16
昼間、宿直室で少し眠れたせいか、久々に体が軽かった。
夜。
書類を眺めながらグラスを揺らす。
内容は頭に入らない。ここ数日の遅れを取り戻さねばならないのに、心はどこか遠くにあった。
眉間を揉み、ふと窓に目をやる。
新しい花瓶が置かれていた。
風もないのに、花がかすかに揺れたように見えた。
立ち上がり、窓を開ける。
強い風は吹かなかった。
代わりに、弱々しく冷たい風が髪を撫でていった。
「……私の世界樹」
びくりと肩が震える。
振り返れば、そこに彼女がいた。
床一面に白い薔薇が咲き乱れている。
座り込んだ彼女のドレスの裾は、薔薇に滲むように溶け込み、終わりが見えなかった。
「なぜ……。なぜ来てしまったんだ」
彼女はそっと視線を伏せ、震える声を落とす。
「世界樹よ。私を見捨てないで……。
白薔薇は散っても、また蕾をつける。
だから……何度散っても、私はあなたの薔薇でいたい」
一筋、頬を伝う涙。
堪えるように唇を噛み、必死に声を押し殺していた。
「私を……見捨てないで」
その囁きに、エドワードは息を飲み、一歩、また一歩と彼女に近づく。
――行ってはいけない。
――抱きしめなければ。
矛盾する声が頭を駆け巡り、何も考えられなくなる。
気づけば跪き、華奢な肩を抱き寄せていた。
花弁のようにしっとりと、氷のように冷たい肌。
「……私の世界樹。私だけを咲かせて」
囁きに導かれるように、そっと口づけを落とした瞬間、世界から音が消えた。
甘美な沈黙の中、彼は彼女を求め、夢中でその白薔薇を散らした。
◇◇◇
夜が明ける。
窓から淡い光が差し込むと、床を覆っていたはずの薔薇は跡形もなく消えていた。
ただ冷え切った花瓶と、乱れた部屋だけが残されている。
ベッドの縁に腰を下ろし、エドワードは顔を両手で覆った。
静かに、声もなく涙がこぼれ落ちる。
明け方の光に照らされながら、彼は孤独の中で静かに泣き続けた。