だって、恋心ですもの。愛情を失えば、花は枯れるに決まっているでしょう
「あたし、見たんです! シンシアさまが、森の中で何かを埋めているところを!」
王立魔法学園のカフェテリアで、ピンクブロンドの髪が印象的な愛らしい女子学生が怯えたように叫んだ。食事をしていた学生たちが一斉にその手を止め、少女のほうに向き直る。
突然名指しでよくわからないことを叫ばれた公爵令嬢シンシアは、ちょうどカフェテリアに足を踏み入れたところだった。女子学生の隣に立つ自身の婚約者の姿を認めるとわずかに眉をよせる。ピンクブロンドの女子学生は周囲の視線を集めたことを確認するかのようにカフェテリアをぐるりと見まわしてから、再び口を開いた。
「『本当に馬鹿なのだから。何を考えてこんなところをうろうろしているのかしら。そんなに死にたいのなら、わたくしのいないところで死んでもらえる?』、シンシアさまはそうおっしゃって、何かをスコップで埋めていらっしゃったんです! あたし、それを見てもう本当にびっくりして」
「まったく怪しいな。一体何を埋めたものやら」
「あたし、何を埋めたか確認しようと生徒会のみんなで昼間にその辺りを掘り返そうとしたんです。やましいことがなければ、黙って従うはずでしょう? それなのにシンシアさまったら、『余計なことはなさらないでくださいまし。迷惑ですわ』とあたしたちを追い出したんですよ」
「これは由々しき事態だ。誰か、他にシンシアの怪しい行動を見た者はいないか?」
身振り手振りで周囲に訴えかけるピンクブロンドの女子学生。彼女の言葉に乗った王太子の問いかけに、勢いよく手を挙げた者がいた。学生寮内の清掃を担当している使用人だ。今日は偶然カフェテリアの清掃を手伝っていたらしい。
「私も見ました。シンシアさまがお部屋のベッドに、ご友人を寝かせていらっしゃったのです」
その発言に、周囲がざわついた。王太子の顔が一瞬でどす黒くなる。婚約者の不貞を疑っているようだ。
「具合が悪いのであれば救護室にお連れするべきだとお話したのですが、シンシアさまが『動かすことは難しい。具合が悪すぎて、立ち上がれない』とおっしゃって。失礼ながら、私も異性の侵入を疑いまして部屋に踏み込んだのです。そのままお相手の腕をつかんだのですが。……確かに移動は難しそうでした。だって寝台で横たわっていた方は、ひんやりとしていて生き物らしい体温がなかったのですから」
彼女の発言に、王太子の顔色は今度はさっと青ざめた。不貞の可能性から、殺人の可能性が生じたからだろう。もしや先ほどシンシアが穴に掘って何かを埋めていたというのは、この寝台に横たえられていた死体だったのではなかろうか? ざわめきがゆっくりと広がっていく。
「弾力はあり、固くはありませんでしたから既に死んでいたとは言えないでしょう。肌触りもつるりとしていました。一瞬、指がひっかかったような気がしたのは気のせいかもしれません。けれど、普通ではない状態のご友人が寝台にいらっしゃったことは証言できます」
使用人はそこで一礼をして、後ろに下がる。入れ替わるように今度は、男子学生が手を挙げた。
「僕も見ました! シンシアさまは普段は女子寮内にある共同浴場をご使用になっています。他の者もシンシアさまが使用される時間はずらすようにしておりまして、いつも大浴場が開放される時間帯は、シンシアさまの貸し切りのような状態です。けれど、ある時期からずっとシンシアさまはお部屋の湯舟をご使用になられています。今までは、『部屋で個別にお風呂に入るのは、使用人にとっても負担が大きいし、無駄遣いになってしまうわ』とおっしゃっていたシンシアさまが、その心情を曲げてまで毎日お部屋のお風呂を使用するのは明らかに不自然です。共同浴場を利用することははばかられる事情があるのではないでしょうか」
きらりと男子学生の眼鏡がきらめいた。周囲から一瞬音が消えた。
「つまりですね、服を脱いだ状態で他人に見られては困るものがあると考えるのが自然です。例えば、キスマークだとか」
