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二十一 鬼ノ面

 楓とビクトールの叫び声が、鎌倉の空に響き渡る。

「きゃあああ!」

「落ちるうう!」

 余裕そうなエレナと、絶叫する楓とビクトールは、村雨にくくりつけた紐にぶら下がっていた。かなり無理がある。でも、なんとか村雨は空を飛んでいる。

「吾輩をなんだと思ってる! 飛行機ではないのだぞ!」

 村雨が怒っている。ごもっともだと思った。またがっている紗月も、バランスを取るのに精一杯だ。

 ブチッ。紐の片側が切れた。

「ぎゃあああ!」

「終わりだああ!」

「やばい! 紐がちぎれる! 誰かなんとかしてええ!」

 紗月が叫んだ。エレナの指輪が煌めく。

「浮かべーッ!」

 ふわっ。軽くなる。エレナが下の三人に魔法をかけたみたいだ。完全に浮かびはしないものの、かなり動きやすくなった。そのまま三人をぶら下げて、村雨と紗月は江ノ島を目指す。紐、千切れませんように。

 

          *

 

 紗月たちは江ノ島の前の砂浜に降りた。なんとか紐は千切れなかった。ビクトールがぐったりとしている。楓は放心状態だ。

「エレナ、助かったよ。さっきの魔法」

「でももう帰りは使えないかも。私もう魔力すっからかんだよ」

 エレナが指輪を見つめながら言った。よし、帰りは歩いて帰ろう。

「し、しまった」

 意識を取り戻した楓が青ざめる。

「私たち、そもそも聖地江ノ島に入れないじゃん」

「——いや」

 エレナが呟く。驚くような、おそれるような顔をする。

「入れるかも」

 紗月たちの目の前。江ノ島から灯台が消えていた。橋もない。海が割れていく。あのときと同じだ。紗月たちの前に、聖地江ノ島へと続く道が現れた。

「すごい」

 ビクトールがあっけに取られたような顔をする。

「嘘でしょ……」

 楓が信じられないという顔をする。

 それから四人は、導かれるように聖地江ノ島へ渡った。

 

          *

 

 島は驚くほど静かで、不気味だった。前に来たときと、明らかに雰囲気が違っていた。

 石畳の上になにかが落ちている。黒い影。紗月は目をこらしてそれをよく見る。背筋が凍った。

「三条先輩!」

 無我夢中で駆け寄る。三条先輩はうつ伏せでぐったりとその場に倒れていた。反応がない。ビクトールが応急処置の魔法をかけようと、三条先輩を仰向けにする。

「ひっ」

 ビクトールが叫びそうになって口を抑える。楓は悲鳴をあげた。紗月は恐怖で、声も出せなかった。

 三条先輩の顔には〝鬼ノ面〟がぴったりと張り付いていた。

 反射的に紗月は〝鬼ノ面〟を掴む。三条先輩から一刻も早く取り外そうとする。

「うそ……? 取れない! 取れない!」

 叫びにも似た声で、紗月が訴える。手にどれだけ力を込めても、〝鬼ノ面〟は張り付いたまま、三条先輩の顔から離れない。

「と、とにかく三条先輩を運び出そう。かなり衰弱してるよ。僕なんかじゃどうしようもない」

 魔法を施しながら、ビクトールが心配そうに言う。

「——みんな」

 エレナが島の奥を指差す。白い髪の青年が石段を降りてきているところだった。手にはなにか、本のようなものを抱えている。

 紗月はその青年と目があった。白い髪の青年は、紗月だけを見つめて、静かに微笑んでいた。

「ひさしぶり」

 青年がそう呟いた。それはたしかに、紗月に向けて放った言葉だった。

「やっぱり紗月は……」

 私の名前を知ってる?

