三 江ノ電の秘密の車両
それから四月七日——約束の日まで、どたばたの日々が始まった。
鎌倉総合魔法学校からの手紙には、転入に必要な手続きや学校生活を始める前にやっておかなくてはならない事などがびっしりと書かれていた。
お母さんは転校や転入などの手続きで大忙し。一方紗月は学校生活への準備で大忙しだった。
鎌倉総合魔法学校は全寮制らしい。紗月はまだ十歳になったばかりで、もちろんお母さんと離れて暮らしたことがない。
初めての寮生活を前に、不安でいっぱいだった。そして荷物もいっぱいだった。持っていくかばんと、キャリーケースに詰め込める量には限りがある。自分が持っている物を全部詰め込むことはできなかったので、なにを持って行こうか迷いに迷った。
あっという間に当日がやってきた。
紗月とお母さんは、飛行機と電車で前日の夜には藤沢市に到着して、ホテルで一泊した。当日の朝、お母さんが江ノ電の藤沢駅まで見送りに来てくれた。
朝の通勤、通学時間で、藤沢駅周辺は人が多かった。紗月は辺りを見回してみる。
「眼鏡に黒い長髪を後ろで結んでる男の人……あっ!」
七宮先生を見つけた。江ノ島で見たときとほとんど風貌が変わっていなかったので、わかりやすかった。えんじ色の和服がよく似合っていた。
「おはようございます、紗月さん」
七宮先生は優しい口調で挨拶した。紗月とお母さんも挨拶を返す。七宮先生は、それからしばらくお母さんと難しい話をしていた。きっと学校の手続きの話だ。取り残された紗月は、改めて七宮先生をじっと見てみた。体中から優しい雰囲気があふれ出している。ちょっと頼りなさすらある。あの日江ノ島で刀を突きつけてきた男と同じ人だとは、とても思えない。あのときの七宮先生はどこまでも冷たい声で、どこまでも冷たい顔をしていた。いまだに思い出しても、ぶるっと震える。
「では行きましょうか」
優しい七宮先生が言った。
紗月はお母さんの方を見る。その顔を見た瞬間、急に胸が苦しくなった。後悔のようなもやもやが、胸いっぱいに広がっていく。もう、しばらくお母さんに会えなくなる——。実感が襲ってくる。さびしくてたまらなくなる。
「元気でね紗月。たまには電話してね。春休みには帰ってくるのよ」
お母さんは強い眼差しを紗月に向けた。
「うん——行ってくるね、お母さん」
泣かないように必死にこらえる。次に会えるのはずっと先だから。頑張って、笑顔を作る。
紗月と七宮先生は改札を通り抜けて、江ノ電の一番後ろの四両目の車両に乗った。
改札の向こうから、お母さんは手を振り続けてくれた。
電車が動きだす。
紗月はお母さんが見えなくなるまで、手を振り返し続けた。
*
「本当は春休みの終わりに、市外から戻ってくる鎌倉総合魔法学校の生徒専用に江ノ電を貸し切って、特別な電車に乗って鎌倉市に入ります。ですが紗月さんの転入はイレギュラーで、そこに間に合いませんでしたので、一般の魔法使いが使う方法で鎌倉市に入ります」
電車に揺られながら、七宮先生が囁いた。他の乗客に聞かれないくらいの小さな声で。紗月は混乱する。
「でも、このまま座っていれば勝手に鎌倉に着くんじゃ?」
江ノ電は、鎌倉駅に向かって走っている。
「ふふ。さて——」
七宮先生は紗月に少し微笑んで、すくっと席から立ち上がる。
そのまま七宮先生は、車両の一番奥の行き止まりの場所まで歩いていく。紗月も先生についていく。
「ではこれから、魔法使いの秘密の車両に行きます」
七宮先生が小声で紗月に言った。
「えっ? でもこの向こうは運転席ですよ」
紗月たちが今立っているのは江ノ電の一番後ろの車両の一番奥だ。ドアはあるけど行き止まり。この奥には運転席しかない。
「いいですか、江ノ電に乗ったら、最後の車両の一番後ろの、運転席のドアの前に立ちます。そして二回、手を叩きます。紗月さんは、私の服を掴んでいてください」
紗月は不思議に思いながらも、言われた通りにした。
七宮先生は、運転席へ通じる開かないドアの前に立って、二回手を叩く。
パァン、パァン。
突然バッとドアが開く。風が吹き込んでくる。その奥には運転席ではなく、もう一つの秘密の車両が広がっていた。
びっくりして、思わず紗月は手を離す。その瞬間、七宮先生が消えた。開いたはずのドアも閉まっている。ドアの奥は、運転席。行き止まりだ。慌てて服があったはずの場所を掴みなおしてみると、七宮先生が現れる。ドアに目を向ける。開いている。その奥にはやっぱり、さっき見た秘密の車両が広がっていた。
「ふふ、面白いでしょう。手を叩いた人と、その人に触れている人にしか見えない秘密の車両です。後ろの乗客を見てみてください。気づいてないでしょう」
紗月は振り返って周りを見てみた。数人乗客が乗っていたが、誰も今開いたドアに、そしてドアの前に立っている私たちにも、気づいていないようだった。
七宮先生は奥の車両に入る。紗月もそれについて行く。二人が通ると、ドアが勝手に閉まる。
「紗月さんようこそ。ここが魔法使いの秘密の車両です。もしも外から鎌倉市に入るときは、この方法で入ってきてくださいね」
七宮先生はにっこり微笑んだ。
紗月は秘密の車両を見渡した。車両の形自体は普通の江ノ電と変わらない。乗客に目を移す。ええっ? 思わず声が出そうになって、とっさに口を手でふさぐ。
なんだこの人たち——?
