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一 不思議の世界

 龍を見た。

 遠くの空の、雲の隙間に龍がいた。

 無意識のうちに、紗月さつきは走りだしていた。夢中でそれを追いかけた。なんでこんな必死に走っているんだろう。それははるか彼方の空の向こう。追いつけるはずもないのに。自分でもさっぱりわからなかった。とにかく走って追いかけたかった。それか、きっと逃げ出したかった。

 夕方の江ノ島(えのしま)駅は観光客で賑わっていた。紗月は人混みをかき分け、龍だけを見つめながら坂道を駆けのぼり、坂道を駆けおりる。途中で人とぶつかっても、気にする間もなく走り続ける。

「待ちなさい紗月!」

 後ろから呼び止めるお母さんの声。でも、無我夢中の紗月には届かない。止まらない。なにかに引き寄せられるように、紗月は龍を追いかける。

 どれほどの間、走っていたのだろう。ふいに砂に足をとられて、転んだ。

 じんわり鈍い痛みが広がる。落ちていた流木に当たって、ひざが擦りむけていた。せっかく着てきたお気に入りの服も、砂がついて汚れてしまっている。

「あっ——」

 ハッとする。視線を空へ戻す。

 しかしもうそこに、龍はいなかった。

 

 紗月は大きなため息をつき、周りを見渡す。気づけば砂浜まで走ってきていた。

 目の前はもう海だった。すぐそこで、波が寄せては返す。その向こうには、夕陽に照らされて、オレンジ色に染まった江ノ島。大きな灯台。

 ——さっきのは見間違えだったのかな。いや、だいたい龍なんているわけない。当たり前だ。きっと雲の形がそう見えたんだ。見間違え。見間違えに決まってる。

 紗月はがっくりしてそこに座り、ぼんやりと江ノ島の灯台を眺める。波の音。車の音。

 なんだか急に、現実に戻されたような気持ちになった。紗月にとっての現実の世界。それは、あの学校のある世界のこと。

 学校のことを考えると、気分が憂鬱ゆううつになった。

 

          *

 

 紗月は学校でいじめられていた。

 最初のきっかけは、自分の目の色が、周りと違うから。

 お母さんが昔、「紗月の〝素敵な〟青い目はお父さん譲りなのよ」と教えてくれた。でも紗月は、この目の色が好きになれなかった。この〝普通じゃない〟青い目のせいで、いじめが始まったから。

「紗月ちゃんの目って変だね」

 そう言ったのは、クラスの人気者の女の子だった。むきになって言い返した。変——。その言い方が、すごく嫌だった。それからだんだん、無視されるようになった。ある日、席替えをすると、新しく隣の席になった女の子が大声で文句を先生に言った。遠足のバスの席決めでは、紗月は誰とも二人組が作れなかった。誰も隣に座ろうとしてくれなかった。トイレにこもっていると、外から紗月の悪口が聞こえてきた。

 段々いじめは激しくなっていったと思う。

 机に落書きをされた。ひどい言葉が書かれていた。紗月が消しゴムで消しても、翌日にはまた落書きされていた。そのうち紗月が消せないように、マジックで書かれるようになった。

 終業式の前日。放課後、帰ろうと下駄箱から取り出した紗月の靴の中に、画鋲が入れられていた。

 今までいじめに自分なりに頑張って耐えてきた。お母さんには打ち明けられなかった。お父さんとお兄ちゃんを事故で亡くして、それからずっと一人で育ててきてくれたお母さん。毎日仕事で、疲れて帰ってくるお母さん。これ以上迷惑をかけたくなかった。

 でもあの日、靴の中の画鋲を見て、なにかがプツンと切れた。

 こわい。もう嫌だ。もう行きたくない。学校に行きたくない。

 翌日。終業式を紗月は休んだ。初めてうそをついて休んだ。お母さんに気分が悪いと嘘をついた。明日から春休み。そしてそのあとは——始業式。クラス替えもある。でも、行きたくない。新しいクラスになれば、友達ができるかもしれない。でも、またあの子たちと同じクラスになるかもしれない。廊下ですれ違うかもしれない。会いたくない。行きたくない。傷つきたくない。転校——したい。でも、言い出す勇気が、ない。

 

 家でぼんやりと、現実から逃げるようにテレビをつけた。

 江ノ島が映っていた。海にぽっかり浮かんだ島。空に向かって突き出た大きな灯台。なんだか紗月は、その景色にすごく惹かれた。行ってみたいと思った。もしかしたら、どこでも良かったのかもしれない。ここではないどこかなら。あの学校の存在しない、どこかなら。

