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お礼をさせていただけませんか?


 夏休みまで残り一週間を切った日の、放課後の街の図書館。


 その日もクラリスは、ユリウスと二人、翻訳作業を進めていた。

 窓からは傾きかけた太陽の日差しが差し込み、赤みを帯びた光が棚の本背を金色に染めている。



 クラリスは机の上に広げたノートにペンを走らせながら、原書と辞書を見比べて、ユリウスに声をかけた。


「――この『discerningディサーニング』って、直訳だと『洞察力のある』になると思うのですが、文脈的には『目が利く』の方がいいでしょうか?」


 するとユリウスは原書に視線を落とし、尋ね返す。


「どうしてそう思ったの?」

「前後が人物評ですから、繋がりを考えたらこの方が自然かと」


 クラリスが答えると、ユリウスは嬉しそうに目を細めた。


「うん、正解だ。最近、随分と翻訳に慣れてきたんじゃない? これはそろそろ、僕もお役ごめんかな」

「――! そんなこと言わないでください……! とても頼りにしているのですから!」

「ははっ! 冗談だよ。この時間を楽しみにしてるのは僕の方なんだから。最後までやめるつもりはないよ」

「……っ」


 にこりと微笑まれ、クラリスは思わず頬を染める。――変装をしているとはいえ、この笑顔は眩しすぎて、心臓に悪い。


 ユリウスは、クラリスが目をそらしたことに気づいたようだったが、何も言わずに本へと視線を戻した。

 そのさりげなさが、余計にクラリスの鼓動を早くする。




 思えば、この一週間は緊張と戸惑いの連続だった。


 クラリスは、ユリウスがルース・A・ジュリアン本人であることを知ってから、恥ずかしさのあまり、まともにユリウスの顔を見ることができなくなってしまったのだ。


 というのも、クラリスはルース・A・ジュリアンを心から敬愛しており、ユリウスの前で、毎日のようにジュリアンについて熱く語っていたからである。

 だが、そのユリウスこそがジュリアン本人だった。つまりクラリスは、本人の前で、本人を褒めちぎっていたわけである。


(いつもわたしの話を嬉しそうに聞いてくれるな、とは思っていたけれど、まさか本人に向かって話していたなんて……恥ずかしすぎるわ)


 クラリスは、ユリウスが自分と同じジュリアンのファンだと思っていたから、気を許して話したのだ。

 それがまさかの本人となれば、話は全く違ってくる。当然、クラリスはどう接したらいいのかわからなくなってしまった。


 けれどユリウス本人は、あまりにも変わらない態度で接してきた。

 肩肘張らない言葉の選び方も、柔らかな笑顔も、温かな眼差しも、あの日以前と何ひとつ変わらなかった。


 そのおかげだろう。少しずつではあったが、クラリスも以前と同じ態度を返せるようになった。

 “意識しすぎる方が失礼だ”――そう思わせてくれるユリウスの優しさに、今ではすっかり、信頼感を寄せている。




「……あの、ユリウス様」


 ふと、クラリスが顔を上げた。


「翻訳がすべて終わったら……何か、お礼をさせていただけませんか?」


 するとユリウスは、驚いたように目を丸くする。


「お礼? 気にしなくていいのに」

「いえ。こんなにも良くしていただいて、このままでは、わたくしの気が済みませんから」

「……そう? ――うん、わかった。なら、考えておくね」


 ユリウスは嬉しそうに微笑む。


 そんなユリウスの笑みに、クラリスは心が温かくなるのを感じながら、再び翻訳作業に取り掛かるのだった。




 クラリスが屋敷へと戻ったのは、日が暮れる少し前のことだった。

 私室に向かう為に階段を上がったところで、兄フレデリックに呼び止められる。


「クラリス、話がある。荷物を置いたら俺の書斎に来てくれ」

「……? はい、わかりました」


(改まってどうしたのかしら?)


 不思議に思いながら、荷物を置いてフレデリックの書斎に向かう。


 入室の許可を得て中に入ると、フレデリックはどこか張り詰めた様子で、書斎机の椅子に腰かけていた。

 机の上には、数枚の書類が並んでいる。


(お兄様、何だかいつもと様子が違うわ。何かあったのかしら?)


 違和感を感じつつも書斎机の前に立つと、フレデリックは静かに尋ねた。


「レオンとエヴァレット侯爵令嬢の噂はどうなった? 鎮まったのか?」

 

 唐突な問いに、クラリスは二度瞬きをする。――なるほど、その話か。そう思った。


「はい。噂はすっかりなくなりましたわ」


 それもこれも、ひとえにユリウスのおかげだろう。

 ユリウスが留学してきてからというもの、校内の話題という話題はすべて、ユリウスがかっさらってしまったのだから。それは、レオンとメリッサが恋仲であるという噂も、例外ではなかった。


 フレデリックは安堵の息を漏らす。


「つまり、お前はもうレオンと一緒に過ごす必要はないということで、間違いないな?」

「ええ、間違いありません」


 事実、あの日――空き教室での騒動からというもの、クラリスは一度もレオンと言葉を交わしていない。

 昼食も別々で、レオンの姿を廊下で偶然見かけることはあれど、それ以上のことはなく、一週間が過ぎた。


 クラリスはそんな状況に、心の片隅に針を刺したような違和感を覚えつつも、「レオンとの関係はこれで本当に終わったのだ」と自分を納得させていた。



 フレデリックはクラリスの言葉に短く相槌を打つと、手元の書類を一枚引き寄せる。


「ならば、婚約の正式な抹消手続きをしても問題ないな。明日にでも、教会に書類を提出する」


 兄の口調は淡々としていた。けれどその瞳には、葛藤が垣間見える。

 やっぱり何か変――そう思ったクラリスに、フレデリックは言いにくそうに切り出した。


「それでな。父上が、新たな縁談を進めようとしているんだ。まだ早すぎると止めはしたが、いつまで待ってくださるかは分からない」

「――!」


 やはり――。

 フレデリックに感じた違和感はこれだったのだ。

 

 クラリスは思わず瞼を伏せた。

 予想していなかったわけではない。けれど、実際に聞かされると、ずしりと、何かに押しつぶされるような重圧に襲われた。


 フレデリックは続ける。


「父上は然るべき相手に嫁がせようと考えているようだが、少なくとも俺は、お前を大切にしてくれる相手でなければと思っている。……だから、と言うわけではないが、お前も今後のことを考えておいてくれ」


 言い終えると、フレデリックはほんのわずかに視線を逸らし、再び書類へと目を落とす。

 口には出さなくとも、彼がこの話を切り出すまでに、どれほど心を痛めていたか――それが痛いほどに伝わってきた。


(お兄様ったら……本当はこんな話したくなかったって、顔に書いてある)


 愛する妹に、望まぬ縁談を口にすること。

 それは兄にとって、本意ではないに違いなかった。


 けれど、父が自分に話をする前に、伝えておかなければと思ったのだろう。その不器用な優しさに、胸が痛んだ。


 なればこそ、これ以上兄に負担をかけるわけにはいかない。――そう思ったクラリスは、精一杯の笑みを浮かべる。


「どうか気に病まないでくださいませ。この家に生を受けた者として、よい縁を結ぶことは当然の責務。……きちんと考えておりますと、お父様にお伝えください」


 作り物の笑顔だと自覚はしていた。


 けれど、フレデリックの眉間に寄っていた皺がわずかばかり緩んだのを見て、これでよかったのだと、クラリスは胸の内で呟いた。

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