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結局、元婚約者候補は事故として処理された。
親族の協力もあり、候補だった事実さえ外部にはほとんど漏れていない。
表面上は、何もなかったかのように過ごすしかなかった。
◇◇◇
「副監察官、窓を開けてくれ」
「雨なのに? ……まぁいいけど」
第三者監察院本部――外から見れば、瀟洒な貴族の邸宅にしか見えない。白い石造りにアイビーが絡まり、門扉には家紋に似せた装飾まで施されている。通りがかる人々の目には、どこにでもある上級貴族の屋敷に映るだろう。
だが、一歩足を踏み入れれば、そこは別世界だ。
応接室こそ上品に整えられているものの、奥の執務室には壁いっぱいの地図とぎっしりと詰まった本棚、暖炉のマントルピースは書類や封蝋やらで雑然と「棚」と化していた。実務のためだけに動いている空間。他の部屋も同様に、働く調査員達の為の部屋となっている。外観の優雅さは、ここではひと欠片も残っていない。
窓の外には霧が立ち込めていた。街のガス灯はぼんやりと霞み、濡れた石畳を馬車が進む音が遠くから響く。
雨と霧の匂いに混じり、ふと甘い匂いが漂った気がした。
惹かれるように窓に近づき、街を見下ろす。
「どうした?」
「……甘い匂いがした気がして」
馬車が通り過ぎる。雨のせいで、人影はまばらだった。
「お腹空いたのか? 何か用意させようか」
アウレリウスが呼び鈴に手を伸ばす。
「いやいや、大丈夫! そうじゃないんだ。……多分気のせいだ」
「ふぅん」
アウレリウスは書類に視線を戻す。もう興味を失ったようだ。
エドワードも気まずそうに席へ戻る。
「それにしても、新婚生活はどうだ? 姉上って美食家なんじゃない?」
不意に笑みを含んだ声で問いかける。
アウレリウスは視線を壁に泳がせた。
「あー……どうだろうな。旅行先でも、割となんでも美味しそうに食べてたけど」
「まぁ、副監察官を好きなくらいだし、結構雑食なのかもね」
「え!? え、どういう意味? 俺の悪口?」
エドワードは声をあげて笑った。
ノックの音が響く。
「どうぞ」とアウレリウスが答えると、女性調査官が入室し、会釈をした。
「特別監察官殿、先日お話ししました件の調査資料をお持ちしました」
「ありがとう。助かる」
エドワードが手を伸ばした、その瞬間――突風が吹き込み、書類が宙を舞った。
同時に、白い花びらが数枚、ひらひらと混じって舞い込む。
「あ!」
女性調査官が慌てて手を伸ばしたが、花びらは指先をすり抜けて消えた。
アウレリウスがすばやく前に出て女性を制し、床に散らばった書類を拾い上げる。
花びらは――もうどこにも見えなかった。
「申し訳ありません! 特別監察官殿!」
「……いや、いい。風に驚いただけだろう」
女性調査官は深々と頭を下げ、部屋を辞した。
「エド、本当に強い風だったな。窓、閉めるか?」
椅子に座り直したエドワードは真っ青な顔のまま固まっていた。
「閉めるぞ」
「あ……あぁ」
窓が閉められる。
エドワードはゆっくりと振り返り、そこを見つめた。
――何もない。
けれど確かに、花びらはあった気がするのだ。