第35話 約束の一枚、伝えたかった言葉
テイサスオペラオー
その馬は覇王と呼ばれている。
彼の魅力は無敗を誇った年だけでなく、
その翌年にこそ、詰まっている。
勝ちもあった。
負けもあった。
その年でオペラオーは引退をする。
だが、彼は一度として
5着よりも下の順位を取らなかった。
前年までの最強は影を潜め、
現れてくる新星に勝利を取られていく。
だが、オペラオーは負けるべき馬にしか負けていない。
決してたまたまの結果ではない。
新たな競馬界のスターを始めとする顔役に、
負けるべくして負けた。
それは、未来へと繋ぐバトンのように
競馬界を盛り上げていく。
――最強は勝利だけでは語られない。
◆ ◆ ◆
有馬記念 -Versus the Universe-
その死闘は、いよいよ残り100メートル。
中山競馬場名物。心臓破りの坂。
その高低差2.2メートルを閃光のように駆け上がる二頭。
互いに息を切らす、を超えて、
存在そのものを走りに乗せていく。
消えゆくオペラオーと、輝きが燃え上がるギャラクシー。
「オペラオーの最後!負けてたまるかよぉぉぉ!!」
「我々が勝つ!!!」
馬も騎手も体中から聞こえる悲鳴を無視して突き進む。
しかし、坂を登り切り、コースが平坦になった直後、
時速100キロを超えるその走りに、スピード違反の切符が切られる。
――二頭の地面を蹴る音が消えていた。
和田野とキュルテは初めての現象に驚きを隠せない。
ギャラクシーエンペラーとテイサスオペラオーは
なんと制御不能の慣性によって、
一瞬、空中へと飛び出していたのだ。
生き物の限界を超えつつある、互いの速さ。
それは、重力でさえ振り切っていた。
「こんなことがぁぁ!!」
「クソぉぉぉぉ!!!」
タイヤが空転するように、二頭の蹄が虚空を掻いていく。
和田野とキュルテは、
過去体験したことのない浮遊感を物ともせず、
体勢を立て直しに掛かる。
一瞬のブレーキ。
そして、その瞬間を狙っている男がいた。
その男は二頭が作り出した暴風に乗って大外へ繰り出し、
チャンスを伺っていたのだ。
「……君たちは速すぎたね」
武井裕太。
天才と称された男は、この極限状態の中で
誰よりも冷静に現実を見据えていた。
過去、彼はオペラオーの勇姿を
己の負けという形で何度も見上げていた。
だからこそ、知っていた。
覇王の唯一の隙。
それは――。
強すぎるが故に、目の前の相手に呼応してしまうこと。
競う相手がいれば、その馬を抜こうとする。
それは本来ならば、隙どころか
長所と言っても構わない話だ。
だが、強過ぎたオペラオーにとって
それは、唯一と言っていい小さな弱点となっていた。
競う相手が視界に入っていなかった場合、
オペラオー自体が競い合いをしていないと判断し、
その見えていない馬に出し抜かれてしまうケースがあるのだ。
武井は分かっていた。
オペラオーは今、宇宙最強の敵に夢中。
ギャラクシーもまた、
未知の走りを見せる覇王に負けまいと視界が狭まっている。
過去観たこともない、灼熱の戦い。
観客や実況でさえ、その光景に酔いしれている。
「……だけどね。宇宙も過去も倒さないといけないんだ。
それこそが、僕たちの有馬記念……競馬なんだ」
武井の鞭が唸る。
マイデュースの蹄が、大地を深く、重く、踏み込んでいく。
二頭が浮いている今、地面を蹴っているのは自分たちだけ。
二頭が切り裂いた大気の奔流が背中を猛烈に押し上げる。
「空中戦でもやるのかな?」
ここまで武井の優しい目つきは変わらなかった。
だが、この大一番で本気となった天才の瞳が大きく膨張していく。
「ふざけるな、ここは地球だ!!
僕とマイデュースは……競馬をしに来たんだ!!!!」
これは競馬だ。地面を一番強く蹴った馬が勝つ。
ギャラクシーの後ろで溜めた脚。
二頭の死闘で発生した熱風による追い風。
勝利は今、武井とマイデュースを招いている。
「いくぞ!マイデュース!!
君が今年一番の馬だろぉぉぉぉぉぉ!!」
残り50メートル。
浮いた体勢から着地し、再び加速を見せる純白の皇帝。
ギャラクシーエンペラー。
同じく体勢を立て直し、
存在を燃やしながらも喰らい付く、泥だらけの覇王。
テイサスオペラオー。
そして、剥き出しの闘志で大外から強襲する現役最強。
マイデュース。
並び走る二頭と大外の一頭。
実況も観客も、どの馬が先頭なのか判断できないまま
叫ぶことしか出来ない。
「宇宙を見せろ!ギャラクシー!!」
「最強はお前だ!オペラオー!!」
「この1年を締めくくるのはマイデュースしかいねええ!!」
『ギャラクシーか!オペラオーか!マイデュースか!