大きな棍棒を背負った小柄なおじさん。真っ黒なローブに身を包み、耳のとがった銀髪の女性。頭に猫耳のようなものが付いている女の子。あっ、尻尾も付いてる。
すごい——。
紗月は実感した。紗月の知らない世界に足を踏み入れたんだということを。
二人は、他の魔法使いから離れた席に座った。
「一匹いかがですか?」
七宮先生は、鳩サブレーを紗月に渡した。電車で食べ物って食べていいんだっけ? と思いつつ、食べかすが落ちないように気をつけながら食べる。お土産で買って帰って、宮崎でお母さんと食べた鳩サブレーの味だ。お母さんがそばにいる気がして、少し心が落ち着く。
「さてさて、なにから話しましょうか」
先生はあごに手をやり、考え事をしている。
「まず伝えたいのは、紗月さん。あなたはとても珍しい存在だということです。つい最近まで魔法使いの存在を知らない者が、魔法学校に入学することはほとんどありません。ですから、紗月さんは知らないけれどみんなからすれば常識的なことがたくさんあります。なにかわからない事があったら、遠慮なく私に聞いてください」
今まさに江ノ電の秘密の車両にびっくりしたし、乗っている魔法使いの外見にびっくりしている。
「鎌倉市には、私たち〝ヒト族〟とは異なる、いろいろな魔法使いの種族が住んでいます。例えばあそこに座っている、大きな魔法の棍棒を持った小柄な男性。彼は〝ドワーフ〟です。ドワーフはとても力持ち。その奥の黒いローブの、耳の長い女性は〝エルフ〟。寿命の長い種族です。そこから左に座っている、猫耳の女の子は〝猫憑き〟ですね。〝憑人〟と呼ばれる、動物の特徴を持った種族の中の一つです。憑人、特に〝狐憑き〟と〝狸憑き〟は、古来より日本に住んでいる魔法使いの種族です」
紗月は、新しい情報をできるだけ頭に詰め込もうと努力した。
「そして、私たちが今向かっている鎌倉市は、ほとんど魔法使いだけが住んでいる土地です。今説明したエルフやドワーフ、憑人などもたくさん住んでいます」
「えっ?」
びっくりして聞き返してしまった。鎌倉市はほとんど魔法使いだけが住んでいる土地?
「表向きには普通の市です。ですが本当は、魔法使いが住む魔法使いのための市です」
「この前江ノ島に行ったとき、少し鎌倉も観光したんですけど、別に普通だった気がします——」
紗月は興奮気味に聞いた。
「それはね、入り方の問題です」
七宮先生は優しく微笑みながら言った。
「入り方?」
「鎌倉市には強い古の結界が張られています。外部の者がその結界の中に入ると、〝魔法にまつわるもの〟に対して、強い錯乱の魔法がかかります。見えなくなったり、別のものに見えたり。例えば魔法使いが魔法を使っていても、それが魔法だとは気づかなくなります。空を飛んでいる魔法使いを見ても、鳥に見えるらしいですよ。ドワーフを見ても、背負っている魔法の武器には気づきません。エルフの長い耳も、普通の耳に見えます。憑人の耳や尻尾についても、きれいさっぱり見えなくなります。ですから観光客が来ても、大丈夫なんです」
「じゃあ私、外から来たから、鎌倉市では魔法が見えないんですか?」
紗月は少し不安になる。
「そこがミソです。鎌倉市以外にも魔法使いは住んでいます。そういう魔法使いが普通の方法で鎌倉市に来ても、鎌倉の強い結界は反応して錯乱の魔法をかけてしまいます。それを避けるために、外から来た魔法使いが、結界をすり抜ける方法がいくつかあります」
「あっ。それが……この車両?」
「正解です」
七宮先生はにっこりと笑った。
「この秘密の車両の中で鎌倉市に入ると、錯乱の魔法はかかりません」
だからわざわざこの車両に入ったんだ。紗月は納得した。
江ノ電はしばらく民家の間を走っていたが、急に視界が開けた。窓の向こうに海が広がった。
「わあ」
美しい光景だった。紗月は、その景色にしばし見惚れていた。
「これから紗月さんにはクラス分けテストを受けていただきます」
「テスト?」
寝耳に水だった。
「鎌倉総合魔法学校には初等部、中等部、高等部とあり、一学年ごとに、必ず三つの組に分かれています。壱組。仁組。讃組です。紗月さんは、もちろん初等部の五年に転入します。ですが組はまだ決まっていません。これからテストを受け、成績さえ良ければ、希望の組に入ることができるのです」
七宮先生はメモ帳に書いた図を見せながら説明しはじめた。
「組はとても重要です。例えば学生寮。組ごとに寮が分けられています。基本的には、同じ組の者たちで共同生活を送ることになります。年末の体育祭では、組ごとに学校が三つに割れ、優勝を争います。学校の制服の色も、制服につける組章も違います」
