第11話 一言で価値は変わる
午後になると、市場の客の流れがまた変わった。
午前中は遠征帰りの冒険者を相手に石鹸を売り、確かな手応えを得た。
しかし俺の「盤面の攻略」はそれで終わりではない。
「次の的を絞るぞ。リーシャ、あそこの夫婦を見ていろ」
俺が目で示した先には、質の良い外套を身に纏った中年の夫婦が、大商会の一等地の露店から出てくるところだった。
妻の方が香辛料の袋を見つめ、少し残念そうにため息をついている。
「どういう層なの、あの二人」
「中流商人の奥方と亭主、といったところか。歩き慣れた様子から、この町の住人で間違いない」
喋りながら、俺は視界に映る二人の情報をさらに深読みしようと意識を集中させた。
――その瞬間。ズキリ、と。
こめかみの奥に、細い針を突き立てられたような鋭い痛みが走った。
(ッ、なんだ?)
視界の端が、一瞬だけ砂嵐のようにノイズ混じりに明滅する。口の中に、かすかに血の鉄の味が広がった。
午前中からずっと、スキルを回し続けていた。どうやら限界が近いらしい。
痛みを悟られないよう奥歯を噛み締め、俺は露店の三段陳列から、今日の朝に補充した香料の木箱を一つ、手前にずらした。
中に入っているのは、南東部の山間部で採れる独特の薫りを持つ『燻し香料』だ。
「うちのこれは、大商会の品と質が同等で価格は二割安い。だが、ただ『安いです』と呼び込んで売ったのでは三流だ」
「なんで? 安い方が喜ぶでしょ?」
「安いものを買う時、客は心の中で『妥協した』という負い目を感じる。それではリピーターにはならない。必要なのは、あの奥方に『妥協ではなく、大商会よりもセンスの良い自分の目で、特別な逸品を見つけた』という優越感を与えることだ」
俺は痛む頭を無理やり回し、奥方の身なりに視線を固定した。
彼女の外套の襟元を留めている銀のブローチ。それはルインの町では見かけない、曲線的な水鳥のデザイン――南東部の湖畔地方の特産品だった。昨夜、宿の亭主の雑談から引き出しておいた知識と、目の前の視覚情報がパズルのように噛み合う。
同時に、胃の腑がギリリと締め付けられ、冷や汗が背中を伝った。
これ以上スキルを使えば倒れる。本能がそう警告していたが、俺は無視して踏み出した。
「見ていろ」
俺は夫婦の歩く動線上に自然に立つと、持っていた木箱の蓋をパタンと閉めながら、わざと大きく独り言をこぼした。声の震えは、気力で抑え込む。
「やっぱり南東部の水鳥の湖畔で採れる香料は、薫りが段違いなんだよな。この土地の連中には、この奥深い良さが分からないのが口惜しい」
ピタリ、と奥方の足が止まった。
俺は驚いたような芝居を打ち、大げさに頭を下げる。
「あ、失礼いたしました。邪魔になりましたか。……おや? 奥様のそのブローチの細工、素晴らしい。もしや、南東部の湖畔地方に縁がおありで?」
奥方の目が、驚きと喜びで僅かに見開かれた。
「え、ええ。私の故郷で母が買ってくれたものだけど……あなた、よく分かったわね」
「商人ですから。良質なものは見逃しません。道理で。私がいま整理していたこの香料も、南東部の『水鳥の湖畔』で採れたものなんですよ。このルインではどうしても、大味な外国産ばかりがもてはやされてしまいましてね」
肺が酸素を求めて悲鳴を上げていたが、俺の口から紡がれる言葉は、滑らかで心地よい音楽のようだった。少し寂しそうな笑みを浮かべ、木箱の隙間を奥方の方へそっと傾ける。
ふわりと立ち上る、地方特有のなつかしい香り。
「あら、本当だわ。この強いけど少し甘い香り、懐かしいわね」
「実はこちら、南東部を回る知人から直接仕入れたもので、数がとても限られていまして。どうです? もしよろしければ、大商会の大量生産品ではない、故郷の『本当の香り』を今日の食卓に」
「ええ。買うわ。これ、二箱ちょうだい。あなた、お金を」
亭主が財布を出し、一切の値切り交渉なく代金を支払った。
夫婦は満足げな笑顔で去っていった。
ふぅ、と。
二人の背中が見えなくなった瞬間、俺は大きく息を吐き出し、足元のふらつきを木箱に手をついて誤魔化した。
リーシャが、机の上の硬貨を見つめたまま固まっていた。
「あんた。本当に、魔法使いか何か?」
彼女の声は、呆れを通り越して震えていた。
「あの奥さんが南東部出身だって、なんで分かったの」
「胸元のブローチのデザインだ。昨夜、宿の亭主の雑談から各地方の特産品の話を聞き出しておいた。言葉ってのは事前の『情報収集』があって初めて刺さる」
答える声が少し掠れてしまったが、リーシャは気づいていないようだった。
「私には、一生思いつかない。私が今までやっていた商売って、ただ物を並べて『買え』って言ってただけだったんだね」
リーシャが自嘲気味に俯く。
だが俺は、彼女の肩を真っ直ぐに見据えて強く首を横に振った。
「馬鹿言うな。俺のハッタリが通じるのは、君の仕入れた商品が『本物』だからだ。もしこれが質の悪い安物だったら、箱を開けて匂いを嗅がせた瞬間に嘘がバレて終わってた」
「え……」
「俺の仕事は、客に『この人から買いたい』と思わせることだ。だが、二度目も買いに来させるのは、君の品物の仕事だ。俺がすごいんじゃない。君の眼が間違っていなかったんだよ、リーシャ」
リーシャの目が大きく見開かれ、そして、ゆっくりと伏せられた。
その目尻が微かに赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
「調子がいいんだから。口だけのペテン師」
憎まれ口を叩きながらも、リーシャはそっぽを向いて、少しだけ嬉しそうに鼻をすすった。
俺は静かにこめかみを押さえながら、次に来るであろう「波」に向けて、どうにか呼吸を整えた。




