第1話 会いたいと言えなかった
人生で一番長く話した相手の顔を、俺は知らない。
名前も、本当の年齢も、住んでいる場所も知らなかった。
知っていたのは『イル』というゲームの中で使っていた名前と、文字の向こうにいるその人が、どうしようもなく優しいということだけだった。
『コウ』という俺の味気ない名前に、彼女だけはいつも「コウさん」と丁寧にさん付けをして呼んでくれた。ただの文字の羅列なのに、他でもない俺という人間が尊重されている気がして、妙に嬉しかったのを覚えている。
それだけで、俺には十分だった。
少なくとも、あの頃の俺には。
現実の俺は、誰ともまともに話せない人間だった。
朝、職場で「おはようございます」と言うだけで、胸の奥がざわついた。声の大きさは変じゃなかったか。タイミングはおかしくなかったか。顔は引きつっていなかったか。たったそれだけのことで、毎回ひどく疲れた。
昼休みは一人で食べた。
輪に入りたくないわけじゃない。ただ、自分が入ったせいで空気が変になるのが怖かった。
仕事が終われば、まっすぐ家に帰る。
コンビニで安い弁当を買って、ワンルームで一人で食べる。静かすぎるのが嫌で動画を流すけれど、楽しそうな声が響くほど、自分の部屋の静けさだけが際立った。
そんな生活の中で、唯一、人と話すのが苦痛じゃない時間があった。
ネットゲームだった。
画面越しなら少しだけまともになれた。
顔が見えないから。声がいらないから。返事に時間がかかっても、すぐにはばれないから。
その中でも、イルさんは特別だった。
初心者の俺が敵に囲まれて死にかけた時、通りすがりなのに助けてくれた。装備の集め方も、金策も、イベントの回り方も、全部教えてくれた。
『困ってる人、ほっとけないんだよね』
チャット欄にそう流れた時、少し笑ってしまったのを覚えている。
実際、イルさんはそういう人だった。
誰かが失敗しても怒らない。
初心者にも優しい。
くだらない雑談にも付き合う。
明らかに面倒な相手にまで、ちゃんと返事をする。
どうしてそこまで他人に優しくできるのか、俺には分からなかった。
でも、救われた。
最初はゲームの話だけだった。
やがて、今日食べたものとか、仕事がだるいとか、眠れないとか、雨が嫌いだとか、そういうどうでもいい話もするようになった。
『ゆっくりで大丈夫だよ』
俺が言葉に詰まるたび、その一言に助けられた。
一度、ゲーム内で徹夜して二人でくだらない雪だるまを作り続けたことがあった。
ただ無心に雪玉を転がし、画面の端から端まで並べていく。それだけの作業だった。
全部並べ終わって、『馬鹿みたいだね』とチャットを打ったら、むこうも『めちゃくちゃ馬鹿みたい』と返してきて、二人で深夜に腹を抱えて笑い合った。
あの他愛のない時間が、モニター越しの静かな世界が、俺にとっての本当の居場所だった。
俺が黙っても、気まずそうにしない人。
うまく返せなくても、会話を終わらせない人。
ここにいてもいい、と初めて思わせてくれた人。
だから、好きになった。
たぶん、わりと早い段階で。
でも言えるわけがなかった。
好きだなんて。
会いたいだなんて。
君ともっと話したいだなんて。
そんなことを言った瞬間、全部壊れる気がしたからだ。
イルさんはたまに、自分のことを冗談みたいに下げた。
『私、会ったらがっかりされるタイプだからさ』
とか。
『ネットだけの付き合いの方が平和だよ、たぶん』
とか。
そのたびに否定したかった。
そんなことない、と。
俺はたぶん、君がどんな人でも会いたいと思う、と。
思った。
思っただけだった。
結局、俺は何一つ言えなかった。
ある夜、イルさんから珍しく、弱音みたいなメッセージが届いた。
『ちょっと最近しんどいかも』
たったそれだけの短い文だった。
でも、いつもなら絵文字でもつけそうな人が、何もつけていなかった。
俺はキーボードの前で固まった。
大丈夫?
何があったの?
