わたし、今、自由なんだわ
一方のクラリスはというと、彼女は学園内での自由を満喫していた。
――以前の彼女は、レオンに相手にしてもらえない肩身の狭さから、図書室の端の席で本を読んでいるばかりだった。人目につかないその場所なら、嫌味や憐みの情を向けられることが少なかったからだ。
けれど、婚約破棄を宣言した今、そんなことを気にする必要はない。
以前なら避けていた、恋人たちの憩いの場である噴水広場で花を愛でたり、並木道を散歩したり。
最初のうちは、見知らぬ女生徒たちから「本当に婚約破棄を後悔していませんの?」などと聞かれたものだが、「いいえ、全く! むしろ清々しい気分ですわ」と笑顔で返していたら、今ではそれもなくなり、すっかり快適な日々だ。
それに友人も増えた。
以前は自分を遠巻きにしていたクラスメイトたちから、毎日ランチに誘われるようになった。移動教室やマナーのグループレッスンのときも一緒だ。
それによって交流関係が広がり、学年問わず、これまで話したことのない令嬢や、貴族令息とも積極的に交流を持つようになった。
(最初は少し心配だったけど、杞憂だったわね。むしろ今の方がずっと楽しいわ。どうしてもっと早く、こうしていなかったのかしら)
一日中、レオンのことを気にしてひっそりと生活していたあの頃の自分に言ってやりたい。
「レオンばかり見ていないで、周りにもっと目を向けなさい。あなたの周りには、素晴らしいものが沢山あるのよ!」と。
クラリスは、手にした自由と解放感を、しっかりと噛みしめていた。
その日の放課後、友人たちと別れたクラリスは、ひとり街の図書館へと向かった。
借りていた本を返すためだ。
街の図書館は、学園の図書室と同様、以前のクラリスにとっての数少ない居場所だった。
学園の図書室は、授業が終わると閉まってしまう。だが、毎日すぐに帰宅すると、父や母や兄からレオンとの仲を心配される。一般的に、週に一度程度は、放課後にデートをするカップルが多いからだ。
だからクラリスは家族に心配をかけないよう、週に一、二度、放課後ひとりで図書館に通っていた。
図書館で夕方まで過ごし、「レオンとデートをしていた」と嘘をついていたのだ。
婚約破棄を宣言した今、その必要はなくなった。けれど借りていた本は返さなければならないし、何より、本が好きなクラリスは、これからも図書館通いをやめるつもりはなかった。
とはいえ、実のところ、少し緊張しているのも事実。
何故なら、婚約破棄を宣言して以来、図書館に行くのは今日が初めてだからだ。
(この道、あまりいい記憶がないのよね。レオン様に相手にされない自分があまりに惨めで……。帰ったら家族に嘘をつかなければならない罪悪感もあって、いつも泣きそうになっていたっけ)
婚約破棄を決める前は、レオンとの関係に悩み、心はいつも沈んでいた。
誘っても断られると分かってからは、自分からは誘わなくなったけれど、レオンに相手にされていないという悲しみが消えることはなかった。
だから、クラリスはいつも下を向いていた。当然、街の景色に意識を向けることもなかった。
だが、今の自分は、あの頃の自分とは違う。
クラリスは背筋をピンと伸ばし、顔を上げた。悲しい記憶を、今の晴れやかな気持ちで塗り替えるために。
(大丈夫よ。もう、何も怖くない)
言い聞かせるように心の中で唱え、石畳を一歩踏みしめる。
すると、なんてことはない。全然平気だった。
どころか、周りの景色全てが輝いて見える。
人々の活気が心に活力をもたらす。吹き抜ける風が心地いい。身体が軽い。うっかり、スキップしてしまいそうなほどだ。
(すごく楽しいわ!)
クラリスは、途中、川に架かる橋の上で足を止めた。
西の空には黄金色の夕陽が輝き、水面に長い光の帯を映している。
それを目にしたクラリスは、感嘆の息を漏らした。
「……こんなに綺麗だったのね」
今まで、この景色は目に入っていなかった。
寂しさばかりに囚われ、この美しさに気付かず、素通りしていたのだ。
けれど今は、何のためらいもなく、この美しい夕陽を眺めている。
風が髪を揺らし、心の奥底まで穏やかな気持ちが広がっていく。
クラリスはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「わたし、今、自由なんだわ」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ何気なく呟いた言葉。
と同時に、彼女の中に残っていたほんの少しの迷いや未練が、夕陽に溶けて消えていく。
彼女は再び歩き始めた。
これからはレオンに縛られることなく、自分の意志で未来を歩んでいくのだという、決意と共に。