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 緑の離宮は、王宮敷地の端にひっそりと建っていた。

 緑の離宮――そう呼ばれてはいるが、壁が緑色をしているわけではない。むしろその名は、不吉の象徴だった。かつて「死のグリーン」と呼ばれたシェーレグリーンの壁紙が用いられており、不審な死が続いたため「緑の離宮」と呼ばれるようになったのである。


 しかし、エドワードが幼い頃には乳母セラフィーナの手で壁紙はすべて剥がされ、後に王太后の采配によって全面的な改築が施された。王太后の好む優美で豪奢な意匠により、現在は見た目にも気品あふれる離宮へと変わっている。名にふさわしく周囲には豊かな植栽が施され、四季折々に色彩を添えていた。だが、人々は今もなお「緑の離宮」と呼び、どこか陰の気配を重ねるのだった。


 そんな離宮の夜。

 報告書を閉じ、エドワードは長く息を吐いた。どれだけ読み返しても、結論は「事故」。それ以上の言葉を綴ることはできない。


 椅子から立ち上がる。

 絨毯に沈む足音はほとんど響かないが、ゆったりと歩を進めるたび、広い部屋にわずかな衣擦れの音が満ちていく。

 背に垂らした長い三つ編みがさらりと揺れ、月光を受けて淡く光った。


 気を紛らわせるようにバルコニーに出る。

 夜風が流れ込み、頬を撫でた。


「こんばんは」


 柔らかな声に、振り向いた。

 欄干に、ひとりの女性が立っていた。


 白銀の髪は透けるように光を孕み、夜風に揺れて波打つ。

 肌は雪のように白く、血の色を知らない陶器めいている。

 大きな翠の瞳が、闇に溶け込むようにこちらを見つめていた。

 緑色のチュールを幾重にも重ねたドレスは、風に浮かぶ花弁のようにふわりと揺れ、裾が夜気に溶けて消え入りそうに見えた。


 人離れした美貌。

 だが奇妙なことに、周囲の衛兵も使用人も、誰ひとり気づく様子がない。――見えているのは、自分だけなのだ。


「……誰だ。ここは王弟の私室だ。無断の立ち入りは許されない」

 冷ややかに言い放ち、威圧の気配を纏う。


 しかし彼女はただ、微笑んだ。

「風に導かれただけ」


「戯れ言を……」

 言いかけて、息を詰める。

 翠の瞳に射抜かれるような感覚。声を出すのも難しい。


 彼女は白い指先に花弁を乗せ、ひらひらと揺らした。

「散る白薔薇も、風に抱かれれば戻るの。

 ……まるで私のように。あなたを仰ぎ、戻らずにはいられない」


 白薔薇――。

 甘い香りが鼻先をかすめ、頭が痺れるようにぼやける。


「……何を、言っている」

 声を低くしたが、震えを隠せなかった。


「あなたは世界樹。孤独に立つ大樹は美しい。

 でも、枝を飾る白薔薇がなければ寂しいでしょう?」


 エドワードは思わず視線を逸らした。

 王弟としての冷静さが崩れていく。

 ――退け、と理性が命じる。だが胸の奥では「もっと聞きたい」と願ってしまう。


「……僕は、王弟だ。軽々しく言葉を交わすべきではない」

 自分に言い聞かせるように告げる。


 だが彼女はただ微笑んだ。

「王弟である前に、ひとりの人。……その心を、風は知っている」


 風が強く吹き抜け、白薔薇の花弁が視界を覆った。

 腕で庇い、目を開けば、もう誰もいない。


 残されたのは欄干をかすめる夜風と、漂う甘い匂いだけ。

 エドワードはしばらく立ち尽くし、彼女がいたあたりを見つめる。

 小さく息を吐き、白い指先をそっと差し伸べた。

 しかし、掴めるものは何もなく、ただ袖を揺らす風だけが答えだった。

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