十六 ドワーフの地下街
夏休みがやって来た。たくさんの宿題とともに。
ラウンジスペースで、エレナと楓と一緒に宿題を進める。——つもりだった。全く宿題に手がつかない。エレナも同じだ。ペン回しをして遊んでいる。正直、七月のうちから夏休みの宿題に手をつけるなんてどうかしてると思う。紗月は八月の後半で終わらせる派だ。でも楓が「早くから宿題始めないと終わらない」ってごはんのたびに言うから、仕方なく宿題と睨めっこしている。でもやっぱりやる気は出ない。
楓は今日も算数のドリルをガリガリと進めている。この調子なら明日にでも終わるんじゃないかな、夏休みの宿題。
そういえば、今日は朝からビクトールの姿を見かけていない。今日って園芸部の部活あったっけ? そう思っているとちょうど、後ろからビクトールの声がした。
「じゃあみんな、ちょっとの間お別れだね」
ビクトールは大きなボストンバッグを持っていた。
「え? どっか行くの?」
「うん。今日からしばらく家に帰るんだ」
知らなかった。楓も初耳みたいだ。
「ビクトールは毎年夏休みに家帰ってるもんね。いってらー」
エレナがビクトールの肩を叩く。
「じゃあまたね!」
あまりにもさらっとビクトールは行ってしまった。べつに帰ってくるってわかってるけど、なんだか寂しい。
晩ごはんになっても、まだ心になにかが引っかかっていた。
「紗月、そんなにビクトールがいないのが寂しいの? 元気出しなよ。そのうち帰ってくるって」
エレナが励ましてくれた。心が軽くなる。
「そうだよ。ビクトールが帰ってきたら思いっきり遊べるように、まずは宿題を終わらせないとね」
楓も励ましてくれた。心が重くなった。
今日の晩ごはんは親子孫丼だった。どんぶりを手で持って箸でかき込む。親子孫丼、美味しいな。親子孫丼。親子——。
「あっ!」
紗月は立ち上がって大声をあげた。
「どしたの?」
エレナと楓がびっくりする。紗月は夏休み前に中庭で起きた、ビクトールとドーン先輩たちのいざこざを思い出した。
「ビクトール、両親と喧嘩しちゃうかもしれない! もしかしたら、家出するかも……」
紗月は顔を真っ青にして二人に言った。
「え? どういうこと?」
「実は前に中庭で——」
紗月は、ビクトールとドワーフの生徒たちが喧嘩したこと、ダイヤモンドじゃないことをいびられたこと、ドワーフの生徒たちから「ビクトールの親にこのことを言うぞ」と脅されたこと、ビクトールがそれでもエメラルドを貫いたことを話した。エレナと楓は、静かに聞いてくれた。
「私のせいで、もしかしたらビクトールが両親と喧嘩しちゃうかもしれない!」
紗月が青い顔でうつむく。もしそれで、親と仲が悪くなったりしたら、私のせいだ。
「紗月、きっと大丈夫だよ」
前を向く。エレナが優しい顔で紗月を見ていた。
「でも……」
「ならさ」
エレナがにやりと笑う。
「行こうよ。ビクトールの家に」
*
出発の日。紗月は荷物をまとめて居室を出る。そうだ、村雨も持っていってあげよう。戻って村雨を掴む。エレナはさっき起きたところだ。前の晩、紗月はそわそわして眠れなかった。寝不足で目をこする。でも、おかげで覚悟は決まった。紗月がラウンジスペースに着くと、少し顔を赤くしてぷりぷりしている楓が待っていた。
「紗月遅い。約束の時間過ぎてるじゃない」
「ごめん。でもエレナ、もっと遅いよ」
それからしばらくして、やっと準備を終えたエレナが来た。楓の顔は真っ赤になっていた。時刻は昼過ぎになろうとしている。ついに、ビクトールの家への冒険が始まる。
「でもなんで、エレナはビクトールの家知ってるの?」
七里ヶ浜駅に向かいながら、エレナに聞いた。
「去年家行って遊んだことあるんだよね。だからなんとなく覚えてる」
なんとなく覚えてると聞いて、不安になってきた。エレナの〝なんとなく覚えてる〟は、だいぶ心配だ。楓もかなり不安そうな顔をしている。その空気を察したエレナがわざとらしく明るく話す。声が若干うわずっている。
「あー大丈夫、大丈夫! きっとなんとかなるって!」
ますます不安になってきた。
「——紗月か?」
急に名前を呼ばれてびっくりする。目の前に、三条先輩が立っていた。ちょうど七里ヶ浜駅から出てきたところみたいだ。
「三条先輩! どうしたんですか?」
「江ノ島神社に行ってきたんだ。女神様と龍神様に願掛けをな。——それと、〝例の調査〟も」
