4
緑の離宮は、王宮敷地の端にひっそりと建っていた。
緑の離宮――そう呼ばれてはいるが、壁が緑色をしているわけではない。むしろその名は、不吉の象徴だった。かつて「死のグリーン」と呼ばれたシェーレグリーンの壁紙が用いられており、不審な死が続いたため「緑の離宮」と呼ばれるようになったのである。
しかし、エドワードが幼い頃には乳母セラフィーナの手で壁紙はすべて剥がされ、後に王太后の采配によって全面的な改築が施された。王太后の好む優美で豪奢な意匠により、現在は見た目にも気品あふれる離宮へと変わっている。名にふさわしく周囲には豊かな植栽が施され、四季折々に色彩を添えていた。だが、人々は今もなお「緑の離宮」と呼び、どこか陰の気配を重ねるのだった。
そんな離宮の夜。
報告書を閉じ、エドワードは長く息を吐いた。どれだけ読み返しても、結論は「事故」。それ以上の言葉を綴ることはできない。
椅子から立ち上がる。
絨毯に沈む足音はほとんど響かないが、ゆったりと歩を進めるたび、広い部屋にわずかな衣擦れの音が満ちていく。
背に垂らした長い三つ編みがさらりと揺れ、月光を受けて淡く光った。
気を紛らわせるようにバルコニーに出る。
夜風が流れ込み、頬を撫でた。
「こんばんは」
柔らかな声に、振り向いた。
欄干に、ひとりの女性が立っていた。
白銀の髪は透けるように光を孕み、夜風に揺れて波打つ。
肌は雪のように白く、血の色を知らない陶器めいている。
大きな翠の瞳が、闇に溶け込むようにこちらを見つめていた。
緑色のチュールを幾重にも重ねたドレスは、風に浮かぶ花弁のようにふわりと揺れ、裾が夜気に溶けて消え入りそうに見えた。
人離れした美貌。
だが奇妙なことに、周囲の衛兵も使用人も、誰ひとり気づく様子がない。――見えているのは、自分だけなのだ。
「……誰だ。ここは王弟の私室だ。無断の立ち入りは許されない」
冷ややかに言い放ち、威圧の気配を纏う。
しかし彼女はただ、微笑んだ。
「風に導かれただけ」
「戯れ言を……」
言いかけて、息を詰める。
翠の瞳に射抜かれるような感覚。声を出すのも難しい。
彼女は白い指先に花弁を乗せ、ひらひらと揺らした。
「散る白薔薇も、風に抱かれれば戻るの。
……まるで私のように。あなたを仰ぎ、戻らずにはいられない」
白薔薇――。
甘い香りが鼻先をかすめ、頭が痺れるようにぼやける。
「……何を、言っている」
声を低くしたが、震えを隠せなかった。
「あなたは世界樹。孤独に立つ大樹は美しい。
でも、枝を飾る白薔薇がなければ寂しいでしょう?」
エドワードは思わず視線を逸らした。
王弟としての冷静さが崩れていく。
――退け、と理性が命じる。だが胸の奥では「もっと聞きたい」と願ってしまう。
「……僕は、王弟だ。軽々しく言葉を交わすべきではない」
自分に言い聞かせるように告げる。
だが彼女はただ微笑んだ。
「王弟である前に、ひとりの人。……その心を、風は知っている」
風が強く吹き抜け、白薔薇の花弁が視界を覆った。
腕で庇い、目を開けば、もう誰もいない。
残されたのは欄干をかすめる夜風と、漂う甘い匂いだけ。
エドワードはしばらく立ち尽くし、彼女がいたあたりを見つめる。
小さく息を吐き、白い指先をそっと差し伸べた。
しかし、掴めるものは何もなく、ただ袖を揺らす風だけが答えだった。