「うわああーっ!」

 突然、悲鳴が聞こえた。ビクトールだった。紗月が声の方に振り返ると、目の前に三条先輩が立っていた。〝鬼ノ面〟はその顔にぴったりと張り付いたまま。両手はだらんと力が抜けている。意識が戻っていない。

「長く付けすぎたんだ! 〝鬼ノ面〟に完全に取り込まれてる! みんな逃げて!」

 楓が叫ぶ。と同時に、紗月は恐ろしいものを見た。三条先輩が〝鬼ノ面〟に持ち上げられるように宙に浮かぶ。〝鬼ノ面〟から、なにか血のようなものがあふれ出てくる。それらが三条先輩の体にまとわりつき、膨れ上がり、巨大な赤い体を形作る。紗月の口から、言葉にならない悲鳴が漏れる。現れた化け物、それは紛れもなく——赤い鬼だった。

 楓が言ってた〝鬼ノ面〟の力。我を失うほどの苦しみと引き換えに、鬼の力を得る——。その意味が今わかった。鬼に体を乗っ取られるってことだったんだ——。

「紗月!」

 叫ぶような村雨の声。悪寒が体を駆け回る。鬼が両手を大きく振り上げ、紗月に目がけて振り下ろした——

「村雨守ってッ!」

 とっさに村雨を突き出す。村雨の結界と、鬼の手が激突する。体が壊れるかと思うような衝撃。刀を持つ両手の感覚がなくなる。それでも足でふんばって、なんとか鬼の手を結界で防ぐ。

「だめ! 逃げて紗月! 鬼は、結界をこじ開ける——」

 楓の叫び声。と同時に、紗月は指先を見た。赤い指先。結界の内側。紗月の目の先。その赤い指先が、村雨の結界をぐいとこじ開ける。現れたのは鬼の顔。口元がゆがみ、笑っている。鬼の口が大きく開く。無数の牙、その先に広がる暗闇。紗月は恐怖で体が動かない。

「紗月! 吾輩を鞘から抜け! 切らねば食われるぞ!」

 村雨の声も届かない。完全に体が固まって動かない。そのまま大きな口がゆっくりと近づいてくる。ああ、食べられる——。そう思ったときだった。後ろから飛んできた炎の塊が鬼の口に直撃し、爆発する。

「紗月!」

 その衝撃で、後ろに吹き飛ぶ。楓とビクトールが紗月を受け止める。

「みんな、逃げて」

 目の前に立っていたのは、エレナだった。

「私たちがかなうわけない! エレナも逃げて!」

 楓が力いっぱいに叫ぶ。声が震えていた。

「あたしは大丈夫! 早く!」

 嘘だ——。魔力だってもうないのに。とっさに紗月の脳裏に浮かんだのは、初めてお母さんに電話した夜。先生に見つかったとき、エレナは大丈夫と言って、自分だけ犠牲になろうとした。今も、そうだ——。鬼がぎらりとエレナに目を向ける。エレナの指輪が弱々しく光り、二発目の炎の塊を飛ばす——が、片手で消し飛ばされる。余った鬼の手が、エレナに襲いかかる——。紗月は考えるより先に、体が動いていた。

「エレナーッ!」

 ビクトールと楓の元を離れ、エレナに力いっぱい飛びつく。その勢いで、エレナは鬼の手を間一髪、避ける。鬼は、その場に倒れた二人を見下ろして、笑った。まるで楽しんでいるみたいに。鬼が手を振り上げる。次はもう、避けられない——。

 その瞬間。紗月の目に映り込んだのは、九つの尾。いつの間にか大きな狐が、エレナと紗月を庇うように立っていた。掘り下された鬼の手に向かって大きく口を開け、その牙で受け止める。鬼の手が砕ける。

「みなさん、下がっていて」

 後ろから声がした。振り返る。そこにいたのは七宮先生だった。狐の隣に並び立つ。

「七宮、こいつ普通の鬼じゃねえ。誰かに取り憑いてやがる」

 砕けた拳に牙を食い込ませながら、大きな狐が声を上げる。紗月はそのときようやく、この狐が九尾様だと気づいた。七宮先生はなにも言わない。その代わり、懐から巻物を取り出してバッと広げる。

「悪鬼風情が、私の生徒になにをする——」

 いつもの声じゃない。冷たく、残酷な声。この島で初めて七宮先生に会ったときの、あの声だった。指輪が煌めく。巻物の文字が呼応するように光り、消える。と同時に、雷鳴。紗月は反射的に空を見上げる。さっきまで絶対になかったはずの雷雲が、真上に現れていた。稲光。一瞬雲に怪物のような影が映る。七宮先生は目をつぶり、願うような声で小さく呟く。