 その夜お母さんに、江ノ島に行ってみたいと伝えてみた。お母さんはすごく驚いたようだった。紗月はそのお母さんの顔が、少し怖かった。

 しばらくしてお母さんは「あさっての紗月の十才の誕生日のために、貯めてるお金があるから、誕生日プレゼントとしてどう?」と言った。そのあとすぐ、「お金がなくてごめんね」と付け加えた。

 紗月はハッとした。紗月たちが住んでいる宮崎から江ノ島まで行くのにも、きっとたくさんのお金がかかるんだ。

 急に申し訳なくなった。でも心の一方では、江ノ島に行けるのが——ここから遠くの世界に行けるのが——すごく嬉しかった。

 

          *

 

「そうだ、お母さん!」

 灯台をぼんやり眺めていた紗月は、江ノ島駅にお母さんを置いて走ってきたことを思い出す。お母さんを探さなきゃ。紗月は我に帰って立ち上がる。膝が痛む。顔がゆがむ。そのときだった——。

 急に景色が、ぐにゃりとゆがんだ。

 なんだろう、今の感覚。まばたきする。江ノ島のほうに、目線を投げる。

 え? 紗月は目を疑った。

 江ノ島に、灯台がない——。

 紗月は目をこすって、もう一度よく見てみる。やっぱり見間違えじゃない。灯台がない。さっき灯りが灯っていた島の建物も、ない。それに江ノ島へ続く大きな橋も、なくなっている。

 灯台のない江ノ島。その前に広がる、海。——海?

「うそ——」

 信じられない出来事が、目の前で起きている。海が、割れていく。潮がみるみる引いていき、ついに海が二つに割れ、紗月の目の前に道が現れた。

 道は、灯台のない江ノ島へと続いている。

 招かれている気がした。紗月は、引き寄せられるように不思議の島へ入っていった。

 

          *

 

 海と海の間に現れた道に沿って、紗月は一歩一歩、歩く。さっきまで海の底だったはずの地面は、じんわりと湿っている。急に潮が引いて慌てているみたいに、かにがせかせかと目の前を横切る。

 怖いとか不安だとかいう気持ちがすっぽり抜け落ちていた。危険かもしれないのに、なんだかすごく、ワクワクする。

 島に足を踏み入れる。島の中には、それはそれは古そうなお屋敷が建っていた。人の気配は感じない。テレビで観た江ノ島とは、やっぱり全然違う。目の前には、大きな石段。長い長い石段と石畳が、島の上の森までずっと続いている。動物の鳴き声。森は賑やかた。

 紗月は石段を登った。膝の痛みなどすっかり忘れて、夢中になって登った。草や木は、見たこともないくらい濃い緑。花は鮮やか。動物はどれも大きくて、自由奔放に森を駆け回っている。赤、青、黄色、色とりどりの優しい光が、ふわふわと森の中のあちこちに浮いていた。最初はホタルかな? と思ったけれど、たぶん違う。とてもこの世のものとは思えない。ここは天国? 神様が住んでいる場所って言われても、きっと信じちゃうなと思った。

