十五 鎌倉花火大会
梅雨も明け、鎌倉はすっかり夏だった。生徒もみんな夏服に切り替える。ブレザーを着ていなくても、付けているリボンやネクタイ、スカートの色味で、みんなどの組か一目でわかった。赤系は讃組。青系は仁組。茶系は壱組だ。
なぜだかその日は、みんなが朝からウキウキしていた。紗月はずっと不思議に思っていた。きっとそろそろ夏休みだからなのかなと思った。でも、違った。終礼のときに、理由がわかった。
「みなさん、知ってると思いますが今日は鎌倉花火大会です。毎年たくさんの観光客が来ますから、くれぐれも問題は起こさないように。もちろん、非魔法使いに対する魔法の使用は禁止ですからね。あと、今夜は空を飛ぶのも禁止されています。危ないですし、他の人が花火を見るのに邪魔になってしまいますから。初等部で飛べる人はまずいないと思いますが、念のために」
七宮先生がちらっとこっちを見た気がした。気のせいかな。それはそうと、鎌倉花火大会。今日は花火大会だったんだ。わくわく。胸がおどる。
「もちろん行くよね? 花火大会!」
隣のエレナが聞いてきた。満面の笑みで返事をする。
「行く!」
*
開け放った窓からぬるい風が入ってくる。近くの山の蝉が大合唱している。下敷きをうちわ代わりにあおぐ。今、潮風でベタついてるのか、汗でベタついてるのか、もはやわからない。夏って、いやだ。
紗月とエレナとビクトールは生徒会室の前の廊下でだべっていた。今日の放課後は部活がなかったものの、生徒会の集会だけはあったので、楓が終わるのを三人で待っていた。
「楽しみ、花火大会。私、久しぶりかも」
下敷きからの風を感じながら、今夜の花火大会のことを考える。自然と口角が上がる。
「僕は屋台が楽しみだなあ、焼きそば食べたいなあ」
ビクトールのお腹が鳴る。
「あーつーいー」
エレナは廊下に仰向けで倒れている。そのまま溶けそうだ。そのとき、生徒会室のドアが開いた。ぞろぞろと生徒が出てくる。
「お待たせ」
楓が息を弾ませて出てきた。
「そうだ!」
エレナがすくっと起き上がる。思い出したように大声を出した。
「せっかくだから浴衣着ようよ!」
「いいね!」
浴衣なんて最後にいつ来たっけ。紗月はますますわくわくする。
「でも今から着物屋さん空いてるかな?」
「たしかに……。だれか貸してくれないかなあ——」
「貸そうか」
四人の背後から声がした。振り返る。三条先輩だった。
*
三条家は想像より遥かに大きな家だった。立派な門は固く閉ざされている。その前に立ち、三条先輩が小さな声でなにかを呟く。
「すごい」
紗月が思わず声を漏らす。ぎいいと大きな音を立て、門がひとりでに開きはじめた。
「屋敷には歴史的に貴重なものや価値のあるものが多い。年中盗人に狙われている。だからこんなふうに、侵入者への対策が家中に張り巡らされているんだ。この門だって、無理やり開けたり飛び越えたりすれば、罠が作動する。まったく、いやになるよ」
三条先輩はわずらわしそうに言った。紗月は今まで、お金があれば何不自由ない暮らしができるんだと思っていた。でもお金がある家も、お金があることで大変なんだなと思った。なんだか結局不自由だ。
門をくぐると、大きな池と立派な松の木が出迎えた。庭がとっても広い。すごく立派な庭園だった。石畳の上を五人がぞろぞろと歩く。奥に、大きな、それはそれは大きなお屋敷が見える。
「というか、ほ、本当にいいんですか?」
改めてビクトールが、遠慮がちに聞いた。
「さっきから大丈夫だと言っているだろう。屋敷の浴衣が多すぎていつも余らせているんだ。君たちが着てくれたほうが浴衣もきっと喜ぶよ。それに他の文芸部と花火を見る約束もしていたからな」
ええっ。じゃあドーン先輩たちも来るのかな。紗月の顔が少し青くなった。隣のビクトールはもっと青くなった。三条先輩は玄関の前で立ち止まった。
「戻った」
その一言と同時に、玄関の戸がバッと開く。
「おかえりなさいませ、夏海お嬢様」
出迎えてくれたのはおばあさんだった。
「ばあや、今日は客人がいる。この子達に屋敷の浴衣を着せてあげたいんだが、良いだろうか?」
紗月たちはばあやさんに挨拶をする。
「まあまあ、もちろんでございます。さあさあ、お上がりください」