「——急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう

 視界が真っ白になる。それが雷だと気づくのに、少しかかった。巨大な雷が、鬼に落ちた。轟音で、耳が壊れそうになる。衝撃で、体が砕けそうになる。それはあっという間の出来事だった。すぐに音が止み、白んだ視界がだんだんと景色を映しはじめる。

 先ほどまでいたはずの赤い鬼は消えて、三条先輩が倒れていた。〝鬼ノ面〟は、真っ二つに割れて、そばに落ちている。七宮先生と九尾様は、すぐに三条先輩の元へと駆け寄った。でも紗月は、しばらく立ち上がれなかった。他の三人も同じだった。

 体のあちこちが痛む。手が震えてる。自分の心臓の鼓動が聞こえる。息を吸って、吐いている。両目も景色を映してる。私、生きてるみたいだ。どうにか、生きてる。

 そうだ——。紗月はハッとして周りを見回す。

 さっきの青年は、もう姿を消していた。

 

          *

 

「うっわー、死ぬかと思った」

 仰向けに転がっているエレナが、夜空を見ながら呟いた。その場に座っていた楓は、うつむきながら口を開く。

「……エレナ、私たちを命がけで逃がそうとしたでしょ。そんなの、いやだよ。紗月も、無茶、しないでよ」

 楓の声は震えていた。

「でもさ、みんな生きてるじゃん! 良かった!」

 エレナが顔を三人に向けてニコッと笑う。その笑顔を見ていると、毒気が抜かれたように、体の震えが落ち着いてくる。エレナの笑顔は、いつだって魔法みたいだ。

 その笑顔を見つめていると、目が合った。するとエレナは、少し真面目な、ちょっと恥ずかしそうな顔をする。

「紗月、ありがとう」

「えっ?」

「紗月がいなかったら、あたし死んでたかも」

「私だってエレナが助けてくれなかったら——」

 無数の牙と、その奥に広がる闇。思い出しただけで身震いがする。

「じゃあ、おあいこだね」

 エレナはニコッと笑った。

「——エレナ覚えてる? 一緒に夜抜け出して電話しに行ったとき、結局罰を一緒に受けたでしょ。トイレ掃除」

「ああ、懐かしい。したね」

「だから一人で犠牲になろうなんて、もう思わないでよ」

 エレナはなにも言わない。紗月の言葉に、静かに耳を傾ける。

「エレナ。死ぬなら一緒だよ」

 エレナが吹き出した。紗月は大真面目に言っているつもりだったけど、だんだん恥ずかしくなってきて、笑った。

「とにかくみんな無事で良かったよ。あとは——」

 そう言いながら、ビクトールが立ち上がる。紗月もふらつく足で立ち上がる。心配なのは——三条先輩。

 

          *

 