きゃあだとか、ひゅうだとか、悲鳴とも歓声ともとれる声があふれ出す。さらにまくしたてようとした男子学生の襟首を王太子がひっつかんだ。ネクタイを締めあげられたのだろう、男子学生が空気が漏れるような何やら変な声を出す。
「待て、お前はなぜシンシアや他の女子学生の風呂事情を知っているんだ」
ぎろりと王太子が男子生徒をにらんだ。男子生徒は慌てたように首を振る。ついでにネクタイを取り返したようで、すうはあと深呼吸をしてから必死で言い訳をし出した。
「わわわわ、僕は、決してやましいことは考えておりません。ただ、僕は日々シンシアさまを始めとする女子学生の皆さまの安全のために寮内の巡回を」
「ええい、お前がまず一番身近な害悪だ。連れていけ!」
「違うんですううううう。僕はああああああ」
若干の混乱はありつつも、王太子は再びシンシアを問い詰めるべく居ずまいを正す。けれどシンシアは、焦る様子もなくいつも通りの顔で王太子を見返すばかりだ。
***
シンシアと王太子の婚約は、幼い頃に調えられたものだ。それは、王太子のたっての願いによるもので、最初は難色を示していたシンシアの両親も、幼い王太子の熱意に負けて、ふたりの婚約を許可したのである。滅多に笑わないシンシアが、王太子に向かっては花のほころぶような笑みを浮かべるようになったという部分が何よりも大きい。
けれど王太子はいつの間にやら、この婚約が自分の願いで調えられたものだったということさえ忘れてしまったらしい。「自分は政略結婚の犠牲になった」とうそぶきながら、学園の女子学生の間を渡り歩くようになった。
彼女たちも自分たちの身分はわきまえている。あくまで自分たちは、学生の間の王太子の気晴らしの相手。彼女たちはシンシアを立てつつ、けれど実家の有利になるように、王太子の相手を上手に行った。けれど、最近王太子が懇意にしているピンクブロンドの女子学生は、その辺りの機微がまったくなかったのである。
彼女は一時の遊び相手ではなく、本気で王妃になれると考えてしまった。けれど、シンシアが動じることはない。むしろ彼女は、不思議そうに小首を傾げてみせたのだ。
『どなただったかしら? 以前にご挨拶をいただいたことはありまして?』
王太子の浮気相手を前にして、「あなたなど知らない」「あなたのことなど眼中にない」と言い切って見せたのだ。だからこそ彼女は、ピンクブロンドの女子学生の名前を呼ぶことはしなかった。ピンクブロンドの女子学生――成り上がりの男爵家のご令嬢――の情報はしっかり頭に叩き込んでいながら、すべてを呑み込んで見せたのだ。将来の王妃になるには、やはり感情を表に出す必要はないのだと柔らかな微笑みを浮かべることもなくして。
けれどそのシンシアの行動を自分に愛情のない証だと受け取った王太子は、ピンクブロンドの女子学生と自分の間には、真実の愛があるのだとのたまった。そして、シンシアに対して、愛情を持たない冷血女と罵ったのである。それは、シンシアが森で何かを埋めたのを目撃される数日前の出来事であった。
***
「不貞を犯したものは、地に頭をこすりつけて謝罪をするべし。本能のままに行動する畜生には衣服など必要ない。もちろん畜生に財産など不要なのだから、すべてこちらに差し出せ。誠意を見せろ」
どの口がそれを言うとは言わずに、シンシアはやれやれと肩をすくめるに留めた。
「では、ひとつずつお教えいたしましょう。まず夜明け前に何かを埋めていたという噂ですが、埋めていたのは蛇ですわ」
「貴様、とうとう呪術にまで手を出したのか!」
「馬鹿馬鹿しい。あなたがたごときのために、禁術に手を染めるはずがないでしょう。啓蟄前に目を覚まし、うっかりにょろにょろと這い出たあげく、寒さで動けなくなっていたお馬鹿な蛇を土の下に戻していただけです」
王太子が激昂すればするほど、シンシアの瞳は冷たく温度を失くしていく。馬鹿馬鹿しいと彼女が思っているだろうことは、誰の目にも明らかだった。
「はあ? 本当にその蛇のことを思うなら巣穴に戻してやればよいではないか。そこいらの森に埋めては、息ができなくなって死んでしまうぞ」
