第19話 路地裏の少年
宿を出た俺は、人の波を避けるように大通りを外れ、一本、裏通りへと折れた。
雨上がりの冷たい空気が、帳簿を眺め続けた目に心地よかった。
水たまりを踏まないように歩いていると、路地の奥から音が聞こえた。
鈍い音だ。何かを踏みつける、重たい音。
数人が立ち止まっている。俺も足を止めた。
少年が、石畳に蹲っていた。
ボロボロの服。泥と傷の混じった腕。前髪の隙間から覗く瞳は、猫のような縦長の瞳孔をしていた――魔族の証だ。だが、その頭に「角」はなかった。魔族の力の源であるはずの角が、根元から完全に失われている。
その少年を踏みつけているのは、恰幅の良い中年の商人だった。
「おい、やりすぎだ!」
思わず声が出てしまった。前世なら見て見ぬふりをしていただろう。
商人が俺の声で、ビクッと肩を揺らした。
そのすぐ後、路地の奥から、拍手の音が聞こえた。
ゆっくりと、三人の男が姿を現した。質の良い服を着崩し、胸には三日月のバッジ。食堂で、扉の隙間から俺たちを睨みつけていた男が先頭に立ち、下品な笑みを浮かべていた。
ラド商会だ。
「おやおや」
男は路地を見回した。自分の庭に迷い込んだ獣でも眺めるような目だ。
「新星商会のコンサルタント殿じゃないか。こんな路地裏まで、散歩かい?」
「な、ラド商会の方!」
商人が反射的に媚びた。男はそれには目もくれず、少年のそばにしゃがみ込んだ。慣れた手つきで懐を探り、小さな布袋を引き出してみせた。
「やっぱりな。ちゃんと持ってたぞ」
路地に、鋭い香りが広がった。
男は立ち上がり、石畳に蹲る少年を顎でしゃくった。
「おい、店主。このガキが、お前の倉庫から商品を盗もうとしていた。そうだろう?」
「え? いや、俺はただ裏をうろついてるのを見て――」
「『盗もうとしていた』んだよな?」
声が一段、低くなった。それだけで、商人は小さく縮んだ。
「は、はいっ。そうです。こいつは泥棒です」
男は満足そうに口の端を上げ、こちらへ視線を寄越した。
「聞いたか、コンサルタント殿。こいつは泥棒だ。まさか、飛ぶ鳥を落とす勢いの新星商会様は、薄汚い魔族の泥棒を庇うつもりか? ルインの市場の連中がどう思うか――想像できるよな?」
あまりに古典的で、三流の脅迫だ。
しかし、だからこそタチが悪い。
少年を庇えば「泥棒の味方」として市場から排除される。見捨てれば、少年は衛兵に突き出される。魔族への差別感情を盤面として使い、どちらへ動いても詰められる構造だ。
前職なら、この構造をスライド一枚に整理できた。
「二択に見せかけた強制誘導」。選択肢の設計者が誰で、どちらを選ばせたいのかを図示して、抜け道を三つ並べる。
資料を作るだけなら、五分もかからない。
だが今は、声に出さなければならない。
俺の右目の奥が、じわりと熱を帯び始めた。
情報が流れ込んでくる。商人の震える膝。男の得意げな顔。路地に漂う、あの鋭い香り。
そして――
少年の足元。
雨上がりの路地だ。水たまりがいくつも残っている。
乾いたままだった。




