エスコート、ですか?
レオンと舞台を観た翌日の昼下がり。
クラリスは王立図書館の静かな書架の間を、浮かない顔で歩いていた。
窓から流れ込む夏の風も、微かに聞こえるページをめくる音も、どこか現実味がない。
それはクラリスが、観劇の余韻に沈んでいたからだった。
(……レオン様、ちゃんと無事に帰れたかしら)
昨夜、クラリスはレオンから、本当の気持ちを告白された。
それに対してクラリスは、『帝国行きを諦めるつもりはない』と答えた。
するとレオンは押し黙り、それ以降何も言わなくなってしまったのだ。
話しかけても、ただ舞台をぼんやりと見つめているだけだった。
その横顔が、頭から離れない。
幕が下りてもそれは変わらず、クラリスは仕方なく、一人で席を立つことにしたのだ。
「お先に失礼しますね?」と、去り際に声をかけると、レオンはようやくゆるゆると顔を上げて、「ああ。気を付けて帰れよ」と小さく返したが、それ以上の反応を見せることはなかった。
(まぁ、でも、きっと大丈夫よね。レオン様も、子どもではないんだし)
レオンの気持ちは確かに届いた。けれどクラリスは、それを抱えて生きていくという選択をするつもりはなかった。
となれば、下手に優しくして、レオンの自分への未練を残してしまっては酷というもの。
つまり、これ以上、自分がレオンにしてあげられることは何もない。
それに、今は自分の進むべき道に目を向けなければ。
クラリスは昨夜のレオンの残像を記憶から振り払い、天井まで届く高さの書架を、しっかりと見上げた。
クラリスの手にしているメモには「帝国の近代文学」「女子教育」「社会参加」といった文字が並んでいる。
帝国の大学で学ぶ上での予備知識を、少しでも蓄えておきたい――そんな目的だった。
そうして、目的の書棚の上段にある一冊に手を伸ばしたそのとき。
ふいに背後から、聞き覚えのある、優しい声が降りてきた。
「……これかな?」
頭上に伸びた手が、目をつけていた本を、本棚からスッと引き抜いていく。
クラリスが振り向くと、そこにいたのはユリウスだった。
「ユリウス様……!」
刹那、心がふわりと弾む。
その理由は、すぐに分かった。
今日のユリウスは、茶髪に眼鏡の変装姿ではなく、よく見慣れた制服姿でもない。
銀糸のように輝く髪と、魅力的なエメラルド色の瞳。それに、初めて見る私服姿。
その爽やかないで立ちに、思わず胸がときめいた。
(こっちの姿は慣れないわ。あまりにも見目麗しいんだもの)
目のやり場に困るなぁと思いながら、差し出された本を受け取ると、ユリウスはやんわりと微笑む。
「さっき溜め息が聞こえちゃったんだけど、何か悩み事? もしよかったら、聞こうか?」
そう切り出され、クラリスは一瞬躊躇った。
溜め息の原因は、レオンのことだったからだ。
けれど、それ以外にも、悩みはある。
クラリスは、「では、少しだけ……」と、打ち明けることを決め、ユリウスと共に自習スペースへと移動した。
「実は、進学のことなのですけれど……。自分でも色々と調べているうちに、帝国に留学したいという気持ちは固まったのです。けれど、家族の説得が難しそうで」
クラリスは、兄に進学を反対されていることを伝えた。
父にはまだ話していないが、兄が反対するくらいだ。父はもっと反対するだろう、と。
ユリウスは、その話を黙って聞いていたが、不意に、呟く。
「……やっぱり、僕の名前は出していないんだね」
「……え?」
「ううん、何でもない。――でも、そうだよね。君の家族の気持ちもよくわかる。もし僕が君の兄だったら、同じように反対しただろうから」
ユリウスは穏やかに目を細め、少し考えてから、こう言った。
「君、留学生支援金制度って知ってる?」
(……留学生、支援金制度?)
クラリスは「いいえ」と、首を振る。
「留学生を対象にした、帝国の支援金制度でね。条件を満たす者に、国が学費や滞在費を補助してくれるんだ。受験時に能力が認められれば、身分関係なく、家族の同意がなくとも使うことができる。もちろん、君もね」
「そのような制度が?」
「うん。ただ僕としては、ちゃんと家族に納得してもらってから進学してほしいと思ってる。だから、これはあくまで“最終手段”として、考えてくれると嬉しいかな」
ユリウスの言葉は、クラリスだけではなく、家族のことも尊重してくれていることがわかる。
その優しさに、クラリスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます、ユリウス様。わたし、もっとよく考えてみますね」
クラリスは微笑み返し、「ところで」と話を変える。
「ユリウス様はどうして図書館に? 調べ物ですか?」
「ああ、うん。今、新作の準備をしていてね。資料集めに」
「まぁ、すみません。わたしったらお忙しいところを……。でも、新作だなんて……とても、楽しみです」
まるでプレゼントの箱を開けるときのように顔を輝かせるクラリスに、ユリウスは目を細めた。
「しばらくは図書館に通うつもりだから、またこうやって会えると嬉しいな。君と次の約束をせずに夏休みに入ってしまったこと、ずっと後悔してたんだ」
「……!」
ユリウスの真っすぐすぎる眼差しに、クラリスは目を瞬いた。
特に深い意味はないとわかっていても、こうも直球に好意を示されると、反応に困ってしまう。
そう思いながらも、「はい」と頷くと、ユリウスは満足そうに微笑む。
そして、「ああ、そうだ。この前の"お礼"の件だけど――」と前置きした上で、クラリスの顔を覗き込むようにして言った。
「十一月に、学園内で舞踏会があるって聞いたんだ。もしまだ誰とも約束していなければ、舞踏会のエスコート役、僕にやらせてくれないかな?」
「エスコートですか? ユリウス様が、わたしの?」
クラリスは目をぱちくりさせる。
(そもそも、"お礼"というのは、わたしが翻訳を手伝ってもらったことへのお返しのはずで……。それなのに、ユリウス様にエスコートしていただくなんて、おかしな話だわ)
とはいえ、クラリスは更に考える。
去年、一昨年の校内舞踏会では、婚約者であるレオンがエスコート役だったが、一曲踊ったらレオンはすぐにどこかに行ってしまった。
きっとレオンのあの行動は緊張から来るものだったのだろうが、何にせよ、婚約破棄が成立した今、クラリスはエスコート役を自力で探さねばならない。――が、今ここでユリウスの申し出を受ければ、その必要はなくなる。
「本当にいいのですか? わたしとしては大変ありがたいお申し出ですが、お礼になっていない気がします」
「十分お礼だよ。僕がやりたいんだから。じゃあ、決まりね」
そう言って笑みを零すユリウスに、クラリスは精一杯の礼を込め、「では、お言葉に甘えさせていただきますね」と、明るい笑みを返した。