三条先輩が声を潜める。例の調査——。きっと〝ファイル〟が保管されている場所の調査のことだ。
「進展は……ありましたか?」
楓がおそるおそる尋ねてみる。〝ファイル〟のことを考えると、気が重くなる。
「芳しくはないな。まあ、久しぶりに神社へお参りできただけ良しとするよ」
神社。自分から神社にお参りしに行ったことなんて、ないかもしれないなと思った。
「あっ、この前の花火大会は、浴衣ありがとうございました」
思い出してエレナが頭を下げる。紗月と楓も頭を下げる。
「こちらこそ、楽しかったよ。ありがとう」
三条先輩と目が合った。紗月は三条先輩の、ひまわり柄の浴衣が頭に浮かんだ。
三条先輩と別れて、三人は七里ヶ浜駅から江ノ電に乗った。もうすでに鎌倉にいるから、魔法使いの秘密の車両に入る必要はないけれど、せっかくだから入ってみることにした。江ノ電の一番後ろの車両の一番後ろの行き止まり。前に立って、二回手を叩く。するとドアがガバッと開いて、秘密の車両へと繋がった。中は、子供連れの大人の魔法使いが多かった。紗月たちと変わらない年の子もいる。なんだか、夏休みって感じだ。ちょうど空いていた席に三人で座る。
ふと、思ったことを二人に聞いてみる。
「そういえばさっき三条先輩が言ってた、女神様と龍神様ってなに?」
「ええーっ? 知らないの?」
楓が大声でびっくりする。紗月はびっくりする楓にびっくりする。エレナはびっくりする楓にびっくりする紗月がツボに入ってケタケタ笑っている。
「女神様と龍神様は鎌倉の結界を創った神様だよ。正確には聖地江ノ島の結界もだけど。とにかく鎌倉の魔法使いは、みんな女神様と龍神様にお参りするの!」
「じゃあ、楓もエレナも?」
楓が強くうなずく。エレナは、なんかふわっとうなずく。鎌倉の魔法使いにとって、女神様と龍神様の存在、信仰は、すごく当たり前のことみたいだ。紗月には、あんまり馴染みのない感覚だった。
「まあー、でも考えてみてよ、紗月」
紗月が首を傾げていると、エレナが笑いかけた。
「鎌倉を丸ごと包む結界創れる神様とか、普通にやばくない? とりあえず手合わせとくよね」
エレナが両手を合わせてお参りするポーズをとる。紗月は笑った。エレナ、かるっ。
でも、エレナの言葉に納得してしまった。きっと、そういうことだ。
窓から外を眺める。わたあめみたいな雲がぽつんと浮かんでいる。七宮先生と一緒に乗ったときのことを思い出す。あのときも、こんな雲が浮かんでたっけ。もうあれが遠い日のことのように感じる。あのときは、まさか本当に〝わたあめみたいな食べれる雲〟があるなんて、想像もしなかったな。
「ねえねえ、紗月は家に帰らないの?」
楓が尋ねてきた。
「うん。なんか飛行機代とか、お金がすごいかかるらしくて、次に帰るのは三月なの。楓とエレナは?」
「私はほら、前に親と仲良くないって話したでしょ? だから、ね」
楓が寂しそうに言った。
「私も、そんな感じ」
エレナはちょっと意外だった。親と仲良さそうなのに。でも、あんまり見たことない顔をエレナがしていて、なんとなく、それ以上は聞けなかった。
夏休みの鎌倉駅は人が多かった。てっきり改札に行くのかと思ったら、エレナはコインロッカーの前で立ち止まった。
「なんか預け——」
右下のロッカーがパカッと開く。中からドワーフの女性がぬっと出てくる。紗月はひっくり返りそうになった。そんな紗月を見て、エレナが笑う。
「そうか、紗月はドワーフの地下街の行き方も知らないから——」
楓は知っていたみたいだ。クスクス笑っている。コインロッカーから女の人が出てきたことにびっくりしていない。周りの観光客も、誰もびっくりしていない。結界の力で、気づいていないんだと思った。
「鎌倉駅のコインロッカーは地下に繋がってるの。どこでもいいから、空いてる下のコインロッカーを開けてみて。使用中になってる下のコインロッカーは、地下街から誰か登ってきてるから開けれないけど」
楓の言われるがままに、空いている左下のコインロッカーを開けてみる。
「うわっ」
ロッカーの中に階段がある。下へずっと、続いている。
「よし行こー!」
エレナがかがんでロッカーの中へ入る。楓も続く。ちょっと怖い。
「どうしよう村雨」
背負っている刀に泣きついてみる。
「入るしかないだろう」