紗月は、テストと聞いてからそのことで頭がいっぱいだったが、必死に説明を聞く。
「組にはそれぞれ古い歴史があり、特色があります。壱組は競争心を重んじています。〝高みを目指すことで、人はより成長する〟が級訓です。実際、高等部壱組の卒業生には社長さんや偉い人が多いです。ふふ。クラス分けテストでは、壱組は常に一番人気で倍率も圧倒的に一番高いです。そしてここだけの話……卒業生からの寄付で、寮が一番豪華です……」
七宮先生は声を潜めて言った。
「仁組は道徳心を重んじています。〝与えることで、人はより成長する〟が級訓です。優しい生徒さんが多いように感じますね。讃組は冒険心を重んじています。〝困難に立ち向かうことで、人はより成長する〟が級訓です。我らが讃組の生徒さんは、みんな元気で活発ですね」
「我らが?」
紗月は、七宮先生の言い方に少し引っかかった。
「はい。なにしろこの私、讃組の担任ですから。今年は初等部の五年讃組を担任します。紗月さんも、クラス決めに迷ったらぜひ讃組へ」
七宮先生はにっこりと紗月に微笑んだ。なんだかよくわからないけど、讃組に行けたら良いな、と紗月は思った。
「本来クラス分けテストは三年に一度の間隔で行います。初等部は一年生と四年生の進学時に。中等部と高等部はそれぞれ一年生の進学時に。特に、高等部進学時に行われる、最後のクラス分けテストは毎年熾烈を極めます。就職や進学に直結したりするので……」
なぜだか七宮先生は、ばつの悪そうな顔をした。
「とにかく、紗月さんは転入生ですので、少々イレギュラーですが、今日クラス分けテストを行い、今日組が決まります」
「先生……」
さっきからずっと考えていた不安を、七宮先生に打ち明ける。
「もしもテストの成績が悪くて、どの組にも入れなかった場合は……退学ですか?」
七宮先生はクスクス笑いだした。どうやら退学ではないらしい。
「大丈夫ですよ。どこかの組には必ず入れます。安心してください」
それを聞いて紗月はホッとする。肩の力が抜ける。そのままぼうっと窓の外の海を眺める。右奥の方に江ノ島が見えた。灯台のある、普通の江ノ島だ。
紗月はゆっくりと電車に揺られていった。
「そうそう紗月さん、紗月さんが江ノ島に入ったことは、内緒でお願いします」
七宮先生はよりいっそう声のトーンを落として、紗月に囁いてきた。
「えっ、江ノ島って観光地ですよね?」
紗月は首をかしげた。
「それはそうなんですが……。私が言っているのは、観光地としての江ノ島ではなく、紗月さん、あなたが招かれた御神木のある江ノ島の方です」
「御神木?」
「はい。紗月さんも覚えているでしょう? 江ノ島にそびえるあの一際大きな木を。御神木がある方の江ノ島に入ったことは、くれぐれも秘密でお願いします」
「……わかりました。でもなんでですか?」
なんだか腑に落ちなかった。紗月はそもそも、あの場所のことをよく知らない。
「御神木のある本当の江ノ島は、〝聖地江ノ島〟と呼ばれています。聖地江ノ島に入ることができる者は、魔法使いの中でも滅多にいないんです。もしも紗月さんがあちらの江ノ島に入った事を言いふらしてしまうと、いろいろとまずいことになります」
「いろいろとまずいこと?」
「例えば、そうですね……、命を狙われたりするかも——」
ゾッとして七宮先生を見た。いつものニコニコした顔ではなかった。真剣な眼差しで紗月を見つめている。紗月は、江ノ島で最初に会ったときの七宮先生を思い出した。ぞわっと鳥肌が立つ。
「わかりました。言いません」
紗月は言わないと心に誓った。七宮先生の表情から、本当に危ないんだということが伝わってきた。
電車が駅に停まった。七宮先生は立ち上がらない。ここはまだ目的の駅じゃないらしい。窓いっぱいに海が広がっている。青空の中、わたあめみたいに美味しそうな雲がぽつんと浮いていた。その雲をぼんやりと見ながら、ふと思い出した事を七宮先生に聞いてみる。
「そういえばあの日。私、江ノ島に行く前に、龍を見たんです」
「龍を? もう数百年、このあたりに龍は現れていないはずですが」
「あの、もしかしたら見間違えかもしれないですけど……」
七宮先生は考え事をし始めたようで、それ以上なにも言わなかった。紗月も、なんだか気まずくて、それ以上なにも話しかけなかった。代わりに、景色をずっと眺めて過ごした。
水面に太陽がキラキラと反射している。
空は吸い込まれそうな青さだった。




