絶対に渡さない
――七月の初旬、夏の兆しを感じる午後の学園。
教室の窓の外からは、蝉の鳴き声が響いている。
レオンはその音を聞きながら、机に腕を組み、ぼんやりと考え込んでいた。
(もうすぐ夏休みか。……クラリスを避暑地に誘えないだろうか)
最近のクラリスは、以前と比べてよく笑うようになった。
二人きりではないとはいえ毎日ランチは一緒だし、話しかけても素っ気なくされることはなくなった。寧ろ、上機嫌だと思えるほどだ。
(今の俺たちの関係なら、婚約の結び直しもあり得るんじゃないか? もしそうなったら、クラリスを別荘に誘って……。いや、それは流石に気が早すぎるか。まずは、学園外で会う許可を貰うところからだ)
夏休みは二ヵ月もある。
今のままでは、あと二週間もしないうちに、クラリスと会えなくなってしまう。そろそろ次の段階に進まなければ。
レオンは後ろの席を振り返り、読書中のヴィクトルに相談を持ちかけた。
「ヴィクトル、相談がある」
「……何だ?」
ヴィクトルはやや迷惑そうに反応する。目線は本に向いたままだ。
「そろそろ学園外でもクラリスと会えるようにしたいんだが、どうしたらいいと思う? 彼女の屋敷に出向いて、頭を下げればいいのか?」
「…………」
すると、ヴィクトルはピクリと眉を震わせて、ゆっくりと顔を上げた。
「……学園外、か」
その反応は、かなり微妙と言わざるを得ないものだった。
ヴィクトルは本をパタンと閉じて、神妙な顔で告げる。
「あのな、レオン。落ち着いて聞いてほしいんだが……」
「? どうした」
慎重な口ぶりで話し始めるヴィクトルに、レオンは軽く眉をひそめる。
ヴィクトルは短く息を吐き、静かに続けた。
「先週の放課後、街の図書館に行ったら、クラリス嬢を見かけたんだ。それで声をかけようと近づいたら……彼女、男と一緒にいたんだよ」
「……男?」
瞬間、レオンの瞳が大きく見開く。
「先に言っておくが、兄弟とかじゃないからな。この学園の制服を着ていたから、間違いなくここの生徒だ」
「……!」
その言葉に、レオンは嫌な予感がし始める。
「だ――だが、ただの知り合いで、偶然会っただけという可能性もあるだろう」
「そうかもしれないな。けど、ただの知り合いが一緒に本を選ぶと思うか? お前、学園外では今もクラリス嬢と接触禁止のままだろう? 彼女が放課後に何をしているか、ちゃんと知ってるか?」
「――!」
ヴィクトルの問いに、レオンは絶句する。
学園の外ではクラリスに近づくことが許されていないレオンは、クラリスの放課後の行動をほとんど把握していなかった。
クラリスが図書館に通っていることは、毎日のランチでの会話で知っていた。
けれど、誰かと待ち合わせをしているなどいう話は、一度も聞いたことがない。
(つまり、クラリスは敢えて俺に内緒にしていたということか? 『今日も図書館に行く予定です』と楽しそうに話していたのは、その男と会えるからだったのか?)
クラリスが、自分ではない、別の男と楽しそうに過ごしている――。
その光景を想像しただけで、レオンはどうしようもなく、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
その日の放課後。
レオンはヴィクトルを(無理やり)連れ出し、クラリスの後を追った。
クラリスの行き先は、案の定、街の図書館だった。
(頼む……ただの勘違いであってくれ)
心の中で強く願いながら、レオンは書架に隠れつつ、クラリスを追いかける。
クラリスは自主学習スペースへ向かい、空いた席に腰を下ろすと、読書に没頭し始めた。
その様子は、誰かと待ち合わせをしているようには見えない。
(なんだ……やっぱり勘違いだったんじゃないか)
レオンは心底安堵する。
確かに、クラリスはこの図書館に通っている。
だがそれは単に本を読むためで、誰かと待ち合わせをしているわけじゃない。ヴィクトルが見たのは、本当にたまたま、知り合いに会った場面だったのだろう。
レオンはそう結論付けて、その場を離れようとした――そのときだった。
一人の男子生徒がクラリスに近づき、声をかけたのである。
しかも、声をかけると同時に、慣れた様子でクラリスの隣に座り、クラリスはそれを咎めもしない。むしろ、待ってましたと言わんばかりに笑顔を振りまいている。
その光景に、レオンは強いショックを受けた。
(まさか……本当だったのか?)
二人で一冊の本を開き、親しげに話している様は、まるで恋人同士のようだ。
(誰なんだ、あの男は……。あんな奴、俺たちの学年にいたか……?)
男子生徒のタイの色は赤。つまり、自分と同じ三年生であるはすだ。それなのに、全く見覚えがない。特徴と言えば、眼鏡をかけていることくらいだろうか。
(クソッ……、いったい何を話しているんだ……! 遠くて会話が聞こえない!)
レオンは耳を澄ましてみるが、やはり内容はわからない。
それが余計に、苛立ちを募らせた。
「……クラリス」
レオンは拳を握りしめる。
このままにはしておけない。今すぐクラリスを問いたださねば――レオンは足を一歩踏み出す。
けれど。
「待て、レオン」
ヴィクトルに腕を掴まれ、止められた。
「離せ!」
レオンは腕を振りほどこうとしたが、ヴィクトルは本気でレオンを止める気らしく、振りほどくことはできなかった。
「落ち着け。今行ったら本当に終わるぞ」
「――ッ、どういう意味だ……!」
怒りを抑えきれないレオンを、ヴィクトルは低い声で諭す。
「忘れたのか? お前は、学園外でのクラリス嬢との接触を禁止されてる」
「――だが!」
「気持ちはわかる。でも今は引くんだ。話なら明日、学園ですればいい。そうだろう?」
「……っ、――クソッ!」
レオンは悪態をつき、くるりと踵を返す。
納得などできるはずがない。見過ごすなど不可能だ。けれど、今はヴィクトルの言うとおり引くしかない――そう判断した。
(クラリスは、絶対に渡さない)
レオンはその場を離れながら、やり場のない怒りを堪えるように、奥歯を強く噛みしめた。