トイレに行こうとしたら変な語尾のお嬢さんと遭遇した回①
それからおそらく十分後、僕は部屋から出るべくドアに手をかけていた。
いきなりエルガとの約束を破ろうというわけじゃない。けれど、人には限界というものがあるのだ。退屈を紛らわす頭脳にも、孤独に耐える精神にも、そしてもちろん肉体にも。
要は、トイレに行きたくなっちゃったのだ。
もちろん僕だって考えた。エルガのいうことを忠実に守るとしたら、用は部屋の中で済ませるべきだろう。ただ、内また気味になりながら部屋を歩き回ったところで、それらしき設備はあの部屋にはなかった。そもそも、探せるほどの余地がないし。
とはいえ、どんなに常識を外して考えたところで、部屋の中で欲望をリリースしてしまうわけにはいかないだろう。いくら魔法が使えるらしい異世界だからと言って、そこの価値観が違うことはないだろう。いや待てよ、もしかしたら魔術とやらで排泄事情も何とかしているのかもしれない。
真実がどうあれ、僕一人では解決できない問題だ。ここは僕の人としての尊厳のためにも、誰かの助けを借りなければならない。
というわけで、僕は恐る恐る扉に手をかける。心底ありがたいことに、外からの鍵はかかっていなかった。とりあえず、部屋の中であれをあれしてしまう可能性はなくなった。
そのまま、細く開けた隙間から外を覗いてみる。今が何時くらいかは分からないが、廊下の先はなんとなく明るい気がする。もしかしたら、灯りみたいなものがあるんだろうか。
もう少しよく見てみようとさらに開いた瞬間、向こう側で何かにぶつかったような感触があった。
「きゃっ!」
「っ!? す、すいません、誰かいたんですか!? ……って、俺が話しかけても駄目なのか? ど、どうしよう、手話か、それともテレパシーなら通じるか!?」
「だ、大丈夫、ですよ?」
慌てて人差し指をこめかみに当てて念を送ろうとしていると、戸惑いながらも柔らかな調子の声が聞こえてきた。扉の向こうで尻餅をついていたのは、僕と同じ年頃くらいの女の子だった。着ているのは何の装飾もない黒いドレスで、肘のところまで長い手袋をしている特徴といえば特徴だろうか。
助け起こすのも忘れて、僕は呆然とその人を見つめてしまう。転んだ拍子だろうか、長い金の髪が一筋乱れて紫色の瞳にかかっているのがとても綺麗だった。けれど、僕の心を惹きつけたのはその美しい顔立ちではなくて。
「に、日本語だ……」
「ええ、私も勉強していますの」
とにっこりと笑い、細身の女性は僕に向かって黒い手袋に覆われた手を差し出す。その意図を一拍遅れて理解した僕は、慌てて手を取って彼女を助け起こした。
「す、すみません、ぶつかっちゃって……って、今それどころじゃなくて! 日本語が通じるなら、どうしても聞きたいんですけど!」
「はい、なんでしょうな?」
「な?」
聞き間違いだろうか。なんだか変な語尾が聞こえた気がした。だが、今はそんなことを追及している場合ではない。ついでに言えば、相手が美しい女性だからといって、トイレの場所を聞くのを恥じらっている余裕もないのだ。
「ええっと、あのう、お、お手洗いの場所を、教えていただきたいのですが……」
「お手洗い……ああ、トイレのことですね! 気が利かなくて申し訳ございませんわ。さあ、こちらへどうぞ!」
いや、トイレで通じるのかよ。
僕のささやかな心遣いを穏やかに踏みにじりつつ、女性は僕をすぐ隣の小部屋に案内してくれた。
その内部についての詳しい説明は省略させていただこう。一つだけ言えるのは、人体の構造が同じである以上、この世界でも必要とされる仕組みは基本的に共通したものだということだ。残念ながら、生活の隅々まで魔法で何とかするようなファンタジックな世界観では無いようだ。
無事に欲望を所定の場所にリリースして、安堵しながら手を洗って小部屋の外に出ると、黒衣の女性は入った時と同じ位置で僕を待ち構えていた。なぜか、とても嬉しそうに微笑みながら。
なんだろう、僕のファンなのだろうか。それとも排泄直後の人間を待ち伏せする趣味をお持ちなのだろうか。
「ご用はお済みですかね? 他にお困りのことはございませんかな?」
「ご、ございませんが……えっと、あなたはいったい……」
「あら、申し遅れましたね。わたくしの名前は、フロイデアといいますよ。エルガ様からあなたのお世話をするようにと言われてますわ」
そういうと、フロイデアと名乗った女性は両手を体の前で重ね、綺麗なお辞儀をした。その丁寧な所作には違和感がないのだが、なんだろうか、このなんとも言えないもやもやは。
突っ込んでいいのか、それとも流した方が良いのだろうか。
とりあえず、相手に倣って僕も自分の名前を名乗る。
「ど、どうも……僕は志藤です」
「シドウ様、ですね! 素敵なお名前ですこと! では、立ち話もなんですから中に入りましょうや」
「あ……はい」
フロイデアににこやかに促され、僕は小部屋に戻る。まあ入ったところで彼女に勧める椅子はないんだけど。僕がおろおろしているうちに、フロイデアはさっさと埃っぽいベッドに腰を下ろした。
「まあ、ずいぶん狭い部屋を選ばれましたのね! こんなところでは不便ではありませんかい?」
