切断された夢、盟友の帰還①
この世界でも、鳥の声は聞こえる。朝焼けがまぶたを透かして、僕は誰に起こされるでもなく自然と目を覚ましていた。
窓から見える空は、まだ夜明けに近いくらいの色をしている。身支度を整えてくれる人たちがやってくるには、もう少し時間があるはずだ。
けれど、僕はベッドから身を起こして着替えを始めた。手に取るのはフロイデアから与えられた衣服ではなく、ここに来るときに身に付けていた学生服だ。
何度も腕を通して少しくたびれてきた制服は、やっぱり異世界の装いよりもしっくりくる。というより、目を閉じていても着られるくらいに慣れたものだから、十数日ぶりに身に付けたところで新鮮味も刺激もない。
改めて見る自分の制服姿は、なんだか頼りなくて弱々しく思えた。僕、撫で肩の上にやせ型だから本当に学ランが似合わないんだよな。なんだったら、この世界の服装の方がよっぽど似合ってるのかもしれない。
それでも僕は、この格好が嫌いじゃない。僕が思い出した嫌な記憶は、確かに学校という環境の同町圧力や独自のルールによって生じたものだ。だけど、学校にはそれ以上に楽しい思い出や出来事だって、たくさんあった。これからだって、きっとあるだろう。そのすべての可能性をたった一つの傷だけで投げ出してしまうのは、今までの自分に対する裏切りなんじゃないかと思うんだ。
ゆっくりと青く染まり始める空を見つめていた時、扉がそっと開かれた。窓際に立つ僕の姿を見て、エルガは小さく頷いた。
「やはり、戻るのだな。お前ならそちらを選ぶのではないかと思っていた」
「……うん。迷わなかったわけじゃないよ。でも、決めたんだ」
「そうか。お前が決心したのなら、私からは何も言うまい。行くぞ、儀式の準備はすでにできている。後はお前を待つだけだ」
別れを惜しむ言葉がもう少しあってもいいと思ったんだけど、エルガは僕を引き留めることもなく、あっさりと次への段取りへと頭を切り替えたようだ。
「え、もう儀式を始めるの? 朝ごはんも食べさせてくれないの?」
「甘えるな、ここはお前の家じゃないんだ。……この世界の食べ物が胃に入っていれば、微弱ではあるがこちらとのつながりが生じてしまう。無事に帰るためなんだから、空腹くらい我慢しろ」
言うが早いか、エルガはさっさと部屋を出てしまうので僕は慌ててその後を追いかけるしかない。この問答無用で傍若無人な感じ、来たばかりの時とそっくりだな。おかげで僕はハカホンに別れを言う暇も与えられなかった。バイバイ、僕の相棒。次はもっといい持ち主が見つかるといいな。
それきり言葉を交わさないまま、僕らは長い長い廊下を歩き続ける。暗褐色のローブをまとった背中は、僕とのコミュニケーションを一切拒絶しているように思えた。
本当は、僕から言いたいことはある。文句だってもちろんあるけど、それ以外のことだってたくさんある。
ここに来てから、いや、全財産をカツアゲされてから、もしかしたらその前、屋上にいるのを誘拐されてきたときから。エルガはいつも僕に冷たかったけど、冷たいだけじゃなかった。言葉少なに見守ってくれていたり、不器用ながらも気遣ってくれたり、確かに彼女の思いやりを感じられた機会は何度もあった。それに対して、僕からきちんと言葉を返せたとは思えていない。
けれど、もしここで何かを言えばきっと迷いが生じてしまう。エルガもそう感じているから、頑なに僕に話しかけないままなのだろうか。この思いも胸の中にとどめ続けておくだけなら、元の世界に帰るための重石にはならないのだろうか――。
「……着いたぞ。入れ」
結局何一つ言えないまま、僕らは始まりの場所へ戻ってくる。武骨で重々しい扉の向こう側にあるのは、石造りの大きな神殿だ。そこに集まるローブ姿の人々も、以前見た光景と全く同じ。
「……ムコリタとルルーラは?」
「この場には呼んでいない。……理由は分かるだろう。あいつらにもお前にも、未練になるだけだ」
エルガは被ったフードを無造作に脱ぎ捨てると、有無を言わせない様子で僕の行く先を指さした。
「その舞台に描かれている円の中心に立て。目を閉じて、ゆっくり呼吸を……」
「シドウ様!」
冷たく硬いエルガの声を遮ったのは、華やかな微笑みの持ち主だった。ローブの人々のどよめきをよそに、フロイデアは扉を大きく開け放って神殿に立つ僕らへ歩み寄る。
「フロイデア様、どうしてここに……」
「もちろん、シドウ様とお話しするために決まってますな。エルガったらお別れの挨拶もさせないなんて、相変わらず勝手ですの」
フロイデアは可愛らしく頬を膨らませて、立ちすくむ僕の腕をとる。
「フロイデア様、お下がりを! あなたの頼みとはいえ、聞き入れられないことがある」
「あら、どうしてですか? わたくしとシドウ様が話すのが、そんなにいけないことですかな?」
厳しく詰め寄るエルガをふわりとかわし、フロイデアはいたずらっぽく笑う。追いかけっこをする子供みたいなその仕草を見て、僕もつられて笑ってしまった。
「……エルガ、僕からも頼むよ。少しだけ、フロイデアさんと話す時間をくれないかな? きっと、僕にお別れを言いに来てくれたんでしょ?」
ええ、もちろんですわ。寂しくなりますが、向こうでもお元気で。
僕が予想していたのは、そのくらいの無難な決まり文句だった。その甘い見通しは、思いもかけない形で裏切られることになる。
