混乱の本番、そして開眼の時間④
「……笑うわけがないだろう。趣味の悪い冗談だ」
僕の長い話を聞き終わって、エルガは一つ大きな息をついた。
「笑ってくれていいのに。たくさんの人とつながりを持ってる君からしたら、たかだか三十人に見捨てられた程度で落ち込んでる僕なんてちっぽけすぎて笑えるだろう」
「笑うわけがないだろう」
エルガは繰り返すと、僕の手を静かに握った。
「信じていた者に裏切られるのは、最も耐え難い部類の苦痛だ。さぞ辛かっただろう。悔しかっただろう。それでも他人を恨まず、怒りをぶつけず、よく耐えた」
「……エルガ」
「たまたまその時はめぐり合わせが悪かっただけで、お前には人に好かれる資質がある。同時に、人を好いて受け入れる資質もある。……今だってそうだ」
変だ。エルガが掴む力は決して強くないのに、触れたところが熱く灼けている。さっきルルーラの手を握った時と同じような、けれど少し違うような、体の芯が痺れる感覚――。
「変化を感じているだろう、シドウ」
「う、うん。なんか、手がびりびりというかむずむずする感じ……」
「それがエニが結ばれかけている証だ。一度手を離せ」
言われた通りにすると、奇妙な感覚はすぐに消えてしまう。決して快適ではなかったはずの刺激が消えてしまったのを名残惜しく思っていると、エルガもその感触を辿るように自分の手の甲を撫でていた。
「いつか言ったな。この世界でエニを結べば、お前が元の世界に戻ることを邪魔しかねんと」
「……」
「単刀直入に言う。シドウ、お前が望むなら、この世界に残れるように手筈を整えよう」
エルガの瞳は、かすかに揺れていた。けれどその声は震えることなく、僕の心の中心にゆっくりと彼女の意思を伝える。
「身の回りのことを心配することはない。この城に居ながら、ゆっくり言葉や文化を覚えていくといい。慣れてきたらルルーラやムコリタとともに、城下や城外を見て回るのもいいだろう。あの二人ともお前は上手くやっているようだから、お前もいろいろなことを教えてやれ」
「……ここに、僕が居続けるってこと?」
「そうだ。むろん、日本とは便利さも豊かさも違う。今まで親しんできた友も家族もいない世界だ。それでも良いのなら――それでもお前が、元の世界に戻る意味を見出せないなら、我々はお前を喜んで受け入れよう、シドウ」
予想もしていなかった言葉に、僕はどう反応していいか分からずに黙っていた。今僕は、どんな顔をエルガに向けているんだろう。
ここに留まってもいいと言われて、嬉しいのかもしれない。元の世界に戻らなくてもいいと言われて、寂しいのかもしれない。そのどちらも、間違いではない気がしていた。だが、それだけではとても表せないくらいに様々な感情が胸の中で渦巻いていて、結局何一つ言葉にすることができない。
「急に言われても、判断はつかないだろう。ただ、残される時間はそこまで長くない。この祭典でエニが予想以上に集まったから、儀式の日程を早めさせてもらう」
エルガは僕の顔を見て、出来の悪い弟を見るみたいに微笑んだ。滑らかな白い頬を、傾き始めた夕日が橙に染めている。
「送還のための儀式は、明日の晩に行う。それまでに心を決めてくれ」
その声は最後まで優しくて、僕はただ物分かりが悪いふりをしてうつむくことしかできなかった。