話なら聞くよ。
会おうか。
言葉はいくらでも浮かんだ。
浮かんでは、全部消えた。
踏み込みすぎじゃないか。
重いと思われないか。
気持ち悪がられないか。
そうやって迷っているうちに、時間だけが過ぎた。
ようやく送れたのは、ひどく無難な一文だった。
『そっか……あんまり無理しないでね』
送ったあと、自分で最低だと思った。
そんなの、誰にでも言える。
俺じゃなくても言える。
本当に欲しかった言葉が、そんなものであるはずがない。
イルさんからの返事は、少ししてから来た。
『ありがと、やさしいね』
その一文を、俺は何度も見返した。
嬉しかった。
同時に、どうしようもなく苦しかった。
俺は優しくなんかない。
本当に優しいなら、もっとちゃんと聞けただろ。
もっとちゃんと踏み込めただろ。
せめて、会いたいって言えただろ。
結局そのあと、イルさんはログインしなくなった。
忙しいのかもしれない。
別のゲームに移ったのかもしれない。
アカウントを消したのかもしれない。
いくらでも理由は考えられた。
でも、チャット履歴の最後の一文だけが、ずっと頭に残った。
『ありがと、やさしいね』
違う。
俺は優しくなんかない。
本当に大事な時に、何も言えなかったんだから。
――それからしばらくして、俺は死んだ。
雨の降る夜だった。
ブレーキ音。
視界の回転。
アスファルトの冷たさ。
誰かが叫んでいた。救急車の音がした。どんどん遠のく意識の中で、ふと財布のことを思い出した。
中には、臓器提供の意思表示カードが入っている。
別に、立派な人間だったわけじゃない。
善人でもない。
ただ、死んだあとに残るものがあるなら、せめて誰かの役に立てばいいと思っていただけだ。
生きている間は、誰にも必要とされている気がしなかったから。
もし俺の一部でも、誰かの明日に繋がるなら。
それは少しくらい、マシな終わり方なんじゃないかと思った。
それが、相沢 恒一という男の、冴えない人生の最後の記憶だった。
◇
次に気がついた時、俺は真っ白な空間に立っていた。
目の前には、神々しいほどに美しい女性が立っていた。
光を編んだような金色の髪に、吸い込まれそうな深い碧い瞳。いかにも物語に出てくる『女神様』といった、現実離れした姿だった。
彼女は俺を一目見るなり、花がほころぶような極上の笑顔を浮かべた。
「やっと、会えましたね。あなたをずっと見ていました」
まるで愛しい人との再会を喜ぶような、ひどく優しい声だった。
「転生にあたり、あなたには一つだけ特典を与えます。剣の才、魔法の才、強靭な肉体、状態異常無効、鑑定眼、収納能力。人気の高いものは、そのあたりでしょうか」
随分と分かりやすいテンプレなラインナップだな、と思った。
でも、俺の答えは最初から決まっていた。
「……えっと、あのー、何というか、人と、人と話せる話せる能力が、ほしい・・・です」
「はい?」
「人とちゃんと話せる力がほしいです。空気を読めて、相手を不快にさせなくて、言うべきことをちゃんと言える……そういう、普通のやつを」
「他の強大な力ではなく、それでよろしいのですね?」
「はい」
女神は少しだけ目を丸くしたあと――まるで、最初から俺がそれを選ぶと知っていたかのように、愛おしそうに微笑んだ。
「ええ、わかりました。では、あなたに“人の心を汲み、言葉を届ける力”を授けましょう」
「ありがとうございます」
「どうか、よい第二の人生を」
よい第二の人生を。
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
今度こそ、と思った。
今度こそ、ちゃんと人と関わりたい。
今度こそ、言うべき時に言葉を飲み込まない人間になりたい。
今度こそ、会いたい相手に、会いたいと言えるようになりたい。
白い光が視界いっぱいに広がっていく。
人生で一番長く話した相手の顔を、俺は知らない。
でも、もしもう一度どこかで会えるなら。
その時こそ、ちゃんと――
物語のスタートと同時にキーとなるエピソードです。
話が進むと伏線回収を行いますので、お楽しみに。