 石段を登りきると、目の前にひときわ巨大な木が現れた。圧倒された。こんなにも大きな木を、紗月は見たことがなかった。

 巨木を見上げる。すると、涙がこぼれた。なんで泣いているのかわからなかった。涙を袖で拭く。泣いている自分に、自分が驚いていた。

「——動くな」

 突然背後から声がした。

 その声を聞いた瞬間、抜け落ちていた恐怖や不安の感情が、一気に紗月の体に戻ってくる。

「ゆっくりこっちに振り返れ」

 冷たい声。心臓が、今さらバクバクと鳴りはじめる。怖くて、うまく呼吸ができなくなる。震える体でなんとか振り返る。

 和服の男がこちらに刀を向けながら立っていた。

 眼鏡をかけ、長い黒髪を後ろで束ねている。男は少し戸惑とまどっているようだった。

宝物殿ほうもつでんから盗みだそうと忍び込んだのか?」

 男が後ろをちらりと見ながら言った。男の後ろに、大きな祭壇のようなものが建っている。中央の台座に、本がまつられていた。

 顔に突きつけられた刀。心臓が破裂しそうになる。体がばらばらに崩れそう。頭が働かない。それでも紗月は必死に考える。説明しなきゃ。とにかく、この人に、説明しなきゃ。

「す、砂浜から江ノ島を見てたら、急に道ができて……。そ、そこを歩いてきたら、ここに着いて——」

 口が震えてうまく喋れない。それでも紗月は必死に言葉を絞り出す。ここがどこなのかもよくわからなかったが、とにかく悪気は無かったことを伝えたかった。

「まさか。いやでも本当だ。たしかにまねかれている——」

 男は刀を納めて、その場でぶつぶつと独り言を呟きはじめた。まるでここに紗月がいることを忘れてしまったみたいに、一人熱心に考え事をしているようだった。

 しばらくして、思い出したように紗月に目線を戻す。体がこわばる。

「……ごめんね、僕が勘違いしたみたいです。なにしろこんなこと初めてで。本当にごめんなさい」

 男は急に優しい声に変わり、紗月に謝りはじめた。紗月は少しだけほっとして、大きく息を吐いた。大きく息を吸い込む。まだ体は震えているし、心臓の鼓動も速い。

「君は〝鎌倉かまくら総合(そうごう)魔法(まほう)学校(がっこう)〟の生徒ですよね? 初等部の何年生ですか? 初めて見る気がしますが」

 魔法学校? なんの話をしているのか、紗月にはわからない。

「魔法学校ってなんですか……?」

 紗月はおそるおそる聞いてみた。

「えっ?」

 男の表情が固まる。

「君は……〝魔法使い〟ですよね?」

「魔法使い?」

「——じゃあ魔法使いでもない子供が神の島に招かれたのか?」

 男はまた一人で考え事を始める。ポツンと残された紗月は、少しずつ落ち着いてくる。わからないけど、悪気がないのは伝わったみたい。安心が心をじんわり温める。すると、さっきこの人が言った言葉が気になってくる。

「あの、じゃあ、魔法の……学校があるんですか?」

 紗月は男に尋ねた。さっきから起きている不思議な出来事はその〝魔法〟によるものなのかもしれないと思った。魔法——。少し前まであんなに恐怖でバクバクしていた心臓が、今度は高鳴りはじめている。

 男はしばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開く。

「ありますよ。近くに大きな魔法学校が。私はそこで教師をしている、七宮ななみやというものです」

「——私もそこに通いたい」

 思った言葉がそのまま口から飛び出た。

「あっ」

 自分で自分に驚いた。私は一体なにを言ってるんだろう。顔が熱くなる。

 今の小学校から逃げ出したいという気持ちと、この不思議の世界にもっと触れていたいという気持ちが、ぐるぐると混ざりあっていた。変な事を言ってしまったと、すごく恥ずかしくなる。とても目を見れなくなって、うつむく。

「いいですよ」

 七宮先生が即答した。

 紗月はびっくりして顔を上げた。口をぽかんと開けたまま固まる。

「あなたには資格があります。非魔法使いが〝こちらの江ノ島〟に迷い込むなんて、これは運命としか言いようがない。いやむしろ、神の島があなたを私に引き合わせたとしたら……」

 七宮先生はまた考えるようにあごをさする。

「——ああ、すみません。とにかくあなたが望むなら、鎌倉総合魔法学校の転入書類を送りましょう。お名前を聞いても?」

「あ、さ、紗月です。白瀬しらせ紗月(さつき)——」

 心臓が口から飛び出しそう。

「白瀬紗月さんですね。わかりました」

 七宮先生は手帳を取り出して名前をメモする。七宮先生が付けている指輪がキラッと光った気がした。

「では数日以内に手紙を届けさせますので、ご家族とよく相談してくださいね。それでは」

 そう言うと七宮先生はパチンと指を鳴らした。

 落ちる——。不思議な感覚に襲われる。視界がぼやける。

 次の瞬間、紗月は元の砂浜に戻っていた。

 海は割れていない。目の前には、灯台のある江ノ島。

 丸い月が見える。気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。

 今の出来事は、現実だったんだろうか。夢でも見てたんじゃないか。そう思って、目をつぶる。思い出せる。鮮明な光景が、よみがえる。突きつけられた刀。心臓がまた、早鐘を打ちはじめる。夢じゃない。この記憶は、本当だ。目を開く。夜の闇を切り裂くように、江ノ島の灯台から光が伸びた。

 そうだ。こんな時間。お母さんが心配してる。お母さんに会わなきゃ。

「あの——」

 そのとき、声がした。振り向く。白い髪の青年が立っていた。

「これ、落としましたよ」

 それは紗月のパスケースだった。ハッとする。いつ落としていたんだろう。

「ありがとうございます」

 紗月が感謝すると、その青年は優しく微笑んだ。綺麗な目だった。

 紗月はお母さんを探しに、江ノ島駅へ向かった。

 

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