 三条先輩は七宮先生に担がれて、九尾様の背中に乗せられているところだった。

「ではよろしく頼みましたよ」

「帰ったら供物をたっぷり用意しとけよ」

 そう吐き捨てると、九尾様は三条先輩を背負ったまま、風のように駆けていった。紗月は三条先輩のことを思って、心配になる。それを察したように、七宮先生が口を開く。

「大丈夫です。命に別状はありません。式神に病院へ運ばせました」

 いつもの優しい七宮先生の声色だった。命に別状はありません——。その言葉を聞いて、一気に肩の力が抜ける。

「七宮先生、ありがとうございました」

 楓が頭を下げる。紗月たちもお礼を言う。

「いえいえ。それよりみなさん、怪我はありませんか?」

 優しい七宮先生の言葉が、心に染み込んでくる。みんなが無事なのを確認すると、七宮先生はホッとしたように胸をなで下ろした。

「七宮先生は、なんでここがわかったんですか?」

 エレナが不思議そうに尋ねた。

「それは……ビクトールさん、手を広げてください」

 七宮先生はなぜかビクトールに声をかける。

「あっ……」

 ビクトールがなにかに気づいて、手を広げる。手の中にあったのは、お守りだった。紗月は思い出す。いつか中庭で、七宮先生がビクトールに渡したお守り——。

「ビクトールさんのお守りが知らせてくれました。それはうちの神社の特別なお守りで、持ち主が心の中で強く助けを願うと、私に伝わるようになっているんです」

 ——ビクトールが握っていたお守り。それは紗月たちを助けた救世主だった。

「でも、どうやって入ったんですか? 私たちも、なんで入れたかわからないけど……」

 眉を寄せる楓に、七宮先生が優しく笑いかける。

「うちの神社は——ここですから」

「えっ?」

 みんなが七宮先生の顔を見る。

「七宮家は代々、聖地江ノ島を守護してきました」

 だからあの日も、七宮先生は聖地江ノ島にいたんだ——。納得する。と同時に、伝えなくてはと気づく。

「もう一人、男がいたんです。白い髪の男の人。いつの間にかいなくなってたけど……。その人が三条先輩を使って無理やりここに入りこんで、私たちはそれを追って——」

 七宮先生の顔から笑顔が消える。懐から紙人形を取り出し、なにかを語りかける。するとその紙人形は意思を持ったようにうなずき、七宮先生の手を離れ、島の奥の方へ飛んでいった。

「聞きたいことは山ほどありますが、それはまた明日にします。今日は帰って休んでください。寮まで送りましょう」

「私——病院に行きたいです」

 紗月は思ったのと同時に声に出していた。やっぱり三条先輩が、心配だった。そばにいたかった。エレナも楓もビクトールも、同じ気持ちだった。みんな口を揃えて、病院に行きたいと伝える。七宮先生は困ったように頭をかく。

「……わかりました。では、一緒に行きましょう。その代わり、話もたっぷり聞かせてもらいます」

 紗月は、七宮先生から思わず顔をそらす。誓約書が、頭に浮かんだ。

 

          *

 

〝鎌倉病院〟と書かれた看板を目印に、敷地の中に入る。コンクリートの坂道を登り、一般客用の入り口を通り過ぎて、奥のひっそりとした関係者用のドアを開ける。薄暗い廊下をまっすぐ進んで、広くて明るい部屋に出る。そこは魔法使い専用の待合室だった。深夜だが、ぽつりぽつりと診療を待つ魔法使いの姿がある。

「急患! 急患です!」

 担架に運ばれてきたのは、体中がビリビリして、顔が赤くかぶれた男の人だった。なんだかとても、幸せそうに見える。

「かみなりわた雲あめの過剰摂取による、かみなりわた雲あめ中毒です!」

 看護師さんが大声で病名を宣言しながら、奥へ消えた。紗月はもうかみなりわた雲あめを食べるのはやめようと思った。

 村雨やビクトールの大木槌は受付で預けて——いくら鎌倉市といえど病院の中に物騒なものは持ち込めないみたいだ——三条先輩の病室へ向かった。病室は二階にあった。四人は三条先輩のベッドに駆け寄る。点滴に繋がれ、病室のベッドに横たわる三条先輩は、ひどくやつれているように見えた。意識はまだ戻っていない。でも、生きている。良かった。本当に、良かった。また、涙が出そうになる。

「お前ら病室で走るんじゃねえ」

 後ろから声がした。振り返ると、クリス先生の姿に変身した九尾様がいた。きっとその姿で病院の受付をしたんだと思った。突然のクリス先生に驚くエレナと楓とビクトール。

「クリス先生?」

「クリス先生がなんで?」

「クリス先生だ!」

「九尾さ——」

 光の速さで紗月の元に駆け寄り、喋りかけた口を塞ぐ。そして小声でまくしたてる。

「馬鹿が! 〝クリス先生〟と呼べ! バレるだろうが! それともお前マジで喰われたいのか?」

 今さっき病室で走るなって言ってた人が、誰よりも速いスピードで走った。と思いつつ、喰われたくないので黙っている。

「いやあ七宮先生に呼ばれて、三条さんの見舞いに来てたんだよ」

 三人に向かって、すごい不自然な笑顔で、すごい無理やりな言い訳をする。でも、三人はそれで納得したみたいだった。

 そのとき、病室の外で医者と話していた七宮先生が、ドアを開けて入ってきた。

 七宮先生は紗月たち四人をゆっくりと見回して、口を開く。来る、と紗月は思った。

「さて、では初めから話してください。なにがあったのか」

 一気に空気が重くなる。誓約書が頭に浮かぶ。どこまで話して良くて、どこまで話してはいけないのかわからず、紗月たちはなにも言えなくなる。沈黙が流れる。クリス先生は、病室の隅の椅子に座り直す。紗月たちから喋りはじめるのを待ちながら、病室をてくてく歩いていた七宮先生が、ふと立ち止まる。目の前の机には、三条先輩の所持品が並べられていた。割れた〝鬼ノ面〟や、鍵束。ポケットにしまっていたであろうメモ帳。ボールペン。紙切れ。