あの池で話したことを忘れたつもりはなかったけど、僕はこの少女が抱える底知れない寂しさを、そして本当の望みを、全然理解していなかったのだ。
「いいえ、シドウ様。わたくし、あなたとお別れする気なんてまったくございませんのよ」
「……へ?」
「わたくしたち、とってもいいお友達になれると思いますわ。だから、シドウ様にはこの世界で、ずっと一緒にいていただかなければ、ね?」
フロイデアは僕の腕に自分のそれを絡ませて、僕を見上げるようにして微笑む。その笑顔はとても可愛らしいんだけど、妙な胸騒ぎがするのはなぜだろう。
「き、気持ちは嬉しいんだけど……ここに残るわけにはいきませんよ。僕は向こうに帰るって決めたんです」
「そうだ。シドウはすでに決断を下した。もう私たちが水を差すべきことじゃない」
僕を惑わせないためというよりも焦ったように、エルガは僕へと手を伸ばす。その動きさえ読み切っていたように、フロイデアはローブから伸びる細い腕を掴んだ。捕らえられたエルガがびくりと体を震わせる。
「水なんか差しませんよ。あなたに刺すならもっと、硬くて鋭いものじゃなくてはいけませんから。……メラニー」
その名前が低く呼ばれた時、金属のきらめきが一閃した。そして、それを追う真っ赤な飛沫。
「ぐっ……!?」
低く声をこらえながら、エルガは片手を抑えてその場に崩れ落ちる。その先にあるべきモノは、騎士姿の少女の足元にぼとりと落ちた。
不穏なささやきがどよめきに変わり、叫び声の渦になる。その中心で、剣を鞘に収めたメラニーは、真っ青な顔をしている。頬を薔薇色に染めながらエルガの手首を拾いあげるフロイデアとは、対照的だった。
「ごめんなさいね、エルガ。痛いでしょうけど、仕方がないことなんですの。大丈夫ですよね? 魔術を使えば、あなたはこんなのすぐに治せますものね」
「ふ、フロイデアさん……あなたは、いったい何をしてるんですか……!?」
「あらあら、わたくしはちゃんと言いましたよ? あなたとお別れする気はありません、と。シドウ様、あなたにこの世界に……いいえ、わたくしの側にいてもらうために必要なことですの」
フロイデアはうっとりとした表情で、歌い上げるように言葉を紡ぐ。悲鳴と鉄の匂いが行きかうこの舞台で、筋書きを知っているのは彼女だけだった。
「な、何を言って……違う、早く、早く手当をしないと! エルガ、大丈夫!?」
「私よりも、お前の方が問題だ……このままでは、儀式ができない……!」
ぎり、と音が聞こえるほど強く歯を噛みしめ、エルガはフロイデアをにらみつける。しかしその眼には、怯えと混乱が入り混じっていた。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ!? 早く血を止めなくちゃ死んじゃうよ! 誰か、見てないで早くエルガを助けてよ!」
「駄目だ……儀式のために集めたエニを、私の治療のために使うわけにはいかない……」
「そんなこと言ってる場合かよ!」
このままじゃ埒が明かない。衝動のままに叫ぶと、僕はなりふり構わずフロイデアの肩を掴む。
「フロイデア! あなたならこの人たちに命令することもできるんでしょ!? お願いだよ、早くエルガに手当を!」
「駄目ですよ? エルガを治したら、シドウ様が日本に帰っちゃうじゃありませんか」
「じゃあここに残るよ! ねえ、だから……」
「んー、シドウ様は優しいからそう言ってくれますけど……エルガってほら、とっても頑固でしょう? 隙を見て魔術を発動されたら困ってしまいますよ。わたくし、魔術についてはからきしですからな」
「ど、どうして……」
「はい?」
にこにこと微笑むフロイデアに向かって、僕は吼える。自分の中にある、得体のしれない者への恐怖をかき消すように。
「どうして僕にそこまでこだわるんですか!」
その時初めて、フロイデアがすっと微笑みを消した。珊瑚色の唇をわずかに開いて、フロイデアは僕に差し出した手を引っ込める。それでも、僕へ向けたぎらつくような視線は変わらない。
「こだわりますよ。あなただから、こんなに狂おしく求めずにはいられないのですわ、シドウ様。だってわたくしたちは、同じなのですから」
自らの腕からするりと手袋を引き抜いて、フロイデアは真っ白な腕をもう一度僕に差しだした。
僕らを囲んでただうろたえるだけだった人々が、一際大きな声を漏らす。何を言っているかは分からないが、エルガの手首が切り落とされた時よりも慌てているくらいに思えた。
どうしてこの人たちは、僕らを助けてくれないんだろう? 怒りを込めてその視線の先を追った時、僕はようやくその理由に思い至った。
彼らが見つめていたのは、フロイデアの腕だ。何も覆うものがなくなった今、大衆の目にさらされている、白く滑らかなその肌。そこには、一点のシミも傷跡も見当たらない。そして、あるべきはずのものもない。
「……もしかして、あなたには、」
「ええ。わたくしは、エニを持っていませんの。生まれてから今まで、赤ん坊でさえ持っているほどのエニも、わたくしにはありませんのよ」
そうだ。あの池でフロイデアを見た時の違和感が、今になって蘇る。手袋を外して水面を撫でていた、細い指先。その白い肌には、この世界の人々なら備えているはずの複雑な文様が少しも見当たらなかった。
学ランの下に隠れている、僕の腕と同じように。