ばあやさんはニコニコして嬉しそうだった。
屋敷の中は迷子になりそうなほど広かった。紗月たちは広い畳の部屋に案内された。
「少しくつろいでいてくれ。ばあやとちょうど良さそうな浴衣を見繕ってくる」
三条先輩とばあやさんはふすまを閉めてどこかへ行ってしまった。
エレナとビクトールは、ばあやさんが出してくれた和菓子をパクパク食べている。楓はさっきから、壁にかかった掛け軸を熱心に眺めている。
紗月は隣の壁に飾られている、とても綺麗な、小さな水色の浴衣に目を奪われた。その浴衣は、浴衣なのに雪の結晶柄があしらわれていて、不思議な魅力を放っている。浴衣の前に座って、しばらく眺めていた。
「待たせたな。すまない選ぶのに時間が——」
三条先輩とばあやさんが戻ってきた。三条先輩が浴衣の前に座る紗月を見た瞬間、なぜか言葉を失った。
「——紗月。その浴衣、着てみるか?」
「えっ?」
たしかにこの浴衣はすごく綺麗だったが、紗月にはかなり小さい気がする。
「お嬢様! よろしいので——」
ばあやさんが見るからに慌てた。三条先輩が手でばあやさんを制止する。もしかしてこの浴衣は、なにか大切な浴衣なのかもしれない。
「その浴衣は私が小さい頃、大切な人にプレゼントしたものなんだ。正確にはそのレプリカなんだが。着る人に合わせて浴衣の大きさが変わる魔法がかけられている。学校の制服にかけられてるものより、さらに上等な魔法だ。だからサイズも問題ないと思う。紗月が良ければ、是非着てほしい」
「着てみたいです!」
なんだか申し訳ない気がしたが、これで着ないのはもっと申し訳ない気がした。それに紗月は、素直に、この美しい浴衣を着てみたかった。お言葉に甘えることにした。
「では紗月さん、こちらへ」
ばあやさんに案内された隣の部屋で着替える。ばあやさんは着替えを手伝ってくれた。改めて見ると、明らかに小さな浴衣だった。袖を通す。私の体に合わせて浴衣が大きくなる。その浴衣は紗月にぴったりのサイズになった。
「この浴衣は、夏海お嬢様が、妹君の真冬お嬢様に送ったものです」
三条先輩には妹さんがいるんだ。紗月は初めて知った。
「いつもおてんばな夏海お嬢様に、真冬お嬢様が振り回されておいででした」
「三条先輩って家だとおてんばなんですね。学校だとクールだから、意外かも」
紗月は感心したように呟いた。なぜかばあやさんの顔が曇る。
「近ごろの夏海お嬢様を見ていると、ばあやは心が苦しくなります」
か細い声で、たしかにそう言った。
「えっ、それってどういう——」
「紗月さんの澄んだ瞳は、真冬お嬢様によく似ていらっしゃいます。紗月さん、夏海お嬢様をどうか——どうかお支えください」
支える? 私が? 紗月が言葉の意味を考えているうちに——
「さあさあ、できましたよ」
ばあやさんは紗月の肩をポンポンと叩いて、ふすまを開けた。
「素敵!」
「似合ってるよ紗月!」
みんなから好評で、紗月は照れて顔が真っ赤になった。三条先輩は、笑顔だった。それはいつか見た、夏を感じる、弾けるような笑顔だった。
紗月と入れ替わりで、今度はエレナがばあやさんと奥の部屋に入った。
「三条先輩、このお面……」
楓が掛け軸を指差している。掛け軸には、赤い鬼のお面を持った人が描かれている。高そうな絵だ。
「楓は博識だからな。〝鬼ノ面〟のことも知っていたか」
三条先輩が静かな声で、冷静に話す。
「そうだ。それを使う。だから心配するな。屋敷から持ち出すのはかなり手間だが、持ち出してしまえれば、まずうまくいく。使い方に関しても策がある。あれは恐ろしい呪具だが、安全に扱えるはずだ。安心しろ」
つまり、前に楓が言っていたことは本当だったみたいだ。三条家の宝物を使って、本当に〝ファイル〟を盗もうとしてるんだ。紗月はなんとも言えない気持ちになった。
エレナは真っ赤な椿柄の浴衣だった。エレナの肌の白さが際立ってとても綺麗だった。でもエレナはなに着ても似合うんだろうな。ずるい。
楓は薄ピンクの梅柄の浴衣。なんだかすごく和風でとっても可愛い。この感じ、前にどこかで聞いたことがある。これがきっと、大正ロマンってやつだ。たぶん。
ビクトールは紺色の無地の浴衣だった。ビシッとしている。いつものビクトールと違ってクールな雰囲気だ。