「みなさんがなにも話せない理由。もしかして、これが原因ですか?」

 机から、紙切れをつまむ。

「あっ!」

 思わず声が出る。それは紛れもなく、誓約書だった。三条先輩が持ってたんだ。

「いやーな呪いがこもってますね」

 七宮先生はその紙切れを開いて内容をまじまじと見ながら、困ったように眉毛を八の字にゆがめる。

「本当はこういうのダメなんですよ。えいっ」

 七宮先生の指輪が煌めく。手からバチバチと電気があふれ出し、持っていた誓約書が一瞬で炭になる。さっきまで誓約書だった炭は、さらさらと音を立てて塵となり、消えた。

「——これで、もう呪いは消えましたよ」

 四人は顔を見合わせる。無言でうなずく。もう、話せる。話そう。そう心に決める。

「実は——」

 

 紗月たちは事情を一から説明した。七宮先生は椅子に座って、静かに話を聞いていた。

 説明すればするほど、七宮先生の顔は曇っていった。説明すればするほど、紗月は自分たちだけで突っ走ってしまったことを後悔した。でも、どうしようもなかったとも、思う。それでもなにか、他に方法があったんじゃないか。そんな葛藤が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。

「これがその〝ファイル〟です」

 楓が七宮先生に〝ファイル〟を渡す。〝ファイル〟を持つ手が、少し震えている。

「あの、三条先輩は……捕まっちゃうんですか?」

 ビクトールがうつむきがちに聞いた。

「正直、これは重罪です。学校は最低でも退学。三条さんは法律で裁かれるでしょう。呪具を持ち出されてしまった三条家自体にも責任は波及していくでしょうし、かなりの大問題になることは明らかです」

「そんな……」

 紗月は泣き出しそうな顔でうつむく。結局、自分はなにもできなかった。考えれば考えるほど、苦しくなる。

「なので——」

 七宮先生が手を叩く。

「なかったことにしましょう!」

 とんでもないことを言った。あっけに取られる四人。すたっと立ち上がる七宮先生。

「クリス先生。一緒に証拠隠滅しにいきましょう。他の文芸部の手当てもしないと」

 証拠隠滅。やっぱりとんでもないことを言っている。でも紗月には、七宮先生が神様に見えた。胸が熱くなる。

「わかってるよな?」

「プラス五十匹でお願いします」

「よし——」

 声だけを残して、もうクリス先生は消えていた。

「みなさん、この夜起こったことは、くれぐれも、内緒ですよ」

 七宮先生はいたずらっぽく微笑んだ。目を潤ませながら、紗月は答える。

「はい、絶対言いません」

 紗月の目から、涙がこぼれ落ちる。感情がぐちゃぐちゃだった。でも、嬉しかった。本当は嬉しがってはいけないのかもしれない。もう、わからない。でも、三条先輩が助かるかもしれないことが、嬉しかった。

 こぼれた涙を手でぬぐう。前を向くと、もう七宮先生はいなかった。

 

          *

 

「ほんとに証拠隠滅なんてできるのかな?」

 取り残された四人は、しばらく椅子に座って静かに三条先輩を見守っていた。紗月と楓は泣いていた。鼻をすする音が病室に響いた。病室にあった箱ティッシュを紗月に渡しながら、エレナがそう呟いた。

「わかんない……でも七宮先生って、思ったより、たぶんすごい魔法使いなんだね。さっきの魔法、すごかったし」

 そう言ったビクトールは、靴を脱いで椅子の上で体育座りをしている。なんだか心細そうだった。

「たぶんなんてものじゃないよ」

 涙がおさまってきた楓が口を開いた。目はまだ少し赤かった。

「さっきのは〝陰陽術〟。しかも相当高度なものだと思う。私たちが今習ってるのは、基本的に西洋から伝来した〝魔術〟が元になってる魔法だけど、あれは日本で独自に発展してきた魔法。あの雷、まるで本物だった。本当に怖かった。雲の上になにかいたの気づいた? 式神って言っていた大きな狐も、明らかに妖怪だった。妖怪は人を食い殺すんだよ。あの鬼みたいに——」