「いや、彼女に……エルガに連れてこられただけなので、僕が選んだわけでは……」
「あら、そうでしたの? このお城、部屋はたくさん余ってるんですよ? わたくしに任せてくださいな、もっと良いお部屋を選んできましょうぞ!」
「……ふ、フロイデアさん」
「はい?」
なぜか嬉しそうに話を進めるフロイデアを制し、僕はどうしても気になっていたことを切り出す。
「フロイデアさん、ひとつ聞いてもいいでしょうか」
「ええ、もちろんですな」
「その……『ですな』とか『きましょうぞ』とか、変な語尾は誰に教わったんですか?」
まさかエルガの教育なのだろうか。彼女の言葉はぶっきらぼうだが、文法的に間違ったところは全くなかったのに。
と、軽い気持ちで聞いたのだが、フロイデアはみるみる顔を曇らせ、長いまつげに縁どられた大きな瞳をそっと伏せる。
「すみません、一生懸命勉強したつもりだったのですけども……わたくしの日本語、変だったでしょうか……」
「い、いやいや、僕はそんなつもりじゃ! べ、別に間違ってるとかおかしいとかじゃなくて」
「でも、生まれついての日本語使いの方から見たら、きっとおかしいのでしょうよ……いいえ、不勉強なわたくしがいけないのですわ。思う存分笑ってくださいな」
「わ、笑うなんてとんでもないです! なんていうか、そ、そう、個性的でいいと思います!」
見えないところに汗をいっぱいにかきながら、僕は必死に言葉を探す。せっかく僕のために来てくれたのに、暗い顔をさせてどうするんだ。だいいち、人の言葉遣いを笑いものにするなんて最低だ。
「個性的?」
「そう、普通じゃなくて素敵だってことです!」
小さな引き出しからどうにか引っ張り出したその言葉を聞いて、フロイデアは紫の瞳を大きく見開いた。そしてその宝石みたいな光が、ゆっくりと弓形に細められる。
「……個性的。私は、個性的。ふふ、良い言葉ですね!」
「き、気に入ってもらえたなら、その、何よりです……」
笑顔を取り戻した様子を見て、僕は思わず口ごもってしまう。屈託のない笑顔を浮かべるフロイデアは、とても綺麗だった。エルガもそうだが、この世界の人々は美形ぞろいなのだろうか。
「素敵な言葉をありがとうございますわ、シドウ様。このお礼はたっぷりさせていただきますよ! さあ、何か困ってることはありませんの?」
「こ、困ってることかぁ……」
そんなきらきらした瞳で詰め寄られるとそれだけで困ってしまう、なんて歯の浮くような言葉はとても言えないけど。
そういえば、エルガは誰とも話すなって言ってなかったっけ? もしかして、向こうから話しかけられた場合も含まれたりする? ということは、僕はこのあとエルガからお説教を受けたりするんだろうか。
不穏な想像が頭をよぎったその瞬間、勇ましい低音が部屋の中に鳴った。それはもう、高らかに鳴った。下手なごまかしなど一切できないくらいの叫び声だ。叫びとクライをかけてみたところで、誰も笑っちゃくれないが。
排泄が無事に済んだら、僕の体は今度は空腹を訴えることにしたらしい。僕自身よりも生存に貪欲で、何よりだ。
「あ……」
「まあ、お腹が空いてますのね? ではわたくし、お料理を持ってきますだ!」
僕の腹の音を聞きつけたフロイデアは、どことなく訛った感じの調子で返事をした。文法とか正しさとかどうでもよくなるレベルでかわいい。
もしかして、彼女の口調こそが日本語のあるべき姿なんじゃないだろうか。無事に帰れたら、僕はフロイデア流日本語術を広める伝道師として活動を始めよう。標準語にちょっと個性的な語尾がついて日本中の人がこんな感じで喋ってくれたら、間違いなく世の中は平和になるだろう。
……そういえば、エルガも食事を用意してくると言ってなかったっけ。フロイデアはエルガから命じられてここに来たはずなのに、指示が行き違ってるんだろうか。はたまた、不幸なすれ違いなのか。
僕が突っ立ったままぼうっと考えていると、ノックもなしに扉が開いた。その向こうには、皮の手袋をはめて小さな鍋を持ったエルガが立っている。
良かった、すれ違いにはならなかったらしい。フロイデアを派遣したうえに、自分で料理を持ってきてくれるなんてエルガはとても優しい少女なんだろう。その優しさついでに、僕が会話の禁を破っていたことも多めに見てもらえないだろうか。
「フロイデア様!?」
しかし、怒られるかと思いきや、エルガは僕の背後を見て驚いたように叫んだ。僕はどうやら、彼女の視界にも入っていない。
待てよ、様ってどういうことだ? 僕は慌てて振り向くが、視線の先にはすました顔でベッドに座るフロイデアしかいない。
フロイデアはエルガの声にも動じず、手袋をはめた指を顎に当ててにっこりと笑った。
「あら、エルガ。もっとゆっくりしてても良かったのに」
「ど、どうしてあなたがここにいるのですか!?」
「だって、いつまで経っても彼をあなたが独り占めしようとするんですもの。ね、シドウ様」
と、さっきと変わらず朗らかに言うと、フロイデアは悪戯っぽく笑いながら僕の手をとる。
「ぬりかべ!」
瞬間、エルガは手に持っていた鍋をテーブルにたたきつけ、血相を変えて僕とフロイデアの間に割り込む。ぬりかべって、さっき僕も言われたよな。この世界では妖怪ブームなのだろうか。