三条先輩は落ち着いた黄色の、ひまわり柄の浴衣だった。少しイメージと違った。でも、とても似合っている。
「紗月、花火大会は人が多い。それは置いていけ」
三条先輩が、村雨を指して言った。ビクトールは大木槌を置いていくみたいだ。内心置いていった方が良いと思いつつ、一応本人に聞いてみる。
「村雨、花火大会、見たい?」
三条先輩が少し引く。そうだよね、刀に話しかけてるの、おかしいよね。
「……見たい」
エレナが吹き出した。三条先輩が「刀が喋った!」とすこし前の紗月と同じ反応をしている。ビクトールも笑っている。楓は驚くばあやさんを見ながら少し気まずそうにしている。紗月は三条先輩に事情を話して、邪魔にならないようにと誓って背負っていけることになった。
「さあ、行こう」
五人は屋敷を出て、会場の由比ヶ浜海岸へと向かった。
*
夕暮れの由比ヶ浜はもうすでに人でごった返していた。砂浜にレジャーシートが敷き詰められて、たくさんの人が場所取りをしている。紗月は人の多さに少し胸焼けがした。屋台が並んでいる。焼きそばの匂いがする。風がそよぐ。気持ち良い。
「おーい三条」
他の文芸部員だった。そういえば集まるって言ってたっけ。でもドーン先輩はいない。あ、いた。
「よう三条」
奥の方から大斧を背負ったドーン先輩が歩いてくる。後ろに、舎弟みたいに、何十人ものドワーフを連れて。そうだ。ドーン先輩って、ドワーフの番長なんだった。こわっ。
「おいドーン、お前もか。いくら観光客が気づかないからって、大斧は持ってくるな。なにかあったらどうするんだ」
「なんも起きねえよ。心配するな三条。それより屋台並ぼうぜ」
あの凶悪なドーン先輩が屋台を見てはしゃいでるのはなかなかのギャップだった。花火大会はどんな人でもハッピーにさせてしまうみたいだ。花火大会って魔法だな、と思った。
ビクトールと楓は焼きそばの屋台に並んだ。エレナと紗月はどの屋台に並ぼうか迷う。
「ようエレナ」
肌が小麦色によく焼けた少年が話しかけてきた。全組合同授業で何度か見たことがある気がする。たしか壱組の生徒だ。
「蒼じゃん。なにしてんの?」
「なにって花火大会だよ。他のサッカー部も来てるよ」
「あっ。紗月まだ紹介してないよね? 紹介するね、私の讃組の友達の白瀬紗月!」
「紗月です」
目が合った。と思ったら、すぐに目を逸らされてしまった。
「こっちはあたしと同じサッカー部で壱組の四元蒼!」
「あ、蒼……です」
蒼くんは声がめちゃめちゃ小さかった。そのうえ下を向いて、もうこっちを見てくれない。
「じゃ、じゃあ、俺友達とたこ焼きの屋台並んでるから戻るわ!」
急に声が大きい。そのままスタスタと歩いていってしまった。
「ははん」
エレナが悪そうな顔をする。
「おい待ってよ蒼! あたしもたこ焼き並ぶ! っていうかそっちたこ焼きの屋台じゃないって! おーい!」
蒼くんを追いかけてエレナも行ってしまった。どうやらエレナはたこ焼きの屋台に並ぶみたいだ。紗月はどの屋台に並ぼうかまだ迷っている。三条先輩が尋ねる。
「紗月はどの屋台に並ぶんだ?」
「うーん、迷ってます。でも、かき氷いいなあ」
「なら一緒に並ぼう」
紗月と三条先輩と文芸部員とドーン先輩とその舎弟——みたいな人たち——が一斉にかき氷の屋台に並んだ。大所帯だ。すると、列の外から誰かが声をかけてきた。
「おい讃組の——紗月だったな? 紗月じゃないか」
げっ。一ノ谷だった。
「少し時間があったから、庶民の暮らしを観察してたんだ。いやあ、庶民は大変だな。氷の粒食べるのにそんなに並ばなきゃいけないなんて。花火見るのもアリみたいに地べたに這いつくばって、群がらないといけない。可哀想に」
一ノ谷が眉毛を八の字に曲げて、可哀想な顔をする。絶対可哀想にって思ってないだろ。むかつく。いちいち鼻につく言い方をするのはなんでなんだろう。
「俺はこれからあれに乗る」
一ノ谷が指した方向を見る。紗月は驚いた。屋形船が、空を飛んでいた。
「……あれ? でも先生が今日は空飛ぶの禁止って言ってたよ」
「馬鹿が。そんな庶民のルールを俺たちに当てはめるな。そもそもあの船は花火の上まで行く。花火を〝上から見下ろす〟んだ。最高だろ」