「聡明な殿下は道端で死にかけている蛇が一体どこに住んでいるのかまで細かく理解できるのかもしれませんが、わたくしには難しゅうございます。残念ながら、あの森に住んでいる毒のない蛇で、土の中で越冬する、息ができるように枯葉を多く含んだ柔らかい土をかけるとよいということまでしかわかりませんでしたわ。申し訳ありませんが、あのまま放置して凍死したり、猛禽類の餌になったりするよりはマシでしょうとも」
才女たるシンシアにわからない事柄を王太子がわかるはずがない。それをわかっていながら、シンシアはことさら丁寧に説明してみせた。それは丁寧を通り越してもはや慇懃無礼でさえある。
「では、風呂場で人を殺していたというのは」
「今度は森で行き倒れたお方を見つけたので、蘇生のために部屋にお連れしました」
「救護室に連れて行けばよいだろう!」
「一刻を争う事態でしたので。寮監や先生方に許可をとっていて、万が一のことがあれば国が終わります」
シンシアの発した「国が終わる」という言葉に、王太子が鼻を鳴らした。そんなこと、あるはずがない。この国は大きい。それこそ大陸の他の国の王族が森で行き倒れていて、それを見殺しにしたところで国の屋台骨は揺るがないほどしっかりしている。この国がもしも仮に窮地に追い込まれるのだとしたら、それは神々を敵に回した時くらいなものだ。
「風呂の件も、その行き倒れのために用意したのだと?」
「ええ。行き倒れてすぐにお風呂に入れてしまうと、急激な温度差で危険ですので。ある程度身体が動けるようになったところで、ぬるま湯から入ってもらうことにいたしました」
「共同浴場を使わなかった理由は?」
「うら若き乙女の水場にお連れするのは、お相手にとっても、乙女にとっても良いこととは思えませんでしたので」
王太子が髪の毛をかきむしった。
「お前の答えが、全部証明不可能なものだ。本当は間男を部屋に引き込んでいたのかもしれないし、その相手をうっかり殺してしまったのかもしれない。そして森でその誰かを埋めたのかもしれない。お前が蛇を埋めた、誰かを助けたというのであれば、今すぐそれを証明してみせろ」
「承知いたしました」
そして、シンシアはうっすらと微笑んで宙に手を伸ばした。
「申し訳ありません。やはり、こういう結果になってしまったようです。お手伝いしていただいても構いませんか?」
そのとき、カフェテリアに光が満ちた。冬とは思えない温もりが、カフェテリア内にゆっくりと広がっていく。
「暖かい? いや、この格好では暑いくらいの温度と湿度だ。これは一体?」
「ここに降りてくるにあたって、夏の神の力を借りたのだ。またうっかり倒れては、シンシアに叱られるからな」
シンシアを守るように彼女の隣に立ったのは、ひとりの美丈夫だった。「間男か!」と王太子が叫ばなかったのは、彼が利口だったからではない。目の前の美丈夫の発する気配があまりにも神々しかったからだろう。
***
「あ、あなたは……」
「名乗らねばわからぬか。我は蛇の神よ。この娘が我の眷属を助けたと聞いてな、下界に降りてみたのだ。まさか、今年の冬の神がこれほどまでに力を解放しているとは知らずに、うっかり行き倒れてしまったがな」
「神のお力をすべて解放してしまえば、あの森に影響が出てしまいますもの。仕方がありませんでしたわ」
「動けなくなった我を介抱してくれたせいで、まさか不貞どころか殺人犯に仕立て上げられそうになるとは」
蛇神が長い髪をかきあげる。艶めく髪の下、整った顔には光の加減でうっすらと鱗が見える。なるほど、蛇と同じような性質を持つのであれば体温は低く、肌は弾力に満ち、一方向からはつるつるで、反対方向からは独特の感触になるのだろうと周囲は納得した。
正義感が強いだけで、シンシアを嵌めるつもりなどなかった使用人は、自分が無遠慮に触った相手が神だということを知り、床に頭をこすりつけている。蛇神の「よい、許す」という言葉をもらうと、彼女はあっさりと気絶してしまったようだった。
「そもそも、どうして夜明け前にスコップ持って森の中をうろうろしていたんだ! 淑女とは到底言い難い行いだろう! おかしいじゃないか!」