ここまで来れば、意地の張り合いだぁぁぁ!!』
そこで初めて和田野は
大外を駆けるマイデュースを視認する。
(そうか、武井さんが来たか)
自分たちを抜き去ろうとしている。
負ける……そう思った瞬間。
透き通った黄金の相棒が、ニカッと笑った気がした。
(そうだよな、関係ないよな)
それは悲しむことではない。
己に挑む強者を好む、オペラオー。
それが、覇王にとって後輩であり
競馬界を託すに値する馬なら尚更だ。
(喜んでいるのか、オペラオー。
この時代にも競える相手がいて)
消えつつある脚が、
喜びに押されて、再び加速していく。
隣ではギャラクシーの鞍上、キュルテも武井の存在に驚嘆する。
自身の相手は、黄金と泥に輝く覇王だけではない。
ただの地球の馬と認識していた存在が、自分たちと同じ領域にいる。
(これが地球の競馬か!)
理論も、宇宙の常識も通用しない。
ただ速い馬が勝つという、シンプルな原理。
大外の武井は、既に優しさ溢れる仮面が砕け散り、
鬼神となってゴールを目指している。
マイデュースは弾丸のように大外を一頭で突き進み、
ギャラクシーとオペラオーは互いに火花を散らしながら競い合う。
「「「うおおおぉぉぉぉぉぉ!」」」
キュルテ、和田野、武井。
彼らの絶叫がゴールラインに轟いた。
どの馬が先頭なのか、それは誰にも分からない。
ただ、三つの意地だけが
同時に白いラインを駆け抜けた。
――長く険しい2500メートルが今、ここに終わりを告げた。
『三頭が同時にゴールイン!!
これは分からない!!勝利したのはどの馬なのか!!
勝敗は写真判定に託された!!』
その瞬間。
和田野の手の中から、手綱の感触が完全に消失した。
プツンと糸が切れたように、
鞍の下にあった温もりも、鼓動も、何も感じない。
「……え?」
オペラオーは既に粒子となっていた。
和田野は、オペラオーの消失と共に
100キロ越えの速度で投げ出される覚悟をして走っていた。
だが、和田野の身体は、ふわりと宙に浮いている。
――ドサッ。
まるで誰かの大きな手が、そっと添えられたように。
見えない風のクッションが、和田野を芝の上に優しく降ろす。
怪我ひとつない。泥が軽く付いただけ。
和田野は呆然と、自分の手を見つめた。
ついさっきまで握っていたオペラオーの命の重みがない。
「……俺のことなんかどうだっていいんだよ!!」
レースの後に俺の話を聞いてほしかった。
ただ、一言でもオペラオーと会話をしたかった。
撫でたかった、褒めてほしかった。語り合いたかった。
和田野は目から溢れる涙を拭うことも出来ずに、
悔しさで大地に拳を突き立てていく。
「……俺は、お前に伝えたかったんだ」
場内がざわめく。
地球対宇宙の有馬記念。
その結果の行方次第で、地球の終わり。
和田野を置いて、
地球の運命が賭けられた、その結果が発表される。
電光掲示板には「写真判定」の文字。
和田野は未だ顔を上げることが出来ない。
その時、フェンスを乗り越え、
係員を振り切って走ってくる影があった。
「和田野さん!!」
「シャケくん?」
シャケは泥だらけの和田野の肩を強く抱きしめ、叫んだ。
「顔を上げてください!泣いている場合じゃないです!」
「……結果はどうでもいい、あいつはもういない」
「いいえ、いますよ!……ほら、あそこに」
シャケが指差した先。
ビジョンにゴールする直前、ゴールした瞬間、そしてゴール後。
合計三枚の写真がスライドされていく。
一枚目、ゴール直前の写真では三頭が完全に並んでいる。
そして二枚目、ゴールした瞬間の写真では……。
マイデュースの鼻先だけがゴールラインを割っていた。
現役最強馬マイデュースと武井裕太の意地が
有馬記念を制していた。
――地球は守られた。
だが、場内の視線はそこにない。
最後の写真、三枚目。
ゴール直後、
光の粒子となって崩れかけ、
輪郭すらも曖昧になりながらも……。
カメラに向かってペロっと舌を出している、テイサスオペラオー。
『負けたけど楽しかったな、和田野』
そんな声が聞こえた気がした。
決して悲観的ではない、覇王テイサスオペラオー、最後の姿。
それを見届けると、
和田野は伝えたかった言葉を絞り出す。
「……ありがとう、オペラオー」
伝えたかったのは感謝。
頬から流れる涙は止まらない。
もう、悲しみの涙じゃない。
それは宇宙で一番カッコよかった
最高の相棒への感謝の涙だった。




