俺が一体何をしたって言うんだ
翌日――昼休みのひととき。
大理石の噴水から流れ落ちる水が陽光を受けてきらめき、生徒たちで賑わう学園の噴水広場にて、クラリスは友人たちとベンチに腰掛け、小説談議に花を咲かせていた。
話題はまさしく、『ルース・A・ジュリアン』の作品についてである。
「クラリス様がおすすめしてくださった『六度目の恋』、とても素晴らしかったですわ! 特に最後の再会のシーンなんて、思わず涙が零れてしまって」
「わたくしもよ! ドキドキしすぎて、五回も読み直してしまったわ」
「ねえ、クラリス様! 他の作品も読んでみたいわ! また貸してくださる? 図書館は貸し出し中が多くて」
「ええ、勿論ですわ。いいものは皆で分かち合うべきですもの」
婚約破棄騒動から約三週間。
まだ婚約破棄は成立していないが、学園内も少しずつ落ち着きを取り戻してきた今日この頃。
クラリスの学園での日常には、主に二つの変化があった。
一つ目は、ルース・A・ジュリアンの作品の布教に成功し、こうして小説について語らうことができるようになったことだ。
これまで一人で本を読んでいたクラリスにとって、これはとても嬉しい変化だった。
だが、そうではない変化もあった。
それは、多くの女生徒たちから恋愛相談を受けるようになったことである。
婚約破棄騒動のせいで学園中の有名人になったクラリスは、その大胆な行いのせいも相まって、『女生徒たちの恋の相談役』に担ぎ上げられてしまった。
「クラリス様ならいいアドバイスをくださるのでは?」「きっと背中を押してくださるわ!」「わたくしたちもクラリス様を見習わなきゃ! 男性の言いなりなんてごめんよ!」と言った具合に。
だが、恋愛マスターでも何でもないクラリスは、最初、「わたくしにアドバイスできるようなことは(ありません)」と断っていた。けれど、「話だけでも」と迫られ仕方なく引き受けているうちに、すっかり役目が定着してしまった。
とは言え、クラリスのしていることと言えば、相手の話をよく聞き、共感を示すくらいなもの。
ときどき、自分のように婚約を破棄したいと固い決意を持って訪れる令嬢の話を聞く際は神経を使うが、殆どの女生徒たちは勝手に満足して帰っていくので、少々時間を取られる以外のことは、負担に感じていないクラリスである。
(婚約破棄を宣言するまでは、こんなに悩んでいるのは自分だけかと思っていたけれど……。皆多かれ少なかれ、恋人との関係に悩んでいることが知れたのは、よかったのかもしれないわ)
そんなことを考えていると、不意に、見知らぬ女生徒に声をかけられた。
「ご歓談中のところ、申し訳ありません。わたくし、クラリス様にご相談したいことがあって……」
――案の定である。リボンの色が緑なので、一年生だろう。
深刻そうな彼女の様子に、クラリスは友人たちと顔を見合わせた。すぐさまベンチを一人分開け、快く迎え入れる。
「聞きますわ。さあ、どうぞこちらにお座りになって」
一方、そんなクラリスたちを、少し離れた場所から見つめる人物がいた。
レオンの親友、ヴィクトルである。
彼は壁に寄りかかりながら、クラリスの様子を観察していた。
まるでレオンのことなどすっかり忘れてしまったかのように談笑するクラリスを、ヴィクトルは複雑な思いで見つめる。
(どうして俺が、こんな伝書鳩のような真似を……)
右手で胸ポケットの中の封筒を確かめ、小さく溜め息をつく。
そこあるのは、メリッサからクラリスへ宛てた、お茶会の招待状だった。
――ヴィクトルは、この二週間のことを思い出す。
始まりは、レオンがメリッサと二人、カフェテラスから出て行った翌日のこと。
自宅で休日の朝を堪能していたヴィクトルのもとに、レオンが青い顔をしてやってきた。
「……クラリスに、不味いところを見られた」
開口一番にそう言ったレオンは、まるでこの世の終わりのような顔をしていた。
ヴィクトルが何事かと尋ねると、レオンは必死に説明する。
「メリッサの肩を抱いているところを見られた! だが、全部誤解なんだ!」
レオンは言った。
好きな男がいるのに困る、と泣き出したメリッサを宥めていただけなこと。
それをクラリスに見られ、「お幸せに」と言われたこと。しかも笑顔で。
その上、当然と言えば当然だが、メリッサがヒステリックを起こし、そんなメリッサをようやく屋敷に送り届けたはいいものの、一連の騒ぎがメリッサの父(であり、レオンの伯父でもある)、エヴァレット侯爵の耳に入り、レオンは侯爵や従兄たちから、入れ替わり立ち替わり五時間以上も説教を受け続けたこと。
加えて、エヴァレット家への立ち入り禁止と、メリッサとの接触禁止命令を言い渡されたことなどを。
「それはまた……随分と面倒なことになったな」
「ああ……。やっと屋敷に帰れたと思ったら、父上と母上からも説教されて……。どうしてこんなことに……俺が一体何をしたって言うんだ」
「…………」
あまりにも意気消沈したレオンの姿に、ヴィクトルの中に同情心が芽生えてくる。
(流石に可哀想になってくるな。――にしても、なるほど。だからレオンは昨日戻ってこなかったのか)
昨日、結局二人は授業が終わる時間になっても戻らなかった。
それによって生徒らの間では、レオンとメリッサの関係が確定的なものとなってしまったのだ。
レオンがメリッサを抱き締めながら林から出てきたことは、まだ噂にはなっていないが、それを除いても、事態は悪い方向に進んでいると言わざるを得ない。
レオンが焦ってクラリスに弁解しようとすれば、事態はますます悪化するだろう。
そう考えたヴィクトルは、このように助言した。
「お前たちが二人して戻ってこなかったせいで、お前とメリッサの関係に信ぴょう性が増してるぞ。悪いことは言わない。しばらくは大人しくしていたらどうだ?」
レオンの顔がさらに青ざめる。
「馬鹿を言うな! まずは誤解を解くのが先だ! そんな悠長なこと言ってられるか!」
「気持ちは分かるが、今のお前が何をしても周囲の反感を買うだけだぞ。そもそも、お前はこれまでクラリス嬢をほったらかしにしてたじゃないか。それを今さら、振られて初めて追いかけるって……都合が良すぎると思わないか?」
「――ッ」
本音を言えば、もっと優しい言葉をかけてやりたいところだが、ヴィクトルは心を鬼にして言葉を続ける。
「とにかく、ほとぼりが冷めるまで、クラリス嬢とは距離を置け。これはメリッサのためでもある」
「……メリッサ?」
「あいつも好きな男がいるんだろ? これ以上目立つことをすると、メリッサにも不評が立つことになるぞ。守ってやれよ」
「……っ」
レオンは押し黙る。
結局、レオンは最後まで納得のいかない様子だったが、ヴィクトルの言葉に従うとしぶしぶながら約束し、肩を落として帰っていった。