 楓は思い出したように、ぶるっと震えた。

「もしかしたら〝ファイル〟を元に戻して全部なかったことにできるのかもしれない。あれだけの陰陽術を扱える七宮先生なら。わからないけど」

 わからないけど——。行き先を無くしたみたいに、その言葉が病室に響いた。病室がしんと静まる。なにも話さないでいると、また不安が押し寄せて頭をいっぱいにする。

 

 無性に外の空気を吸いたくなって、紗月は立ち上がって病室を抜けた。廊下を歩き、階段を降りて、待合室に出る。受付では、さっき急患で運び込まれた魔法使いがもう料金を払っていた。かみなりわた雲あめ中毒でビリビリしていた人だ。あっという間に元気になったみたい。三条先輩も早く元気にならないかなと思う。男の人は元気そうなものの、赤くかぶれた顔はまだ治っていない。その顔をじっと見ていると、さっきの赤い鬼のことを思い出す。〝鬼ノ面〟のことを思い出す。聖地江ノ島でのことを思い出す。「ひさしぶり」と呟いた、あの青年のことを思い出す。ボロ切れのように倒れていた、三条先輩を思い出す。三条先輩の、起源魔法を思い出す。気分が悪くなって、逃げるようにその場をあとにした。

 外に出ると、さっきと同じ、明るい満月が紗月を照らす。まるで何事もなかったみたいに、いつも通りの月と夜空。紗月はぼうっとそれを眺めた。今日の夜に起きたことが、全部無くなっちゃえばいいのに。ぼんやりとそう思った。

「紗月さん」

 突然声をかけられてびっくりする。七宮先生が歩いてくるところだった。

「七宮先生! 学校は?」

「終わりましたよ。たぶん、大丈夫です」

 七宮先生は親指を突き立てて大丈夫そうなポーズをした。紗月は逆に心配になる。

「クリス先生は——ああ、紗月さんには九尾ってバレてるんでしたよね、さっき九尾がそう言ってました。九尾は他の文芸部を病院に運んでもらっています。まあとにかく、大丈夫です」

 念を押すようにそう言った。うつむく。乾いたコンクリートの地面をじっと見つめる。七宮先生の「大丈夫です」が、頭の中で反響する。

「……江ノ島にいた白い髪の人は、だれなんですか?」

 七宮先生は少し考えてから、静かに答えた。

「わかりません。ですが聖地江ノ島の宝物殿にある〝本〟が目的だったようです。ようするに泥棒です」

「本?」

「ああ、えっと、この話はこれでおしまいです」

 ばつが悪くなって、七宮先生は無理やり話を切り上げる。思いつめた顔になる。

「……紗月さん、今日はきっと辛い経験をたくさんしてしまったと思います。いや、今日だけじゃない。文芸部に入部することになった日から、きっとたくさんです。担任として、申し訳ない」

 その言葉にびっくりして七宮先生の顔を見る。七宮先生は頭を下げていた。

「やめてください! それに七宮先生は助けてくれたじゃないですか」

「最後だけです」

 七宮先生の顔は、真剣だった。真剣に謝っている。その顔を見ると、紗月はますます自分が嫌になる。

「……私、三条先輩を止められませんでした。止めようとしたのに、なにもできませんでした」

「そんなことはありません」

 七宮先生が優しく否定する。余計に苦くなる。うつむく。止まっていた涙が、またこぼれ落ちてくる。ぽつり、ぽつりと、コンクリートに落ちる。

「エレナはあんなにたくさんの先輩を足止めしてくれて、ビクトールと楓はあんなに怖いドーン先輩に立ち向かって、私、託されたのに。託されたのに。なにもできなかった。なにもできなかったんです。魔法の才能もないくせに、みんなを巻き込んで。自分で止める力もないくせに、文芸部を止めたいなんて言っちゃって。そもそも私がしようとしたことは本当に正しかったのか、もう、わかんなくて——」

