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「今度は怪我だそうだ。候補者であることも辞退すると。念のため、この件も第三者監察院で調べよ」
本宮の執務室。
朝の光が背後から差し込み、コンスタンティンの顔は影に沈んでいた。
室内には壁時計のカチ、カチという音だけが規則正しく響き、沈黙を切り裂いていた。
「……御意」
礼をとり、扉へ向かう。
そのとき、ふと視線を落としたコンスタンティンの瞳が、弟の背を捉えた。
陽光に縁取られたプラチナブロンドの長髪が、歩みに合わせてゆるやかに揺れる。
理知的なはずの横顔はどこか酩酊めいた美しさを帯び、現実から半歩だけ外れてしまったように見えた。
一方で、そのとき、エドワードは手のひらにやわらかな風を感じた。
窓は閉ざされている。だが――この風を知っているのは自分だけだ、と理解していた。
◇◇◇
馬車乗り場まで従者の後を歩く。
すれ違う人々が立ち止まり、頭を下げる。
――つまらない。
ここにはいない。
いない? 誰を探している?
ふと立ち止まる。
「エド……?」
後ろを歩くアウレリウスが小声で呼びかける。
先導の従者も「王弟殿下、どうされました」と問いかけてきた。だが声は妙に遠い。
脚から力が抜け、体が傾ぐ。
すんでのところで踏みとどまった。
「殿下!」
アウレリウスが背を支える。
「大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだ」
「少し休んでから令嬢の屋敷へ向かいますか」
「問題ない。すぐ済ませてしまおう」
そう答えながらも、生ぬるい風が頬を撫でていくのを、彼ははっきりと感じていた。
◇◇◇
屋敷に着けば、当主が丁重に迎えた。
武人の家らしく余計な装飾は少ないが、廊下の絨毯や窓辺の花に至るまできちんと整えられており、暮らしの細部にまで気配りが行き届いていた。素朴でありながら清潔で、品の良さを感じさせる邸宅だった。
現れた当主は、特務部隊に身を置くという噂通り、体格の大きな武骨な男だった。だがその巨体は今や小さく縮こまり、背を丸めている。
最愛の娘の不幸と、王弟に顔向けできぬ無念が重なり、その姿はいかにも痛ましく映った。
「殿下、この度は誠に申し訳ありません……。娘は領地にて療養中でございます」
「療養?」
当主は深く頭を垂れた。
「庭の温室で突風に煽られ転倒し、硝子で顔を大きく切ってしまったのです。幸い命に別状はありませんが……殿下のお目にかけるには、とても」
震える声に、エドワードの胸はざわめいた。
潜入調査の報告も同じ内容だった――「突風」。
「……そうか。残念であったが、大切になさるように」
「はい。必ず」
◇◇◇
屋敷を出ると、かすかに声が聞こえた気がした。
だが耳を澄ませても、耳鳴りばかりが強くなる。
「顔色が悪い。大丈夫か。今日はもう休んだ方がいい」
「……そうだな」
「監察院は俺が何とかする。エドが体調を崩すなんて珍しい。しっかり休んでくれ」
「なんだ? “バカは風邪をひかない”と言いたいのか?」
軽口を飛ばすも、アウレリウスは小さくため息をつくだけだった。
「そんなわけあるか」
そのまま押し込まれるように馬車へ乗り込み、目を閉じる。
――僕は何を探している。
――僕は誰を探しているというのか。