帝国に留学したいんです
夏休み前日の放課後。
図書館の一角にて、最後の一文を訳し終えたクラリスは、ほっと安堵の息をついた。
「……これで、最後」
積み重ねた原稿を丁寧に揃える。
二ヶ月間に渡った翻訳作業は、ついに今日で完了となった。
「お疲れさま。最後までよく頑張ったね」
「ありがとうございます。最後までやりきれたのは、ユリウス様のお陰です」
クラリスが感謝を伝えると、ユリウスはニコリと笑みを浮かべる。
けれどその微笑みは、普段と比べて、どこか張り詰めているように見えた。
(……? ユリウス様、お疲れなのかしら)
不思議に思いつつも、クラリスは尋ねる。
「お礼の件、考えていただけましたか?」
するとユリウスはいつになく神妙な顔をして、「その前に、君に聞きたいことがあるんだけど」と言葉を濁す。
(聞きたいこと? 何かしら)
クラリスが小さく頷くと、ユリウスは慎重に口を開いた。
「君、縁談を薦められているって、本当?」
「――!」
刹那、和やかだった空気に、わずかに緊張が走る。
「……どうして、それを……」
「昨日、食堂で偶然聞いちゃったんだ。……でも、その感じだと本当なんだね。ここのところ、君が何かに悩んでいるなってことは気付いてたけど。……そうか、縁談か」
短く息を吐いたユリウスに、クラリスは一瞬たじろいだ。
(もしかして、怒っていらっしゃる?)
そうは思ったけれど、だとしても、どう返すのが正解か分からない。
クラリスは決まりきった答えを返す。
「……この国では、貴族の結婚は義務なんです。レオン様との婚約破棄が成った今、新しい縁談を薦められるのは当然のことですから」
すると、ユリウスは小さく眉を寄せた。
「それはそうかもしれないけど……。僕が言いたいのは、どうして一言も相談してくれなかったのかってことだよ。君と友人だと思ってたのは、僕の方だけだったのかな」
「……っ」
いつもより低いユリウスの声が、心に刺さる。
苛立ちの混じった様なその言葉に、クラリスは思わず目を伏せた。
「申し訳ありません。何度も迷ったのですが、ユリウス様に話したら、気を遣わせてしまう気がして……」
「…………」
ユリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……確かに、君の言うとおりだ。ごめんね、言いすぎたよ。僕はただ、君の友人として、力になりたかっただけなんだ」
その場に沈黙が流れる。
ユリウスは再び視線をクラリスに戻し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「君がもし、今の状況に息苦しさを感じているなら……それを打開するために、僕からひとつ提案があるんだけど。……聞いてくれる?」
「提案、ですか?」
ユリウスは、気まずくなってしまった空気を変えるように、優しく微笑む。
「君、帝国に行くつもりはない?」
「――え?」
「僕、年が明けたら帝国に渡る予定なんだ。父の意向でね。ノルディアではなく、帝国の大学に進むことになってる。……君も、一緒に行かない?」
クラリスは思わず息を呑んだ。
「わたしが、帝国に?」
「そうだよ。でも、ただ一緒に行くだけじゃない。君も受験するんだよ。帝国の大学を」
「受験ですか? そんな……わたしが? 無理です」
「無理なんかじゃない。君の語学力なら十分に通用するよ。僕が保証する」
ユリウスは、確信をもって言う。
「それに、帝国の大学は出自で線を引かないんだ。平民から貴族まで、同じ教室で学ぶのが当たり前だし、女性の学生もすごく多い。学ぶ内容に性別の壁なんてないからね」
「……平民や、女性もですか?」
「うん。それに留学生も多いよ。全体の二割は他国出身の学生で、珍しくもなんともない。君なら、きっとすぐに馴染めると思う」
それは、知らない世界への扉のようだった。
クラリスが言葉を返せないままでいると、ユリウスはごく自然な口調で付け加える。
「答えはすぐに出さなくてもいい。あくまで選択肢の一つとして、考えてみてくれないかな」
その夜。クラリスは迷いながらも、兄フレデリックの部屋を訪れた。
フレデリックは夜遅いクラリスの訪問に、驚いた顔を見せた。
「どうした、こんな遅くに。何かあったのか?」
心配そうなフレデリックの声に、クラリスの中で迷いが大きくなる。
けれど、それでもクラリスは、フレデリックの顔を見つめて、問いかけた。
「もし、わたしが帝国の大学に進学したいと言ったら……お兄様は、どう思われますか?」
「…………今、何と言った?」
聞き間違いか? とでも言うように顔をしかめたフレデリックに、クラリスは一瞬怯んだ。
だが、どうにか気を取り直し、再び唇を開く。
「わたし、帝国に留学したいと思っているの。お兄様」