目の前の事実を理解したくないのか、王太子が叫んだ。びくりとピンクブロンドの女子学生が身体をかたくする。おどおどとした目で隠れる場所を探しているようだったが、どこにも行き場がないことはわかっていたらしく、居心地が悪そうに王太子の隣で縮こまった。けれどシンシアは、あくまでひょうひょうとしている。
「恋心を埋めようと思って、森にまいりましたの」
「恋心を埋めるだと? わたしへの当てつけか?」
「まあ、ご存じありませんの? 一年で最も寒さが厳しい冬の朝、朝日が昇る前に恋心を地面に植えるのです。そうすれば自身の想いを花として咲かせることができるというのは、有名な話ではありませんか」
意外過ぎるシンシアの説明に、カフェテリアは静寂に包まれた。それは確かに有名な話だ。どちらかといえば、「お伽噺」の部類のものだが。夜、眠りにつく前の幼子が語ってもらう寝物語。その中のひとつに、冬の恋心の花の話があるのだ。
かつて自身の心を疑われた王妃は、身の潔白を証明するために恋心の花を咲かせたのだとか。それをもってして凍りついた国王の心を溶かし、王国を繁栄に導いたのだとか。
王国に住む者なら誰でも知っている昔話。そして夢見がちな少女ならば一度はその花を手に入れたいと願う代物だ。何事も合理的に動くシンシアが、そのようなお伽噺に基づく行動をとったというのが、王太子にはそもそも信じられなかった。
「それは伝説、ただの神話だろう?」
「いいえ、きちんと咲きますわ。だって眷属とご本人を助けたお礼に、恋心の花を人間にも見えるようにしていただいたのですもの。ほら、届いたようですわ」
シンシアがカフェテリアの入口に目を向ければ、ぽたぽたと汗を垂らした雪だるまが一生懸命きらきらと光る虹色の花を運んできていた。予定以上に力をふるってしまった冬の神が、お詫び代わりに配送を引き受けてくれたらしい。
「まあ。カフェテリアの中は暖かいから、彼らは溶けてしまうのですね。可哀想なことをしてしまいましたわ」
「安心するがいい。身体が溶けても、また再び生まれ変わる。それよりも、そなたの役に立てるということで、夏の神の力が満ちた場所だというのに、大量の立候補者が出たと冬の神が大笑いしておったよ」
「これが、恋心の花?」
「ええ」
「シンシア、お前は本当にわたしのことを愛していてくれたのか?」
「確かにお慕いしておりましたわ。お伽噺に本気ですがろうと思うくらいには」
おずおずと王太子が、雪だるまが抱える恋心の花に手を伸ばす。雪だるまはいやいやをするように小さく震えていたが、王太子が花に触れると同時に水たまりへと姿を変えた。そして宝石と見まごうほどに美しい不思議な花は、あっという間に朽ち果てる。てのひらから零れ落ちるのは、彩りも水分さえもなくした枯れ草だけ。
「……、どうして?」
「だって、恋心ですもの。愛情を失えば、花は枯れるに決まっているでしょう」
当たり前のことだと微笑むシンシアの姿に、王太子はひとり床に膝をついた。
***
シンシアは見目麗しい蛇神の隣で、小さくため息をひとつ吐いた。
「あなたがた、ご自身が何とおっしゃっていたのか覚えていらっしゃるかしら。浮気をしたものは、地に頭をこすりつけて謝罪をするべし。本能のままに行動する畜生には衣服など必要ない。もちろん畜生に財産など不要なのだから、すべてこちらに差し出せ。誠意を見せろ。そうおっしゃっていたのではなかったかしら」
「違う、違う! わたしはただ、ちゃんと愛されたかったのだ! 愛されたい、愛してほしいと思うことは罪なのか! 怒りのあまり言葉が過ぎただけだ!」
地面に這いつくばり、枯れ葉のような恋心の花の残骸を王太子が必死にかき集めている。指先に触れれば、かつてシンシアが抱えていた優しい想いと心が締め付けられるような哀しみが伝わってくるよう。けれどその名残を味わうことさえ許さないとばかりに、枯れた花の欠片はふっと宙に溶けて消えてしまった。
「殿下……」
ぎゅっと制服のスカートを握りしめるピンクブロンドの女子学生は、悔しそうに唇を噛んでいた。振り向かせたはずの相手が本当に愛していたのは、婚約者のほうだったのだと認めたくなくて、彼女は絶対に涙を流すまいとこらえているのだ。そんなふたりの姿さえ、どうでもよさそうにシンシアは言葉を続ける。