勝ち誇った顔で紗月を見下してくる。むかつく。でもたしかに、花火を上から見るのはきっと楽しいんだろうなと思った。ドヤ顔の一ノ谷がたたみかける。
「せいぜい人混みに押し潰されながら花火を〝下から見上げる〟んだな」
「それも〝風流〟というものだ」
三条先輩が口をはさむ。
「三条さん?」
一ノ谷はギョッとしてうろたえた。今まで後ろの三条先輩に気づいていなかったらしい。
「た、たしかに、これも風流ですね。では、失礼します!」
一ノ谷が逃げるように人混みの中に消えていった。
「はあ。あいつの非礼を許してくれとは言わないが、あいつも大名家の跡取りで大変なんだ。ストレスが溜まるんだろうな」
ちょっと驚いた。三条先輩が一ノ谷を擁護するなんて。名家にも名家にしかわからない苦悩があるのかな。でもそれにしても、一ノ谷はむかつく。
そうこうしてるうちに、紗月は列の先頭まで来ていた。紗月の耳元で三条先輩が囁く。
「鎌倉花火大会のかき氷の屋台は、魔法使いだけの裏メニューがあるんだ。頼むときに〝フワフワなやつ〟と言うといい」
紗月はうなずいた。屋台のお兄さんが紗月に聞いてくる。
「お嬢ちゃん、なににする?」
「ブルーハワイ一つ、〝フワフワなやつ〟お願いします」
お兄さんの目がキラッと細まる。付けているピアスが煌めく。あっ、宝石がはめこまれてる。
「あいよ、ブルーハワイ〝フワフワなやつ〟ね」
お兄さんがかき氷機を回しだすと、あきらかにさっきまでのとは違うフワフワな氷が落ちてくる。きっと魔法でフワフワにしてるんだ、と思った。出来上がったフワフワのかき氷にブルーハワイのシロップを垂らす。完成。紗月は受け取って他のみんなのかき氷が出来上がるのを待った。
みんなのかき氷が出来上がったころ、エレナたちも帰ってきた。ビクトールはなぜか焼きそばを三パックも持っている。それ、全部自分で食べるの?
文芸部員の一人が場所取りをしてくれていたらしい。そこにみんなで座る。あたりはすっかり暗くなっていた。あれから少し経っているのに、紗月のかき氷は全然溶けていない。きっとこれも魔法の力なんだ。一口、すくって食べる。ふわっふわ。舌に乗せた瞬間、すぐ溶ける。ブルーハワイの甘さが広がる。美味しい。今まで食べたかき氷の中で、絶対一番美味しい。
パァン。
夜空に花火が打ち上がった。
「わあ!」
みんなが声をあげる。みんなが笑顔だった。
次々に打ち上がる花火をみんなと見た。
花火の音。友達の歓声。かき氷の味。潮風。海の匂い。澄んだ夜空。星と月。浮かぶ屋形船。夏って、最高だ。
紗月は幸せだった。
*
花火大会も終わり、浴衣を返しに三条家の屋敷へ寄った。紗月たちが寮へ帰るころには、駅へ向かうたくさんの観光客もすっかり落ち着き、夜の暗闇はより深まっていた。
「楽しかったなぁー花火大会」
ビクトールが最後の焼きそばの一パックを歩きながら食べている。焼きそば、食べすぎ。
「いいなーあたしも打ち上げてみたいなー花火」
エレナが自分の指輪を見ながら能天気に呟く。打ち上げたいっていう発想には、なったことなかったよエレナ。紗月は思わず笑った。
ふと、道の端っこで、うずくまる小さな女の子を見た。辛そうにしゃがんでいる。親とはぐれてしまったのかもしれない。紗月は駆け寄って声をかける。
「だいじょ——」
びっくりした。エレナにガバっと口を塞がれた。何事かと思った。エレナの顔を見る。真剣な表情で、首を横に振っている。楓とビクトールも、紗月を見ておどおどしている。紗月だけが事情を掴めていないみたいだった。エレナに口を塞がれたまま、うずくまる女の子から離れる。
「あれ、悪霊」
女の子から距離を取ると、エレナが小さな声で呟いた。
「えっ? あ、悪霊?」
紗月は女の子をよく見る。ゾッとした。顔が、なかった。
「心配して声をかけてきた人に取り憑いたり、呪い殺したりするやつだよ」
エレナは笑っていなかった。七宮先生の言葉がよみがえる。妖怪や悪霊がいること。魔力を欲すること。だから、魔法使いを狙うこと。ブワッと鳥肌が立つ。絶対に一人で夜に出歩くのはやめよう。心にそう誓って、三人にくっついて帰った。
鎌倉には楽しいものがいっぱいある。でも、恐ろしいものも、たしかにそこにある。




