混乱の本番、そして開眼の時間③
「やりましたね、シドウ先生!」
万雷の拍手に見送られながら舞台を降りてすぐ、ルルーラは嬉しそうに僕に駆け寄る。
「お姉ちゃんにあんな悪口いうなんて、私、今でもすごくどきどきしてます! もう、心臓の中に魚がいるみたい!」
「シドウはほとんど聞いテただけだっただけどな。まっタく、ムコリタにはあんナに練習をさせておいて、ひどい奴だ」
「それは違います! ムコリタ、あなたがあんなところに転移するから……!」
「ううん、いいんだ」
確かにいきなり舞台に飛ばされていなければ、そうでなくてももう少し説明があれば、身動きできないほどのパニックに陥ることはなかったかもしれない。でも、どんなに丁寧に案内されたところで、僕はあの場に立てばやはり固まってしまっていたような気がする。
大勢の目、沈黙、そして『何かをしなければならない』という強迫観念。それが、僕の心を縛り付けている三つの要素だ。転移魔術と祭典によって強制的にその三つをぶつけられたおかげで、僕は思い出すことを拒んでいた記憶をはっきりと取り戻すことができた。
僕はそろそろ、自分自身の傷に向き合わなければならない。
だが、その前に少しくらい、お互いをねぎらってもいいだろう。
「ルルーラ、ありがとう。君がしっかり歌ってくれたから、僕も逃げ出さずにあの場に居られたよ。やっぱり君は、すごく勇気があって強い人だね」
「え? そ、そんな、私はただ、も、もう考える余裕もなかったってだけで……」
さっきまで収まっていたはずのどもり癖が、また復活している。まあ、一朝一夕で治るものだったら、ルルーラだって苦労しないよな。けれど、この大舞台をやり遂げたという経験は、彼女の自信につながるだろう。実力や知識はすでにしっかりあるんだから、もうちょっと自分を信じることができれば、きっとこれからは上手くやれるはずだ。
「ムコリタも、ありがとう。君の演奏、とても綺麗だったよ。おかげで僕の気分も落ち着かせてもらったし、聞いてるお客さんも喜んでくれてたと思う。今度は君が好きな曲を聞かせてくれ」
「ふふん、ムコリタは本当はもっト難しい曲だって弾ける。いっぱい褒めるナら、聞かせてやってモいいぞ」
ムコリタは機嫌のいい猫みたいに瞳を細める。ムコリタからの文句は確かに多かったが、こうしたらどうだという案や窮地を切り抜けるためのアイデアだって、いくつも彼女が出してくれた。何より、自信に満ちていて、かつ愛嬌があって憎めないその態度に、僕は何度も癒されてきた。僕とルルーラだけだったら、ここまで上手く話が進むことはなかっただろう。
様々な波乱があった中で、僕が二人に対して思う気持ちは、ただの先生と生徒とか悪だくみをした同志だとか、そんな言葉で表せるよりももっと特別なものであるように感じていた。
「……わ、私からも、シドウ先生に伝えたいことがあります」
その時、ルルーラは意を決したような強い瞳で僕を見る。そして僕が返事をするより前に、素早く僕の手を握った。
「る、ルルーラ……? ど、どうしたのさ」
その尋常ではない雰囲気に、僕もつられてどもってしまう。透き通るような肌が真っ赤に染まって、長い前髪の下でわずかに潤んだ水色の目が真っすぐに僕を射抜く。手袋を隔てているとはいえ、握られた手からは熱いくらいの温度が伝わってきて、僕の手までなんだかびりびりと痺れてるような奇妙な感覚が――。
と、その時。
「悪いな、邪魔をする」
涼やかな声とともに現れたのは、頭から足先までをすっぽりと包んだローブの魔術師――エルガだった。その姿を見た瞬間、ルルーラはぱっと顔を輝かせて僕の手を離す。
「お姉ちゃん!」
さっきまで僕に触れていた手が、思い切りエルガにすがりついている。おかしいな、ルルーラは僕に伝えたい大事なことがあったはずなんだけど。
そうだよな、ルルーラはあくまで信愛や友愛の表れとして僕の手を握ってくれたのであって、それ以上の意味はなんてあるわけがないよな。
……いや、でもさ。さすがにさあ、ここまでにも何度か、それっぽい雰囲気はあったじゃん? そのたびに僕は否定してきたけど? でも、最後くらいは? ちょっと期待したっていいじゃん?
