失うものは何もない
一方、クラリスのいるボックス席を出たメリッサは、別のボックス席の扉を開けていた。
その席の最前列には、オペラグラスを覗くヴィクトルの姿がある。
「……レオンの様子はどう?」
隣に腰を下ろしながら訊ねると、ヴィクトルは微かに顎を動かした。
「今入ってきたところだ。……そっちはどうだ? 上手く誤魔化せたか?」
「ええ、何とかね。でも、正直気が気じゃなかったわ」
メリッサは背もたれに身を預け、小さく溜め息をつく。
「ああいう嘘は苦手よ。レオンの為とはいえ、騙していることには変わりないもの。クラリス様とはいいお友達になれそうな気がしていたのに……きっと嫌われてしまったわ。もう会ってくれないかも」
その横顔は、どこか寂しさを含んでいた。
――ヴィクトルも息をつく。
「そう言う割には、随分板についていたじゃないか。――演技」
そう言って、冗談っぽく肩をすくめた。
メリッサはカッと目を見開く。
「ヴィクトル、あなたまさか、コソコソとわたしたちを見ていたの?」
「怒るなよ。俺はただ心配だったんだ。こんな憎まれ役引き受けて、辛いんじゃないかってさ」
「……っ」
ヴィクトルの優しい微笑みに、メリッサは思わず顔を逸らす。
――数日前。
メリッサはレオンから手紙を受け取った。
そこには、『クラリスのことで協力を仰ぎたい。詳細は直接会って話す』と書かれていた。集合場所は、ヴィクトルの屋敷。
メリッサは訝しく思ったが、レオンとクラリスの婚約破棄について、少なからず責任を感じていたため、話くらいは聞こうと思い、ヴィクトルの屋敷を訪れた。
するとそこで、レオンからこのように頼まれたのだ。
「クラリスと二人きりで話がしたい。彼女を呼び出してくれないか。それと、エヴァレット家のオペラ座の席を貸してほしい。俺の家の席だと、父上に知られる恐れがあるからな」――と。
それを聞いたメリッサは、何と図々しいのだろうと思った。
けれどレオンの意思は固く、ヴィクトルの「そんなやり方じゃ、信頼を損なうだけだぞ」という忠告にも耳を貸さない。
「信頼だと? そんなものははなから存在しない。クラリスとの婚約は破棄されているんだ。俺にはもう、失うものは何もない」
そう言って、一歩も引こうとしないのだ。
終いには、「頼む、メリッサ。俺に、最後のチャンスをくれないか」と懇願されてしまい、メリッサは折れるしかなかった。
とは言え、婚約破棄が成立した今、レオンとクラリスが二人きりになるのは倫理的にまずい。
そう判断したヴィクトルは、レオンを別の席から監視することにしたのだ。
「なら、俺も同行する。お前が万一暴走したら、止める役が必要だからな」と。
――メリッサが一連のことを思い出していると、ヴィクトルが穏やかな声で言う。
「あんまり心配するな。俺も後で一緒に謝ってやるからさ」
「……クラリス様、許してくれるかしら」
「まぁ、正直言うと、今夜のレオン次第なところはあるけどな。クラリス嬢なら、きっと許してくれるさ」
それはあまりにも楽観的な意見だったが、メリッサはヴィクトルの言葉に励まされ、心を落ち着ける。
ヴィクトルはそんなメリッサを横目で流し見て、再びオペラグラスを覗いた。
「……にしても、あの二人。いつまで突っ立ってるつもりだ? もう幕が上がるっていうのに」
その声に、メリッサも視線を向ける。
そうだ、今はとにかくレオンのことだ――。
「そのオペラグラス、貸しなさいよ。わたしも様子を見たいわ」
メリッサが顔を寄せると、ヴィクトルは胸ポケットからもう一つ、オペラグラスを取り出す。
「そう言うと思って、もう一つ持ってきた。ほら」
「あら、用意がいいじゃない」
グラス越しに視線を向けると、確かにクラリスとレオンは言葉少なに立ち尽くしていた。
表情こそ見えないものの、二人の間に漂う緊張感は、グラス越しにもはっきりと伝わってくる。
「……レオンったら、大丈夫かしら。緊張しすぎて、怒鳴ったりしてなきゃいいけど」
ちょうどそのとき、劇場の照明が一斉に落とされた。
舞台中央に一筋の光が灯り、幕がゆっくりと引き上がっていく。
その後ようやく、ふたりはそれぞれ椅子に腰を下ろした。
「……よかったわ。クラリス様、立ち去ったりしなくて」
「はぁ。こんな気持ちにあと二時間も堪えなきゃいけないのか。何を話しているかわからない分、余計に落ち着かないな」
ほっとしたように胸に手を当てるメリッサと、レオンへの心配から長い息を吐くヴィクトル。
――その視線の向こうで、レオンとクラリスの幕が今、上がろうとしていた。