聖書に書いてある教え(ヴィヨンの青春)
人の進むべき心の形
捨てられた仔猫を見つけた。
去年の梅雨の頃であった。私は
その猫にサバとツナの缶詰めを与えた。
私は神アマテラスが居なければ
動物たちの為に歌を唱ってあげる只の
歌い手で居れた。嫌いなのだ。己の
アイデンティティの為に歌を歌わないのが。
真実を伝えるならこの世には須佐之男、
月讀、天照の3人しか居ない。
須佐之男はそれを危惧し、少なき2匹の猫を加護
した。その猫は悪言多き八百萬の神々にとって
「余所者」意地悪をするのに十分な位手頃
だったらしい。雲の神運慶と海の神快慶にとっては
九十九神である耶蘇教の1信者ヴィヨンは他の
信仰者のモーセから疎まれていた。何故九十九神は
ヴィヨンの味方ばかりをするのか…。
彼の家には裏手に静かな丘タターズ丘陵がある。
そこでモーセはひたすら禅を重ね、
とある境地に辿り着いた。それは、水とは
割れども失くならない物だと言うことであった。
こうしてモーセは猫を水にやり、泳ぎを教えてやった。モーセの子は猫の子、こうして地球のモヒカン
は元に戻った。猫は魚を捕まえ、モーセに与えた。
イエスはその猫の子の一匹であった。ある日、
男がイエスに恐れをなしたところ、恐怖と
入り交じり身に付けていた猫目石のブレスレット
を投げつけた。イエスは、2つの目のうちの片目に ブレスレットがぶつかり猫の目のようになった。
イエスは猫の様になっても所詮「雑種」と言う
私に声をかけてくれる。私は、イエスとその兄弟
(キリスト教は皆兄弟)のための平和を願った。
イエスの旅に付いていきたいものだ。