内気な少女と勝気に意気投合する回①
こんこん、こんこん。
控えめなノックの音で、僕は目を覚ます。
目を開けると、そこは相変わらず殺風景な僕の独房だった。
「……なんだ、夢か」
そんなことを言ってみても、この状況が何か変わるわけではない。僕はどのくらいの時間ねこけていたのだろう。脳の奥の方に鉛が詰まってるみたいな気分だった。
何もしたくない気分なのに、ノックは怠惰に寝転んだ僕を責めるように鳴り続ける。
「ああ、はいはい、出るよ出ますよ……」
これで新聞の勧誘だったら蹴っ飛ばしてやる、なんて思っていたのは、やはりまだ寝ぼけていた証だろう。ここは異世界で、僕のことを必要としている人なんてこの世界には、それどころか元の世界にだって誰もいないと突き付けられたのをすっかり忘れていたなんて、我ながらなかなかハッピーな脳細胞だ。
あくびをしながらドアを開けて、寝ぐせに包まれた幸せ頭が対峙したのは、背の低い女の子だった。
「あ……あれ? えっと、君は……」
「せ、先生! きょ、きょ、うの、じ、じゅ、じぎ、ぅ……」
その言葉を聞いて、僕は思い出す。初めての授業の時、自己紹介さえつっかえつっかえだった内気そうな水色の髪の子――ルルーラは、顔を真っ赤にして何度も何度も詰まりながら、それでも何かを伝えようと懸命に言葉を繰り返している。
「……授業をしろって言いたいの?」
わずかにくみ取れた意思を確かめてみると、小柄な少女はこくりと頷いた。健気で心を打たれる仕草だが、今の僕には彼女の願いを無下にすることしかできない。
「ごめん、それはできないんだ。エルガから何も聞いてないの?」
「お、お姉ちゃ……っちが、え、エルガ様、わ、私に、何も、言ってくれない……」
「え、お姉ちゃん?」
ルルーラから飛び出した意外な言葉に、僕は思わず彼女をまじまじと見てしまう。しかしルルーラは酷い失言をしたというようにうつむいてしまった。ただでさえ小柄な体を縮こめるように背を丸めるせいで、余計に小さく見える。
「ご、ごめんなさっ……! これ、秘密って、わたし、や、約束、してたのに……!」
下を向いたおさげの先が、ルルーラの声に合わせるようにふるふると震えている。まさか、泣かせてしまったのだろうか。それはまずい。僕は別に、ルルーラを問い詰めたいわけではないのだ。ルルーラがエルガの妹だろうが、姉妹関係を隠さないといけない事情があろうが、僕にとってはたいして重要なことじゃない。
けれど、黙っているだけじゃそんな気持ちが伝わるわけがない。目の前で小さな肩を震わせている少女を泣き止ませるために、何か、何かを言わなければ――。
「ぼ、僕にもさあ! いるんだよね、お兄ちゃん。しかも、とびきり優秀な奴が!」
どうにか絞り出した言葉は思いのほかおどけた響きになっていて、ルルーラはぽかんとした表情で僕を見つめた。しかし、一度話し出した以上は中途半端なところで止めるわけにはいかない。とにかく話を続けてみよう。
「勉強でも運動でも、すぐに兄貴と比べられちゃって。僕だって頑張ってるのに、いくらやっても勝てっこないんだよね。だいたい、年上で知識もあって、さらに体格もでかい奴に勝てるわけないよね? いや、向こうは僕を競争相手だなんて思ってないんだろうけど、それでも近くにいると何かと張り合っちゃって……」
あれ、この話の着地点はどこだっけ。このままでは、僕が小学生の時に兄の部屋からガンプラを持ち出して遊んでいたら壊してしまい、喧嘩という名の制裁によって初めての骨折を経験したエピソードを披露することになってしまう。年の近い男兄弟の争いは、馬鹿みたいにバイオレンスなのだ。虫も殺せないどころか虫の羽音にも負けそうな声量のルルーラには刺激が強いんじゃないだろうか。
ところが、ルルーラは意外にもぱっと顔を上げ、大きく頷いて僕に同意した。
「そ、そうなんです……! だ、だって、お姉ちゃん、すごく才能あるし……そ、そもそも、同じ条件の勝負もできな、できないし……」
「分かる分かる! 体格も知能のレベルも違うんだから、比べても無駄だって自分でもわかってるんだけどね……でも、身近にいるもんだからどうしても意識しちゃうんだよね」
良かった、少なくとも今は泣いてはいないみたいだ。僕は密かに安堵しつつ、内気な少女と年上のきょうだいに対するコンプレックスを共有する。
「競争くらいならまだいいんだけど、喧嘩になるともう最悪なんだよね、絶対に勝てないから……えっと、ルルーラはエルガと喧嘩したことあるの?」
「……ありません。お姉ちゃん、私とは口喧嘩もしたことないです」
それはそれは、仲が良くて結構なことじゃないか。だが、ルルーラの声はむしろ寂しそうに聞こえた。
