二 手紙
宮崎に帰ってから三日が経った。
紗月はリビングから、窓の外の自宅のポストを眺める。配達員が来てなにかを入れていくと、家の外に飛んでいってそれを確認する。そしてお目当ての手紙じゃなくてガッカリしながら戻ってくる。三日間この繰り返しだった。
あれからお母さんとは無事会えたが、紗月はこっぴどく怒られた。江ノ島での不思議な出来事を伝えたかった。でも、とても言い出せる雰囲気ではなかった。あんなにお母さんが怒っているのを紗月は見たことがなかった。しばらくするとお母さんは、紗月をギュッと抱きしめて「無事で良かった」と呟いた。紗月はなんだか恥ずかしかった。それと同時に、どうしようもなく、悪いことをしてしまった気持ちになった。勝手に走って行ってしまったことを、すごく反省した。
結局紗月は宮崎に帰ってきても、お母さんにまだ話せずにいた。それどころか、あの出来事は夢や幻だったんじゃないかと、だんだん自分を疑うようになっていった。冷静になればなるほど、あれが本当に起きたとは思えない。ポストだってずっと確認しているけれど、それらしい手紙は一向に来ない。
「あっ!」
そのとき紗月は大事なことに気づいた。
「住所……教えてない」
それじゃあ手紙なんて来るはずがない。万が一、あれが夢や幻じゃないとしても。
さーっと血の気が引く。変な笑いが込み上げてくる。なんだか突然、全部が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
寝室へ行って布団の中に潜り込む。目をつぶる。忘れかけていた現実が、急に重くのしかかってくる。あと一週間もすれば学校が始まる。この数日、考えないようにしていた悩みの種が、まぶたの裏にたくさん浮かんで紗月を押しつぶそうとする。お腹の奥が、きゅうっと痛くなる。このまま、布団の中から一生出なくて済めばいいのに。優しくて暖かい布団の温もり。現実と向き合いたくない。そんな気持ちになっていると、鍵が開く音がした。
「ただいま」
お母さんが仕事から帰ってきた。もうそんな時間なのかとはっとする。
「お帰りなさい」
布団からのそのそ抜け出して、リビングのお母さんの方へ歩いていく。
「なんか紗月宛に来てたよ」
お母さんが手紙を差し出した。
心臓がバクンと音を立てる。紗月宛——。
「なんだかこれ湿ってるわね。ええと、差出人は……」
お母さんは手紙を裏返す。
「鎌倉総合魔法学校——」
やっぱりあれは夢じゃなかったんだ! 紗月はその場で叫びそうになるのを必死に抑える。お腹の痛みは、いつの間にか消えていた。
「嘘……なんで……」
なぜかお母さんは、恐ろしいものを見るような顔をしていた。この学校のことを前から知っていたような——そんな、反応。でも紗月は気づかない。自分のあふれる喜びと驚きでそれどころではなかった。言える。今なら言える。お母さんに話そう。
「あのね——」
紗月はお母さんに、あの日江ノ島で起こったことを話した。
*
お母さんはしばらく黙っていた。そして小さな声で呟いた。
「——やっぱり紗月は、お父さんの子ね」
「やっぱり?」
なにがやっぱりなのか、紗月にはわからなかった。
「紗月のお父さんは魔法使いだったの」
頭をかなづちで叩かれたような衝撃だった。お父さんが魔法使い?
「それを知ったのはお父さんと結婚する少し前だけどね。それまで、魔法が実在するなんて夢にも思わなかったわよ。紗月、あなたのお兄ちゃんも魔法使いで、鎌倉総合魔法学校——ここに通ってたの」
お母さんは手紙を指差しながら言った。頭がくらくらしてくる。そんなの、知らない。初めて聞くことだらけで、紗月は固まることしかできない。
「……ごめんなさい」
お母さんがうつむきながら呟いた。しばらくお母さんはなにも言わなかった。紗月は頭の中で、さっきお母さんが言ってた言葉を、必死に整理した。でも、うまく頭が働かない。
「全部話すね——」
お母さんは、観念したように顔を上げ、紗月の目を見る。紗月の青い目をじっと見つめる。そして、話しはじめる。
「紗月が今よりずっと小さいとき、私たちは鎌倉市に住んでたの。江ノ島のすぐ隣の、鎌倉市に」
「えっ?」
紗月はほとんど覚えていない。小さいときの記憶。
「まだお父さんもお兄ちゃんも生きてた頃よ。家族四人で住んでたの」
記憶の中でぼんやりと覚えている、優しいお父さんとお兄ちゃん。お母さんは、亡くなった二人の話をあまりしたがらなかった。紗月も気を使ってあまり聞かなかった。だからこうして、家族の昔話を聞くのは久しぶりだった。
「あの日。紗月の……三歳の誕生日。私は紗月を連れてお散歩に出かけたの。帰りに誕生日ケーキを買おうと思って、お財布だけ持って。そのときに——起きた」
「起きた?」
「鎌倉大火災——。あの日鎌倉で……ひどい爆発事故が起きたの。それが原因で、たくさんの家が燃えて。当時はすごい話題になって、新聞やテレビで毎日報道されてた」
初耳だった。
「ケーキを買ってるときに、すごい地響きがして。急にお店のガラスが割れたわ。外に出ると、目の前、辺り一面が火の海になってた。なんとか私たちは助かったけど……」
