている。
「スライムだ」
ファンタジーRPGにおける、最弱モンスターの代名詞。チュートリアルの標的。経験値1の存在だ。
さっきのイカれた角うさぎに比べれば、明らかに動きが鈍い。あわよくば、水分を含んだその体を倒して最低限の水分補給ができるかもしれない。
極限の渇きに背中を押されて、俺は近くに落ちていた太い枝を拾い上げた。
相手は最弱モンスター。さすがに勝てるはずだ。
「よしっ!」
振りかぶって、力いっぱい叩きつけた。
べしゃっ。
鈍い音が響いた。しかしスライムは砕けなかった。衝撃は見事に吸収され、枝はゼリーの中に半ばまで沈み込んでピタリと止まった。
「え?」
引き抜こうとしても抜けない。それどころか、枝を伝って青い粘液がずるずると這い上がってくる。
シュゥゥゥ……。
粘液が触れた枝の表面から、微かな白煙が上がった。
「嘘だろ、酸性かよ!」
慌てて枝から手を離す。スライムはしばらくぐねぐねと形を変えていたが、やがて枝を完全に溶かし切り、元の丸い形に戻った。
一気に血の気が引いた。
あんなの、素手で殴ったらどうなる?
RPGの主人公なら初期装備の木の棒で殴り倒す相手だ。でも現実の物理法則が働くこの世界では、スライムは「物理攻撃を完全に吸収し、触れたものを強酸で溶かす生きた塊」だった。
剣の才能はない。魔法の才能もない。そんな俺と、最も相性の悪い無敵の要塞だ。
俺に向かって、スライムが這いずる足取りでにじり寄ってくる。動きは遅い。だがその緩慢な近づき方に、確かな殺意が混じっていた。
「ひっ!」
俺は尻餅をついたまま後ずさりし、転がるように逃げ出した。
情けない。心の底から情けない。
最弱の角うさぎに追われ、今度は最弱中の最弱であるスライムから逃げている。
言葉しか持たない男には、言葉を理解しない相手が、一番手に負えない。
息を切らし、背後に青い影がないことを確認して、俺は太い木の根元に崩れ落ちた。
「はぁっ、はぁっ」
言葉が通じない。その一言が、俺のチートを完全に封じていた。
魔王がどうこういう以前の問題だ。このままでは、チュートリアルの森で死ぬ。普通に、静かに、誰にも知られずに。
誰かと関わりたかった。分かり合いたかった。
その願いを叶えるために選んだ力は、人間に会う前に俺を殺そうとしていた。
「……イルさん」
声に出すつもりはなかった。
でも口からこぼれた。暗い森の底で、かつて画面越しにやり取りをしたあの人の名前が。
「……ごめん。また、何もできなかった」
最後まで踏み込めなかった前世と同じだと、今更気づいた。
言葉を持っていても、届けられる相手がいなければ意味がない。そんな単純なことを、俺はこの身で、ここで、初めて知った。
ひんやりとした土の感触が頬に触れる。
そのまま、意識がゆっくりと暗闇へ沈んでいった。