正論だ。しょうがない、入ろう。かがんで暗いロッカーの中に足を踏み入れる。完全にロッカーの中に入ってしまうと、なんだか空間が広くなった気がした。これも魔法なのかな。
バァン。
背後のロッカーが勝手に閉まった。紗月はちょっと悲鳴をあげた。
エレナと楓に続いて、長い階段を降りる。
「ねえねえ、観光客の人が、間違えて荷物入れたりしないの?」
薄暗い階段が怖くて、気を紛らわせようと楓に話しかける。
「観光客の人には、下のロッカーは使用中に見えるらしいよ。たまに、なにか間違いがあって使われちゃって、ドワーフの地下街まで、荷物が階段を転がって落ちて来るんだって」
観光客からしたらたまったもんじゃないなと思った。
「到着!」
エレナがパカっとドアを開けて外に出る。眩しい光。目を細める。楓、そして紗月も、光の中に出る——。
——そこはもうひとつの鎌倉駅だった。
「すごい」
さっきまでの鎌倉駅と、絶対に違うんだけど、どこか似ている。不思議だ。明らかに違うのは、上の鎌倉駅より人がごみごみしていないし、右を見ても左を見ても魔法使いしかいないことだ。紗月は後ろを振り返る。出口も同じく、コインロッカーだった。入ってきたコインロッカーとそっくりだ。
「紗月、こっちこっち」
エレナに促されて一緒に改札を通る。外に出る。紗月は息を呑んだ。
別世界だった。
そこら中に建っている石と鉄の家。そこら中で光っているオレンジの街灯。そこら中で吹き出している煙と蒸気。街を歩くドワーフの人たち。列車が空を飛んでいる。太陽はない。上を見上げても、月のない夜空みたいに暗いだけだ。でも、街は明るい。どこからか金槌を振り下ろす音が鳴り響く。そこはまさしく別世界。ドワーフの地下街だった。
「やっぱりここはすごいなあ」
楓が目を輝かせる。
「よし、じゃあビクトールの家に向かって出発進行!」
エレナが大股で歩きはじめる。心配だけど、他に頼れるものもないので紗月と楓もついていく。
あっという間に、三人は迷子になった。わかっていた。
「あれ? おかしいなあ」
エレナが勘で突き進む。紗月は頭を抱える。
「ねえ、なんだか危なそうなところに来ちゃったよ?」
楓が怖がる。たしかに人通りがほとんどなくなっている。道が薄暗い。近くに、見るからに怪しそうな店が一つ、ポツンと建っている。その店からドワーフの男が一人出てきた。髪はボサボサで、金槌を背負っている。明らかにやばそうな雰囲気だ。こっちに気づく。
「おいおいお嬢ちゃんたち、こんなところでなにやってんだ?」
男が近づいてくる。まずいことになった。足が震える。楓が慌てる。エレナは男を睨みつけている。
「なんだその目。おい、遊んでやろうか?」
男がさらに近づく。
「紗月、我輩を構えろ」
村雨の声でハッとする。震える手で刀を持つ。なんだか暑い。胸が破裂しそうなくらい、ドキドキする。
「お、おいおい、冗談じゃねえか」
流石に分が悪いと感じたのか、男は奥に逃げていった。男の姿が完全に見えなくなると、ドッと体の力が抜けた。その場にしゃがみこむ。
「村雨、おかげで助かったよ。ありがとう」
「あの男は我輩を見て逃げだしたのではない」
「え? それってどういう——」
そのとき、また店から男が一人出てきた。紗月の体がまた緊張する。
男は、ドーン先輩だった。怪しそうな丸い輪っかの鍵束を持っている。紗月たちには気づかずに、奥の方へと歩いて消えた。
「今の、ドーン先輩だったよね?」
「だよね?」
「なんでこんなところに……」
楓が顔をしかめる。あんな怪しそうな店にいったいなんの用だったんだろう。
「エレナ? 紗月に楓も!」
突然後ろから声がした。振り返る。
そこにいたのは、ビクトールだった。
*
「いやぁ、偶然通りかかってよかったよほんと」
ビクトールと一緒に街を歩く。ビクトールと会えてなかったらどうなっていたんだろう。
「それにしても、なんで僕の家に?」
楓とエレナが紗月を見る。
「あの——。私のせいで両親と喧嘩になってないかなと思って……」
ビクトールが目を見開いてびっくりする。
「ええっ? それで心配してここまで来てくれたの? ほんとに?」
「だって家出するかもみたいなこと言ってたし……」
「あれは冗談みたいなもんだよ」
ビクトールは笑っている。
「とにかく入って入って」