お母さんの話を聞いて、ほこりが舞い上がるみたいに心の底の記憶が浮き上がる。かすかな、赤い色の記憶。きっと、炎の記憶。お母さんは目をつぶった。
「でもあの日、お父さんとお兄ちゃんは、家にいた。だから、鎌倉大火災で……亡くなったの」
お父さんとお兄ちゃんは事故に巻き込まれて亡くなったと聞いていた。でも詳しい話は聞いたことがなかった。怖くて聞けなかった。今、それを初めて知った。お母さんは辛そうに、でも必死に、言葉を絞り出していく。
「家は全部焼けちゃってなにも残らなかった。だから、おばあちゃんがいるこっちに紗月と引っ越して来たの。おばあちゃんもそのあとすぐ亡くなっちゃったけど……」
ここが元々おばあちゃんの家なのは聞いていた。でも、住んでいた家が焼けて移ってきたなんて、そのときにお父さんとお兄ちゃんを亡くしたなんて、知らなかった。だからお母さんは、お父さんとお兄ちゃんの写真を私に見せてくれたことがなかったんだ。全部燃えちゃったから——。知らなかった。紗月はなにも、知らなかった。
「実はね、紗月が小学校に上がる前に、鎌倉総合魔法学校から入学案内が届いたの。紗月はお父さんの、魔法使いの子供だから。でも私、断った——」
紗月はなにも言えなかった。テーブルにぽつりと、お母さんの涙が落ちた。
「——もうあの場所に近づきたくなかった。あの場所に、大切な紗月を住ませたくなかったの」
そのとき紗月は、紗月がお母さんにひどい仕打ちをしてしまっていたことに気づいた。胸がきゅっとなる。今すぐ謝りたくなる。
「お母さん、ごめんなさい」
「なんで紗月が謝るの?」
お母さんは少し驚いた顔で、目尻の涙を指でぬぐった。
「だって私、お母さんに江ノ島に行きたいって言った。魔法の話もしたし、鎌倉総合魔法学校の手紙も……。お母さんに嫌なこと思い出させちゃうのに……」
江ノ島に行きたいと言ったあの日。お母さんが驚いた本当の理由がわかった。口に出すと、もっと申し訳なくなる。罪悪感が襲ってくる。でもお母さんは、微笑んだ。
「急に江ノ島に行きたいって言いだしたのには、流石にびっくりしたわよ。だけど、きっとこれは偶然じゃないんだろうなって思った。そろそろ全部伝えないとって。紗月が中学に入る前には全部言うつもりだったの。でも、結果的にこんな形で伝えることになっちゃって、私こそごめんね」
お母さんの顔を見つめる。その優しさに、紗月は救われる。
「紗月が望むなら、鎌倉総合魔法学校に転入なさい」
「……お母さんは大丈夫なの?」
「もうあんな事故起きないって頭ではわかってるのよ。でも、心がついてこなかったの、前に入学案内が来たときはまだ。今は、大丈夫。紗月の気持ちを尊重したいな」
今の学校から逃げ出したいのも本当。魔法の世界に踏み込んでみたいのも本当。
どっちにしろ、紗月の心は決まっていた。
「私——鎌倉総合魔法学校に入りたい」
「んじゃあ転入希望だな」
窓の外から声がした。びっくりして振り向くと、大きな狐が窓から顔を突き出していた。するどい牙をむき出しにして、こちらを見ている。紗月とお母さんは思わず悲鳴をあげた。この辺りで猿や鹿は見たことあるけど、狐はない。それにこんな大きな狐、動物園でも見たことない。というか、いま——
「喋った! 狐が喋った!」
椅子から転げ落ちながら紗月が叫んだ。
「狐じゃねえよ。大妖怪の九尾様だ。覚えとけ、人間」
「九尾?」
大きな狐が、あまりにも流暢に日本語を喋っている。逆に冷静になってくる。
「様を付けろ様を。まったく七宮のやつ、ただのお使いに俺を駆り出しやがって。帰ったらただじゃおかねえ。たっぷり供物を差し出させてやる」
「七宮先生?」
七宮。江ノ島で会った先生の名前だったはず。
「そうだ。あいつから手紙を届けて返事をもらってこいって言われてんの。大体お前もお前だぞ。遠いんだよ。鎌倉から。七宮に先に言っとけよ住んでる場所遠いですよって」
「ご、ごめんなさい」
九尾様の圧に押されて、気づいたら敬語で謝っていた。
「おっと、お前ら良いもん持ってんじゃねえか」
そう言うと、九尾様は窓の外からリビングのテーブルに飛び移った。テーブルの近くにいた紗月とお母さんは、絶叫してのけぞる。九尾様は置いてあった鳩サブレーを袋ごと食べ始める。江ノ島に行ったときに買ったお土産のお菓子だ。ボリボリと鳩サブレーを食べながら、興味なさそうに九尾様は喋る。
「んで、転入希望でいいんだよな?」
「えっと……」
紗月はお母さんの方を見た。お母さんは九尾様にまだ驚いているようだったが、紗月の方を見て、しっかりうなずいた。
「はい。転入希望です」
紗月は九尾様に向き直って伝えた。
「わかった。四月七日。午前八時。江ノ電の藤沢駅前集合だ。七宮がそこからお前を学校に案内する」
「わわっ——」
慌てて紗月は近くにあった紙と鉛筆でメモをとった。
「あとは持ってきてやった手紙に書いてある通りだ。じゃあな、人間」
九尾様が窓の外へ、凄まじい勢いで飛んだ。家が軋んで、吊り下げられた電球がぐわんと揺れる。テーブルの上の手紙やチラシが宙を舞う。あまりの勢いに二人とも目をつぶる。一瞬だった。すぐにしんと静まりかえる。
目を開けると、九尾様はいなくなっていた。