「公爵家の後ろ盾を失くした殿下と、その原因となったご令嬢にあなたがたがおっしゃったような莫大な慰謝料が払えないことは十分承知しております。けれどだからと言って、『払わなくても構わない』とはなりません。だって、自分の言葉にはちゃんと責任を持たなくてはいけないのですから」
ごくりと王太子たちが喉を鳴らした。かたかたとふたりして、小さく震えている。
「代わりに条件を出しましょう。あなたがたが、互いに恋心の花を毎年咲かせ続けることができたならば、それぞれの慰謝料を免除いたしましょう。殿下もそちらのご令嬢も、いつもお寝坊さんでいらっしゃるでしょう? 冬の一番寒い朝の夜明け前に恋心を埋めてくださいね。埋めることを忘れてしまっては、そもそも花は咲かないのですから」
「もしも咲かなかったら?」
「咲かなかったり、枯れたりしたのなら、それはおふたりの愛情が消えてしまったということ。真実の愛ではなかったという証明になりますわね。ですから恋心の花が枯れてしまったならば、その時点で慰謝料をまとめて払っていただきますわ。何が何でも、おふたりのすべてを担保にしてでもね。お覚悟はよろしくて?」
「我の立ち合いの元で、誓約を交わしてもらおう。逃げようなどと馬鹿な真似は考えないようにな」
びしりと扇をふたりに突きつけたシンシアのことを、よくできましたと言わんばかりに蛇神は美しい顔に艶やかな微笑みを浮かべて優しく抱きしめた。
***
美しい温室で、シンシアはうたた寝をする蛇神の髪をすいていた。今日は早起きをして苦手な寒い場所に降り立っているので、少々お疲れのようだ。
「無理なさらずとも構いませんのに」
シンシアの声が聞こえているはずはないのに、蛇神が顔を歪めた。王太子との婚約が破棄された後、渋るシンシアに愛を乞うた蛇神は、自身の恋心を示すために毎年花を咲かせることを誓ったのだ。
『いと尊き御方。わたくしにはもはや、花を咲かせることなどできないでしょう。そんなわたくしが、あなたさまの元に嫁ぐことなどできません』
『そんなことはない。荒れ果てた場所も、雨を降らし、土を耕し、栄養を与えれば、やがて美しい花が咲くことだろう。だが、それでもその土地が干からびたままだとしても』
『だったとしても?』
『我はそなたに花を捧げ続けよう。そなたが花を咲かせることができるようになるまで、そばにいるだけでかまわない。そなたには、心穏やかに暮らしてほしい』
やがてかたく強張っていたシンシアの表情は、柔らかな微笑みを浮かべられるようにまで回復した。まるで花の蕾がほころんだかのように美しい微笑みを前に、蛇神はそれだけで十分幸せだと口にしていた。
「まあ、綺麗。今年も恋心の花が咲きましたわ」
この温室に設えられた泉からは、下界の様子を眺めることができる。いろとりどりの恋心の花に交じって、ふたつ、なんとも奇妙な花が見受けられたが、その形と色合いは見なかったことにした。
すっかり心が冷めきっていたとしても、償いのために相手に恋をし続けなければならない。誰か別の相手を探すこともできず、心の中で憎んでも嫌ってもいけない。そんな罰を科した非道な自分を、心から大切にしてくれる相手がいる幸福をシンシアはしみじみと噛みしめる。
冬の寒さを寄せ付けない温室の中で、いまだにうつらうつらしている美丈夫をシンシアはそっと優しく撫でる。もう少しからだがしっかり温まるまで眠れば、またあの熱い眼差しを見ることができる。それが楽しみで仕方がない。
「朝も寒いのも苦手なのに、毎年ありがとうございます」
シンシアの見つめる先には、かつてシンシアが咲かせた恋心の花よりもずっと大きく、ずっと艶やかな花がふたつ咲いている。ひとつは蛇神が咲かせた恋心の花。そしてもうひとつは。
「目が覚めたら、あなたは驚いてくれるかしら?」
すうすうと寝息を立てる蛇神の目の前に咲く見事な花を見つめながら、彼女は小さくあくびをした。
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