ビクトールの家に着いたらしい。石でできた建物。石でできたドアには、ドアノブもなければ鍵穴もなかった。紗月が不思議そうに見ていると、ビクトールが笑顔で説明を始める。
「上の世界じゃあんまり見ないよね、こういう家」
あんまりというか、見たことないよ。
「ドワーフの家はね、決められた人しか開けられないようになってるんだ。だから鍵穴とかないんだよ」
ビクトールが石のドアに手をかざす。するとドアが音を立てて横に開いた。
「母さんただいま。帰りに友達と会っちゃった」
「まあまあ。あっエレナちゃん久しぶり!」
家の中はまさに海外のお部屋という感じだった。大きな暖炉。高そうなソファに、高そうなテーブルと椅子。石造りの壁は、とても素敵だった。紗月たちは挨拶をして家に入る。
ビクトールのお母さんはとても優しそうな人だった。見れば見るほど、顔つきがビクトールにそっくりだ。
「ちょうど夜ごはんの支度するところだったのよ。みんな食べていってね」
お母さんがキッチンで準備を始める。紗月たちは、お言葉に甘えることにした。
「母さん聞いてよ。僕がエメラルドの指輪にしたのを心配して、紗月たちが来てくれたんだ」
ビクトールは笑顔だった。お母さんも笑っていた。
「あらそうだったの。ありがとうね。心配させちゃってごめんなさいね」
お母さんは全く怒っていない様子だった。ビクトールが紗月に囁く。
「昨日エメラルドの指輪のことは両親に言ったんだ。二人とも、全然気にしてなかったよ」
「——よかった」
紗月は大きく息を吐き出した。座っているソファに沈みこむ。ようやくホッとできた。心に引っかかっていたなにかが取れた気がした。
「私たち、むしろビクトールのことを偉いって思ってるのよ。だってその決断は、たくさんの勇気が必要だったでしょうから」
ビクトールの顔が赤くなる。さらっと、堂々と子供を褒めるお母さんに、紗月は少し驚いた。そして、素敵だなと思った。
しばらくすると、ビクトールのお父さんが仕事から帰ってきた。お父さんは濃い髭がモジャモジャと生えていて、頭は天然パーマだ。ビクトールの髪はお父さん譲りだと一目でわかった。ビクトールも大人になったら、あんなに髭が生えるのかな。
そのままお父さんも加わって、みんなで晩ごはんを食べる。お母さんの特製チーズフォンデュはほっぺが落ちそうなくらい美味しかった。とろっとろのチーズに、香ばしいパンや今にも弾けそうなソーセージをディップする。チーズでコーティングされたそれをほおばる。噛みしめる。旨みがあふれだす。止まらない。天国ってここにあったんだ。一瞬紗月はそう思った。ひと口。もうひと口。紗月はお腹がはち切れそうになるまで食べた。
*
「またいつでも来てね」
帰りの時間。ビクトールのお母さんとお父さんが、玄関まで見送ってくれた。二人に挨拶をして家を出る。温かい家族と温かい料理で、紗月の心はポカポカに温まった。
「下の鎌倉駅まで送るよ」
ビクトールも家を出る。よかった。三人じゃとても帰れる気がしなかった。ホッとする。周りを見る。楓もホッとしている。エレナは「別に大丈夫だよー」と言っている。エレナ、大丈夫じゃないよ。
「あーごはん美味しかったあ」
駅までの帰り道。エレナは満足そうだ。
「ビクトールの家族って、素敵な人だね」
楓は、少し寂しそうな気がした。
「そうかな? ありがとう」
ビクトールが恥ずかしそうにする。さっきビクトールと会った場所まで戻ってきた。
「そういえばあの店からドーン先輩が出てきたんだよね」
紗月が怪しそうな店を指差す。ビクトールの顔が曇る。
「あそこから? でもあの店、やばいやつ御用達の店だよ」
「なにそれなにそれ、どういうこと?」
エレナが食いつく。
「噂だけど、〝非合法の合鍵屋〟らしいんだよね。いろんな家や建物の合鍵を勝手に売ってるんだ。怖いから近づかないけど。やばそうな人ばっかり出入りしてるし」
たしかに、あの店から出てきたやばそうな人に絡まれた。そして——。あっ。紗月はハッとする。あの店から出てきたドーン先輩は、丸い輪っかの鍵束を持っていた。ビクトールの言ってた〝非合法の合鍵屋〟という話は本当なのかもしれない。
「まあドーン先輩、怖いし。番長だし。あの店使ってても不思議じゃないのかなあ」
ビクトールが能天気そうに呟く。紗月はドーン先輩が持っていた鍵束が、妙に心に引っかかった。
あの鍵束は、いったいどこの合鍵なんだろう?




