わたし自身の意志です
夏休みも半ばを過ぎた、ある日の夕刻。
クラリスは図書館からの帰り道、心の奥に穏やかな余韻を抱えながら、そっと息を吐いた。
観劇の翌日から、ユリウスとは何となく、ほぼ毎日のように顔を合わせている。
待ち合わせをしているわけでも、声を掛け合っているわけでもないけれど、決まって似た時間帯に図書館の同じ書架に現れては、軽く挨拶を交わし、そのまま自然に同じ席へと落ち着く。
今日も、クラリスが帝国文学に関する資料を探していると、ユリウスが黙って目的の文献を差し出してくれた。まるで、必要とするタイミングを察していたかのように。
その後もしばらく無言のまま、それぞれの本に目を落とした。特別な会話で盛り上がるわけではなかったが、気を遣う必要もないその空気が心地よかった。
図書館を出たあと、少しだけ寄り道して、小さな喫茶店で紅茶を一杯。
窓の外の木漏れ日を眺めながら、読んだ本の感想をぽつりぽつりと交わした時間は、なんでもないようでいて、とても贅沢だった。
(……なんだか不思議ね。特別な話をしているわけじゃないのに、こんなに穏やかな気持ちになれるなんて)
ふと笑みがこぼれる。
そのくらい、今日一日は静かで満ち足りていた――はずだったのに。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。すぐに書斎まで」
「お父さまが?」
帰宅して玄関をくぐった瞬間、使用人にそう声を掛けられ、クラリスは首を傾げた。
父に呼ばれるなど珍しい。いったい何の用だろう。
クラリスは部屋に荷物を置くと、急いで父の書斎へと向かった。
「お呼びでしょうか、お父様」
書斎の扉を開けると、そこには父だけでなく、兄フレデリックの姿もあった。
室内の空気は冷え切っており、先ほどまでの幸福な余韻は一瞬で霧散した。
(……もしかして)
瞬間、嫌な予感が胸に広がる。
父の隣に立つフレデリックに視線を向けると、気まずそうに視線を逸らされた。
ああ、やっぱり――クラリスは全てを察した。
(お兄様ったら、お父さまに帝国行きのことを話したのね)
クラリスはフレデリックに失望しかけたが、すぐに気持ちを持ち直す。
そもそも、早く父に話しておかなかった自分が悪いのだ。それに、自分は何も悪いことはしていない。後ろめたく思う必要もない。
毅然とした態度で顔を上げるクラリスに、父親は低い声で問う。
「帝国行きを考えているそうだな。本気なのか?」
問答無用の圧力を感じる。
が、クラリスは怯むことなく答えた。
「本気です。帝国の大学に、進学したいと思っています」
「その意味を本当に理解しているのか? 帝国に行くということは、お前一人で全てをやらねばならないということだ。お前の様な世間知らずがやっていけると、本気で思っているのか」
「お父様が心配されるのは当然です。でも、やってみたいんです。何もせずに、諦めたくないんです」
「…………」
部屋に沈黙が満ちる。
父親はしばらく黙っていたが、不意に、話題を変えた。
「最近図書館で、行動を共にしている男がいるそうだな。……隣国、ラインハルト公爵家のご子息だと。その話は誠か?」
「……? はい、それは……事実ですが」
「聞くところによると、そのご子息は帝国の大学に進学する予定だそうだな。 ――お前は、それに同行したいということか?」
「……!」
瞬間、クラリスは目を見開いた。
その意図を、図りかねて。
だが、答えは決まっている。
「違います」
クラリスは即座に首を振った。
「確かに、ユリウス様からお誘いはいただきました。けれど、わたしが帝国に行きたいと思ったのは、わたし自身の意志です」
父の表情は動かない。
部屋に再び静けさが満ちる。
「わかった」
唐突に、父は言った。
「お前の好きにしなさい」
「……え?」
あまりにもあっさりとした承諾に、クラリスは戸惑いの声を漏らす。
「父上!」
叫んだのはフレデリックだった。
目を見開き、声を荒らげる。
「話が違うではありませんか! クラリスを止めてくださるのではなかったのですか!」
父はそれを、視線だけで押しとどめる。
「ラインハルト公爵家は、ノルディアの三大公爵家のひとつ。あの家門と近しい関係を築いておくことは、我がローレンツ家にとって大きな意味がある」
「そんな……! そんなことのために、クラリスを帝国にやるのですか! 私は納得できません!」
「黙れフレデリック。お前の意見は聞いていない」
「――っ」
父の高圧的な態度に、フレデリックは押し黙る。
そんな父と兄の姿を、クラリスは茫然と見つめた。
まさかこんな形で、帝国行きの許可が出るとは、想像もしていなかった。
(……何だか、凄く、複雑な気分だわ)
けれど、クラリスは俯かなかった。
どんな理由であれ、父は帝国行きを認めたのだ。
それが決して自分の望む形ではなかったとしても、自分の成すべきこと、成したいことは決まっている。
「……ありがとうございます、お父様。感謝いたします」
その声に、まるで不意を突かれたように、フレデリックは肩を震わせる。
クラリスはそんなフレデリックを一瞥し、堂々と会釈をすると、一人書斎を後にした。
その背にはもう、ほんの少しの迷いもなかった。