撤回してください
――翌朝。
学園に登校したクラリスは、上機嫌に廊下を歩いていた。
(ユリウス様に翻訳を手伝ってもらって三週間。このペースなら、夏休みに入る前に終わりそうだわ)
先月、図書館で偶然ユリウスと居合わせてから、凡そ三週間。
クラリスは放課後、ほぼ毎日のように、ユリウスに翻訳のアドバイスをもらっていた。
――出会った初日のこと。
一ページだけのつもりで翻訳を手伝ってもらったクラリスは、ユリウスの翻訳レベルの高さに舌を巻いた。
丁寧で、正確で、美しく。クオリティもさることながら、ジュリアンのファンと公言しているだけあって、ユリウスの訳は、まるでジュリアン本人であるかのような、豊かな表現力を見事に体現していたのだ。
その文章力にすっかり魅入られてしまったクラリスは、ユリウスの「僕もこの国の言葉について、君から色々と教わりたいんだ。つまり、これは正当な取引だよ」という言葉もあって、翻訳を手伝ってもらうことにしたのである。
それからというもの、二人は図書館で毎日のように過ごした。
その間ユリウスは、「僕の容姿は目立つからね」と言って、売り子のときの地味な姿に変装してくれていた。
おかげでクラリスは、ユリウスとの噂が立つことなく、有意義な三週間を過ごすことができている。
(全て終わったら、ユリウス様に何かお礼をさせていただかなくちゃ。何がいいかしら?)
そんなことを考えながら、教室へ入ろうとした、そのときだった。
「クラリス嬢、ちょっといいか?」と、呼び止められる。
振り向くと、そこにいたのはヴィクトルだった。
「おはようございます、ヴィクトル様。わたくしに何かご用ですか?」
「ああ。突然申し訳ないが、君にいくつか確認したいことがあるんだ。でも、あまり人には聞かれたくない話で。できれば場所を移して話したいんだが、いいか?」
「?」
どうしたのだろうか。いつもの気さくなヴィクトルとは、どうも様子が違う。
とはいえ、断る理由もないので、クラリスは素直に頷いた。
「わかりました。ではこの鞄だけ、教室に置いてきてもいいでしょうか?」
「勿論」
――こうしてクラリスは、ヴィクトルに誘い出され、その場を離れた。
付いて行った先は、人気のない別棟だった。
資料室や倉庫、今は使われていない空き教室などがある棟だ。
(こんなところまで来るなんて、よほど周りに聞かれたくない内容なのかしら?)
不思議に思いつつ、ヴィクトルの後を追って、空き教室の一つに入る。
当然そこには自分たち以外誰もおらず、しんと静まり返っていた。
「あの……ヴィクトル様? お話とは?」
クラリスは、ヴィクトルの背中に向かって問いかける。
するとヴィクトルは、窓際で足を止め、ゆっくりと振り向いた。その表情は、どことなく固い。
(……やっぱり、何か変だわ)
そう感じた瞬間、ヴィクトルが口を開く。
「これはレオンの友人の立場として聞くんだが――君、ここのところ放課後、図書館で男と会ってるだろう」
「――!」
「あの男と君は、どういう関係なんだ? 随分親密に見えたが……」
クラリスは驚いた。
ヴィクトルの言う男というのは、ユリウスのことに違いない。けれど、どうしてヴィクトルがそんなことを聞いてくるのか分からなかった。
とは言え、特にやましいことのないクラリスは、笑顔で答える。
「あれはユリウス様ですわ。ノルディア語の本の翻訳を、手伝っていただいておりますの」
ヴィクトルは目を見開く。
「ユリウス……? まさか、ユリウス・ラインハルトのことか? 留学生の?」
「ええ、そうです」
クラリスが頷くと、ヴィクトルは眉間に大きく皺を寄せた。
「いや、違う。俺が言っているのは別人だ。ユリウスではなく、茶髪で眼鏡をかけた――」
「ああ、それは……」
確かに、図書館でのユリウスは、普段のユリウスとは似ても似つかない。信じられないのも当然だ。
そう思ったクラリスは、『あれは変装だったのですよ』と伝えようとする。
――だが、その瞬間だった。
「嘘をつくな!」
と、怒声が教室に響き渡る。
振り返ると、教室の入口に、荒々しい形相のレオンが立っていた。その瞳は、怒りと混乱とで血走っている。
「そうやって誤魔化すつもりか? あの地味な男のどこが、ユリウス・ラインハルトなんだ!」
レオンはずんずんとクラリスに近づくと、ヴィクトルの静止も聞かず、責め立てる。
「まさかお前、あの男に気があるから庇ってるんじゃないだろうな!? だからあんな風に――!」
「……え? ですが、彼は本当にユリウス様で……」
「――っ、あくまで白を切り通すか! なら言わせてもらうが、仮にあの男がユリウスだとして、百歩譲って善意だけで毎日翻訳に付き合うなんて有り得ない! 下心あってのことに決まってる! それなのにお前は、あんなに近くに寄ることを許して……もし何かされたらどうするつもりだ!?」
レオンの怒気をはらんだ声が、教室内に響き渡る。
予期せぬ激しい言葉に、クラリスは思わず身をこわばらせた。
(どうして、こんな風に責められなければならないの?)
確かに、レオンの言うことも一理あるのかもしれない。
婚約者でもない男性と毎日のように一緒にいたら、良からぬ噂を立てられることもあるだろう。
だとしても、最初に裏切ったのはレオンの方だ。自分と言う婚約者がいながら、メリッサにばかり構っていた彼に、こんなことを言われる筋合いはない。
それに何より、クラリスは許せなかった。
レオンが、ユリウスを貶めるような発言をしたことを――。
「……撤回してください」
「――何?」
「今の言葉、撤回してください。ユリウス様は、そのようなことをなさる方ではありません……!」
それはクラリスの初めての反抗だった。
今まで一度だってレオンを責めたことも、怒ったこともないクラリスが、初めてレオンに見せた怒りの感情。
その強い眼差しに、レオンの頭に血が昇る。
クラリスの両肩を掴み、嫉妬と焦燥のままに睨みつけた。
――まさか本当に、あの男のことが好きなのか、と、口にしかける。
だが、そのときだった。
「そこまでにしようか」
と、涼し気な声が響き渡ったと思ったら、三人が振り向いた先に、ユリウス・ラインハルトが立っていたのである。