表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

34/43

わたし自身の意志です


 夏休みも半ばを過ぎた、ある日の夕刻。

 クラリスは図書館からの帰り道、心の奥に穏やかな余韻を抱えながら、そっと息を吐いた。


 観劇の翌日から、ユリウスとは何となく、ほぼ毎日のように顔を合わせている。

 待ち合わせをしているわけでも、声を掛け合っているわけでもないけれど、決まって似た時間帯に図書館の同じ書架に現れては、軽く挨拶を交わし、そのまま自然に同じ席へと落ち着く。


 今日も、クラリスが帝国文学に関する資料を探していると、ユリウスが黙って目的の文献を差し出してくれた。まるで、必要とするタイミングを察していたかのように。


 その後もしばらく無言のまま、それぞれの本に目を落とした。特別な会話で盛り上がるわけではなかったが、気を遣う必要もないその空気が心地よかった。


 図書館を出たあと、少しだけ寄り道して、小さな喫茶店で紅茶を一杯。

 窓の外の木漏れ日を眺めながら、読んだ本の感想をぽつりぽつりと交わした時間は、なんでもないようでいて、とても贅沢だった。


(……なんだか不思議ね。特別な話をしているわけじゃないのに、こんなに穏やかな気持ちになれるなんて)


 ふと笑みがこぼれる。

 そのくらい、今日一日は静かで満ち足りていた――はずだったのに。


 


「お嬢様、旦那様がお呼びです。すぐに書斎まで」


「お父さまが?」


 帰宅して玄関をくぐった瞬間、使用人にそう声を掛けられ、クラリスは首を傾げた。

 父に呼ばれるなど珍しい。いったい何の用だろう。


 クラリスは部屋に荷物を置くと、急いで父の書斎へと向かった。


 


「お呼びでしょうか、お父様」


 書斎の扉を開けると、そこには父だけでなく、兄フレデリックの姿もあった。

 室内の空気は冷え切っており、先ほどまでの幸福な余韻は一瞬で霧散した。


(……もしかして)


 瞬間、嫌な予感が胸に広がる。


 父の隣に立つフレデリックに視線を向けると、気まずそうに視線を逸らされた。

 ああ、やっぱり――クラリスは全てを察した。


(お兄様ったら、お父さまに帝国行きのことを話したのね)


 クラリスはフレデリックに失望しかけたが、すぐに気持ちを持ち直す。

 そもそも、早く父に話しておかなかった自分が悪いのだ。それに、自分は何も悪いことはしていない。後ろめたく思う必要もない。


 毅然とした態度で顔を上げるクラリスに、父親は低い声で問う。


「帝国行きを考えているそうだな。本気なのか?」


 問答無用の圧力を感じる。

 が、クラリスは怯むことなく答えた。

 

「本気です。帝国の大学に、進学したいと思っています」

「その意味を本当に理解しているのか? 帝国に行くということは、お前一人で全てをやらねばならないということだ。お前の様な世間知らずがやっていけると、本気で思っているのか」

「お父様が心配されるのは当然です。でも、やってみたいんです。何もせずに、諦めたくないんです」

「…………」


 部屋に沈黙が満ちる。

 父親はしばらく黙っていたが、不意に、話題を変えた。

 

「最近図書館で、行動を共にしている男がいるそうだな。……隣国、ラインハルト公爵家のご子息だと。その話は誠か?」

「……? はい、それは……事実ですが」

「聞くところによると、そのご子息は帝国の大学に進学する予定だそうだな。 ――お前は、それに同行したいということか?」

「……!」


 瞬間、クラリスは目を見開いた。

 その意図を、図りかねて。


 だが、答えは決まっている。


「違います」


 クラリスは即座に首を振った。


「確かに、ユリウス様からお誘いはいただきました。けれど、わたしが帝国に行きたいと思ったのは、わたし自身の意志です」


 父の表情は動かない。

 部屋に再び静けさが満ちる。


「わかった」


 唐突に、父は言った。


「お前の好きにしなさい」

「……え?」


 あまりにもあっさりとした承諾に、クラリスは戸惑いの声を漏らす。


「父上!」


 叫んだのはフレデリックだった。

 目を見開き、声を荒らげる。


「話が違うではありませんか! クラリスを止めてくださるのではなかったのですか!」


 父はそれを、視線だけで押しとどめる。


「ラインハルト公爵家は、ノルディアの三大公爵家のひとつ。あの家門と近しい関係を築いておくことは、我がローレンツ家にとって大きな意味がある」

「そんな……! そんなことのために、クラリスを帝国にやるのですか! 私は納得できません!」

「黙れフレデリック。お前の意見は聞いていない」

「――っ」


 父の高圧的な態度に、フレデリックは押し黙る。

 そんな父と兄の姿を、クラリスは茫然と見つめた。


 まさかこんな形で、帝国行きの許可が出るとは、想像もしていなかった。


(……何だか、凄く、複雑な気分だわ)


 けれど、クラリスは俯かなかった。

 どんな理由であれ、父は帝国行きを認めたのだ。


 それが決して自分の望む形ではなかったとしても、自分の成すべきこと、成したいことは決まっている。


「……ありがとうございます、お父様。感謝いたします」


 その声に、まるで不意を突かれたように、フレデリックは肩を震わせる。


 クラリスはそんなフレデリックを一瞥し、堂々と会釈をすると、一人書斎を後にした。

 その背にはもう、ほんの少しの迷いもなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
シスコン兄。思惑が逆方向へ進んでしまったね。 でもシスの考えは尊重すべきよ、人間なんだから。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