「お姉ちゃんは、い、い、いつも私に優しいです……私を立派な魔術師にするため、小さいころから日本語も教えてもらいました……だから私、ムコリタやメラニーよりも早くから勉強してるんです」
エルガから優しくしてもらったと言う割に、ルルーラの表情は嬉しそうには見えない。
「お、お姉ちゃんって呼ぶなって言うのも、私が無暗にうらやましがられないようにって、私のためなのに……なのに私、こんな上手くしゃべれなくて……!」
「ルルーラ……」
「わ、私、何をやっても上手くできないし、いっぱい教えてもらった日本語だって、こ、こんなしゃべ、しゃべり方で……く、く、悔しいし、嫌、なんです」
ルルーラの話を聞くうちに、僕はあることに気が付いていた。彼女の言語能力は、卑下するほどには低くはない。僕が話している内容はしっかり聞き取れているし、ルルーラ自身が話すときも、言葉に迷ったり考え込んだりしている様子はない。エルガに幼い時から教えてもらっていたということが事実なら、語彙や文法の知識は十分に備わっているのだろう。
だから、問題は知識ではなく喋り方自体にあるのだ。それがなぜかは分からないが、しゃべり出しや言葉の途中でどうしてもつまずいてしまう。伝えたいことが頭の中にあるのにうまく表現できないというのは、もどかしいし辛いだろう。
さらに厄介なことに、ルルーラには他の人よりも長い時間をかけて学んできたという引け目があるようだ。それが、彼女にとってはある種のプライドや意地になっているのかもしれない。エルガの他にもジェルミやフロイデアのように日本語が達者な人はいたはずだが、なかなか悩みを打ち明けられなかったんじゃないだろうか。
だとしたら、部外者である僕がこうして彼女の話を聞くことで、何かが変わるのかもしれない。
「だ、から……私、ちょっとでも、しゃべるの、上手くなりたいです……」
「うん、すごい向上心だね。その意気なら、エルガにだって追い付けそうだ」
僕は冗談のつもりで言ったのだが、ルルーラはこくりとうなずいた。気弱そうな見た目とは裏腹に、秘めたガッツは相当なものらしい。
「私、頑張りますから……授業、してください。シドウ先生に、教えてほしいです」
「……」
こんなにひたむきに頭を下げられて、断ることができる人間がいるだろうか。それだけではなく、僕はルルーラのどこまでも真っすぐな姿勢に心を打たれていた。
「……分かった、授業はどうにかして続けよう。ルルーラ、君の悩みの解決に僕も全勅を尽くすよ。でも、それだけじゃないぞ!」
「きゃっ!?」
僕はルルーラの肩に両手を置いて、目をしっかりと合わせる。薄く華奢な感触が、手のひらの下でびくりと跳ねた。
「エルガにいつも虐げられて……るわけじゃないかもしれないけど、説明もなしに勝手に話を進められて困るその気持ち、ものすごく伝わったよ! まあエルガにだって思うところはあるのかもしれないけど、あまりにも僕らの自由意思を軽んじすぎてると思わないかい? この辺りで一つ、奴にお返しをしてやろうじゃないか!」
ルルーラはぱくぱくと口を開け閉めするだけで、返事もしてくれない。ひょっとすると、エルガに戦いを挑むという大胆な発想をぶち上げた僕に感激しているのかもしれない。称賛の視線に気をよくした僕は、さらに勢いよく話を進める。
「日本語を使いこなせる僕と、エルガを誰よりも知ってる君が協力すれば、何かエルガを驚かせるようなことができるんじゃないかと思うんだ。いや、そうに決まってる! きっと僕たちは、この崇高な目的のために出会ったんだ!」
「お、驚かせる……? お姉ちゃんを……」
「そうだよ! いつもむすっと黙り込んでるあの顔がどうにかしてエルガにぎゃふんと言わせてやろう! あ、『ぎゃふん』って分かる?」
「……あ、圧倒されてぐうの音も出ないさま……ちなみに『ぎゃ』は感嘆詞……」
そうだったのか。そんなことまで知ってるなんて、この世界の日本語教育は素晴らしい。もちろん、頬を真っ赤に染めながらもしっかりと解説を続けるルルーラも素晴らしい。やはり共通の敵がいるということが眠っていた僕らの闘争心を呼び覚ましたのだろう。これまでにない目標を得て、僕の目だって熱く輝いているはずだ。
「そうと決まれば行動あるのみだ! さあ、教室に向かって作戦会議を始めよう!」
「わ、分かりましたけど……せ、先生……その、て、手が……」
「手? だってこうした方が早いだろ? それにほら、僕ばっかり先に行ったら教室につくまでに迷っちゃうかもしれないし。だから、ルルーラと手をつないで走るのが一番効率的だと思うんだ」
「それはその、あ、うう……」
ルルーラは僕の完璧な理論に納得したのか、もじもじとしながら小さく頷いた。相変わらず顔を真っ赤にしたままだが、エルガへの対抗心はそんなに強いものだったのだろうか。いやはや、人は見た目に寄らないものだ。まあ、僕も顔色で判断してるんだけどね。