「自分がしたことが正しかったのか。それは、難しい問題です。それがわかるのはすぐかもしれないし、ずっと先かもしれない。正しくないと思ったことでも、あとからやっぱり正しかったと思うことだってある。私も毎日、自問自答しています。後悔することだっていっぱいあります。それでも、自分で選んでいくしかないんです。それが人生ですから。ただ、これだけは言えます。紗月さんは、悪くない」

 七宮先生の言葉が、胸に染み込んでくる。安らぐ。苦しくなる。

「——それと、紗月さんには魔法の才能がありますよ。素敵な起源魔法だって持っています」

 七宮先生はにっこりと笑った。

「私、起源魔法なんてまだありません」

「あります」

 それは強い確信の声だった。七宮先生の声の力強さに、思わず顔を上げる。

「紗月さんの起源魔法は〝引き寄せる魔法〟です」

〝引き寄せる魔法〟?

「最初にその魔法を感じたのは、紗月さんと初めて会ったとき。島で祈祷していた私はかすかに、なにか不思議な力に引き寄せられるような感覚になりました。導かれるように、御神木の方へ向かいました。私はびっくりしました。あなたがいたんですから。それからも同じような感覚に度々なりました。覚えていますか? 最初の社会の授業。紗月さんを私のチョークがかすめたでしょう? あれ、本当に手が滑っただけなんです。なのに、軌道が曲がるように紗月さんの方へ吸い寄せられた気がしました。そのとき、これは起源魔法なのだと思いました」

 まだ自分には、起源魔法が発現していないんだと思っていた。七宮先生の話に、驚きを隠せなかった。

「極めつけはあの日本刀です。最初に見たときはびっくりしました。あの刀、堀須雑貨店にあったものですね? 強力な〝触れずの呪い〟がかかっていますよね。それなのに紗月さんがあの刀に触れるのは、おそらく紗月さんの起源魔法が刀の呪いを相殺しているからです」

 紗月はびっくりして口を開いた。

「なんで村雨のこと知ってるんですか? 触れないこともなんで?」

「——私も小さいときに、あの店で掴もうとしたので」

 七宮先生は無邪気に微笑んだ。

「ずっと引っかかっていたんです。なぜあなたが聖地江ノ島に招かれ、入れるのか。その起源魔法が原因なのだと思います。無意識のうちに、島への道を引き寄せてしまったのかなと。ひょっとしたら鎌倉総合魔法学校への転入も、あなたの起源魔法が引き寄せた出来事なのかもしれません。不思議な、素敵な起源魔法です」

 あのときの紗月は、たしかにどこかへ逃げ出したくてたまらなかった。ゆっくりと実感が湧いてくる。私の起源魔法。〝引き寄せる魔法〟。

「紗月さんは勇敢に立ち向かいました。文芸部にも〝鬼ノ面〟にも。だから胸を張って。讃組の級訓は〝困難に立ち向かうことで、人はより成長する〟です。たしかに危険だったかもしれない。それでも私は、自らの頭で考え、その手で答えを選び、その足で困難に立ち向かったあなたたちを——称讃します。そして、自分を責めないで。あなたは私の生徒なんですから。良くないことは、私に全て責任があります。まあ、証拠隠滅してきちゃったんですけどね」

 七宮先生は目を細めて、いたずらっぽく笑った。紗月も笑った。心の中のモヤモヤとした気持ちが、いつの間にか、すっかり小さくなっている。温かい気持ちに包まれる。

「七宮先生、ありがとうございます」

 頭を下げる。紗月は、讃組に入れて良かったと、心から思った。

「いえいえ。そろそろ三条さんのご家族の方が来られるはずです。紗月さんたちは寮に帰りましょう。送ります。私も家に帰って、供物の準備をしないと」

 供物。そういえば九尾様がそんなことを言っていた。紗月はぞわっとした。楓が言っていたことを思い出す。妖怪は人を食い殺す——。

「供物って生き物……もしかして、人間ですか?」

 七宮先生は「えっ?」と驚いて目を見開いた。そのあと急に「あっはっは」と笑いだす。紗月の言っていることが、相当おかしかったみたいだ。

「鳩サブレーです」

 紗月は吹き出した。

 


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