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そのお言葉だけで十分ですわ、お兄様


 うららかな春の日の午後。

 クラリスは、屋敷の居間のソファで、ひとり読書に没頭していた。


 ティーテーブルにはすっかり冷めきった紅茶と焼き菓子の皿が置かれているが、クラリスが手を伸ばすことはない。

 物語の世界に入り込み、ページをめくるのに夢中だからだ。


 そうしてチクタクと時計の針が進み、すっかり日の傾きかけた頃、クラリスは最後の一文を読み終え、ほぅっと息を吐いた。


「はぁ~、面白かった……!」


 彼女は感嘆の声を漏らし、しばらく余韻に浸る。


「ルース・A・ジュリアン様……。いったいどんなお方なのかしら。きっと素敵な女性に違いないわ……!」


 ここのところ、クラリスはこの著者の本に夢中だった。

 知的かつ洗練された文章。魅力的な登場人物。何より、繊細な心理描写が素晴らしい。

 

 二週間と少し前、図書館で初めてこの著者の本である『六度目の恋』と出会って以来、毎日の様に図書館や本屋に通いつめ、刊行されているものは全て読み終えてしまったほどだ。


 その殆どはロマンス小説だが、冒険小説や歴史小説、さらには哲学的なテーマを扱った作品もあり、どれも奥深く魅力的な作品ばかり。


「いつかお会いしてみたいわ。……でも、流石に無理よね。発行元は隣国ノルディアだもの」


 クラリスが溜息をつくと、居間の扉が開く。

 入ってきたのは、七つ歳の離れた兄、フレデリックだった。


 フレデリックは既婚者で妻子があり、職場近くに屋敷を借りて住んでいるが、クラリスとレオンの婚約破棄騒動を知って以来、こうしてときどき顔を出してくれる。


「お前、また本を読んでいたのか。今日は何時間そこにいたんだ? 本の虫とはお前のような者のことを言うのだろうな」


 フレデリックは、呆れ笑いをしながら近づいてくる。

 そんな兄の言葉に、クラリスはハッと窓の外を見て、目を見開いた。


「まぁ、もうこんな時間。全然気づきませんでしたわ」

「だろうな。……ところで、休日出勤に駆り出されていた可哀そうな兄に、何か言うことはないのか? クラリス」


 そう言って両手を広げる兄に、クラリスは親愛のハグをする。


「おかえりなさいませ、お兄様。今日もお疲れ様でございます」

「ただいま、クラリス。親愛なる我が妹よ」




 その後、クラリスは兄フレデリックと食卓を囲んだ。

 両親は夜会で不在である。

 

 クラリスは、フレデリックと和やかな夕食の時間を過ごした。

 そうして、食後の紅茶を飲んでいるとき、フレデリックがふと口にする。


「そういえば、あれからレオンとはどうなんだ? 婚約破棄の書類、まだ送り返してもらってないだろう」


 その問いに、クラリスははた・・と思い出した。

 そう言えばそうだった、と。


 クラリスの婚約破棄宣言から約三週間。レオンとメリッサの逢い引き現場に居合わせてから、二週間。

 それだけの期間が経ったというのに、書類はまだ送り返されてきていない。


 けれど、クラリスはすっかりそのことを忘れていた。

 本に夢中になっていたからというのもあるが、あれから、学園内でレオンの姿をめっきり見かけなくなったからだ。

 クラスメイトのセリアの情報によれば、学園には来ているらしいが……。


(レオン様はともかく、メリッサ様はあれからずっと学園をお休みされているのよね。お二人の名誉のために、逢い引きのことはセリア様にも黙っていていただくようお願いしたし、校内新聞にも載らなかったけれど……。やっぱり、わたしに気を遣われているのかしら)


 そんなことを考えていると、何を思ったか、フレデリックは神妙な顔をする。


「俺が代わりにサインを貰ってきてやろうか? もう三週間だ。流石に遅すぎるだろう。父上も何を考えているんだか」


 フレデリックは裁判所勤めの書記官だ。

 法律に詳しい彼ならば、確実にサインを貰ってくるだろう。


 けれど、クラリスは首を振る。


「お忙しいお兄様の手を煩わせるわけには参りませんわ。いざとなったら学園でいつでも会えますし、わたくしで何とかいたします」

「そうか? まぁ、お前がいいならいいんだが。何かあればいつでも頼れよ? 俺はお前の兄なんだからな」

「ありがとうございます。そのお言葉だけで十分ですわ、お兄様」


 クラリスがにこりと微笑むと、フレデリックは一応納得したのだろう。小さく息を吐いて、話題を変える。


「ところで、もうすぐ春の祭典だな。誰と行くかはもう決めたのか?」


 春の祭典とはその名の通り、年に一度、春の終わりに城下街で開かれるお祭りのことだ。

 貴族も庶民も街へ繰り出し、音楽や露店を楽しむ華やかなイベントである。


 クラリスは昨年、レオンと約束をしていたが、当日になって「メリッサの具合が悪いから」という理由でドタキャンされた。

 今ではもう、レオンのことは何とも思っていないとはいえ、そのときのことを思い出すと今でも胸が痛む。


「いいえ、どなたも誘っておりませんわ。皆さま、婚約者と行かれると思いますし、誘っても気を遣わせてしまうだけですから」


 クラリスは紅茶を一口飲み、瞼を伏せる。

 すると、フレデリックは少し考えて、こう言った。


「なら、今年は俺と行かないか?」

「……え? でも、お兄様はお仕事がありますでしょう? それに、お義姉アイーダさまやお子様たちは……」

「心配しなくていい。これはもともと、そのアイーダの提案だ。それに祭りは三日間ある。一日くらい仕事を休んだって構わないさ。というか、祭典なのに休みじゃないってどういうことだよ。おかしいと思わないか? 俺だって祭りを楽しみたいんだよ」


 冗談っぽく肩をすくめ、クラリスが気を遣わないようにと仕事の愚痴を言い始めた兄に、クラリスは頬を緩める。

 レオンのことは本当にどうでもいいが、兄や義姉の優しさに、自然と胸が熱くなった。


「はい、お兄様。では、ぜひご一緒させてください」


 クラリスはそう言って、心から微笑んだ。

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