告白してないのに振られた気分になってる僕を差し置き、青髪姉妹は仲睦まじく寄り添っている。
「お姉ちゃん、さっきの見てくれてた、よね……」
「ああ。まさかお前にあんなに度胸があるとは思わなかった。それにあの詩も、刺激的で悪くない」
淡々とした口調で、しかし慈しむような眼差しでエルガから褒められて、ルルーラはこの上なく幸せそうな微笑みを浮かべた。そりゃもう、僕に褒められた時なんか比じゃないくらいに嬉しいのが見ているだけで分かる。やっぱり君たち、仲良し姉妹じゃないか。
……そういえば、ジェルミの時もそうだったんだよな。僕が女の子といい雰囲気になると、エルガが乗り込んでくるという法則でもあるんだろうか。そしてその女の子は、結局エルガの方に狂おしい気持ちを向けるべしと法律で決まっているんだろうか。さすが異世界、恐ろしいルールもあるものだ。
「……だが、その話は後にしよう。シドウを借りるぞ」
エルガは穏やかにルルーラの手を解くと、僕に向かって手を差し出した。
「ちょうどよかった、僕もエルガと話がしたかったんだ。……僕が思い出した記憶の件で」
そう伝えると、エルガはぴくりと細い眉を動かした。
羨ましそうなルルーラと不思議そうなムコリタの視線に見守られながら、僕はエルガの手を取る。
祭典のせいなのか、今日はエルガも長い手袋をしていた。いつもより布一枚分だけ遠くなったはずの手は、しかしいつか触れた時よりも温かく感じられる気がした。
*
どこに転移したのかを認識する前に、乾いた風が顔に吹き付ける。
「……あれ。エルガの部屋じゃないんだ」
風が来た方を見ると、レンガっぽい石で作られた小さな空間から空が見えた。そこから見下ろすと、古代ローマのコロッセオみたいな半円状の建造物が見える。もしかしてあれが、先ほど僕たちが立っていた祭典の舞台だろうか。
「ここは王城の側にある尖塔だ。戦乱の時代には物見に使われていたが、今では用途もなく、誰も立ち入らない。聞かれたくない話をするには最適だ。それに」
エルガは言葉を切って、外を眺める僕の隣に立った。
「なかなか悪くない景色だろう? ……お前がこの世界にいるのも残りわずかだ。少しくらい、この世界を見せてやるのもいいかと思ってな」
「……うん。舞台から見上げる観客席もすごかったけど、ここから見るのも壮観だ」
そのまましばらく、僕たちははるか遠くの地上を見下ろしていた。
穏やかな沈黙の中で、話を切り出したのはエルガの方だった。
「……何から話そうか。お前には、言わなければならないことも、言いたいこともたくさんある気がする」
「そっか。でも、今は僕から話させてくれない? ……思い出したんだ、ここに来る前のこと。僕が忘れたいと思っていた、辛い出来事を」
エルガは視線を外に向けたまま、小さくため息をついた。
「やはりそうか。……お前の顔つきを見てから、何かが変わったと思っていた。ああ、聞かせてくれ。私もお前の記憶に興味がある」
褐色の壁にもたれながら、僕はぽつぽつと話を始める。それは、僕がこの世界にいる意味の確認でもあった。
*
友達が、いたんだ。転校生って分かるかな? そう、他の学校から僕らの学校に移動してきた生徒のこと。年度の始まりでも休み明けでもない、変な時期にそいつは来たんだ。親の仕事の都合で、急に海外転勤が終わったんだって。だから、うまく言葉が話せなくてちょっと周りから浮いてたんだ。なんか聞いたことある話だろ?
まあ、あいつが遠巻きにされてたのは言葉の問題だけじゃないけど。ぶっきらぼうで、口が悪くて、全く愛想のない奴だったんだよ。これも聞いたことある……っていうか、身に覚えがあるって顔してるね、あはは。
ごめんごめん、ふざけてるわけじゃないんだ。とにかく、クラスの奴がそいつを放っておいてる中で、僕はその無愛想な奴に一方的に話しかけたり構ったりしてたんだ。理由は……なんでだろうね。思い出せないとかじゃなくて、本当によく分からないんだ。多分、理由なんてないんじゃないかな? だって、友達ってそういうもんだろ?
ああ、でも一つだけ、はっきり覚えてることがあるな。僕がそいつの前でくだらない冗談を言ったときに、そいつが笑ったんだ。たったそれだけなんだけど、なんかよく分からないくらいに嬉しくってさ。どうにかしてもっと笑わせてやろうって、そう思ったんだよ。元から僕はお調子者っていうか、いつもふざけてるようなタイプだったからさ。ここでだってそうなんだから、想像つくだろ?
……僕はそいつと仲良くしようと思ってるだけで、他の誰かが僕のことをどう思ってるかなんて、考えてもいなかった。きっかけを作ったのが誰かは知らないし、その理由も分からない。だけど、誰かが僕のことを教師に言いつけたらしいんだ。勉強もせずに悪質な冗談や物真似ばかりやって、ふざけまわってるって。僕がクラスの嫌われ者とつるんでるのが、どうして気に食わなかったんだろうね。
今になってみれば、そんなの間に受ける教師もどうかと思うよ。仮にも教育者なんだから、生徒のことを信じてくれてもいいのに。けれどそんな悪い噂を真に受けられたってことは、僕の日ごろの態度に問題もあったんだろうな。授業は真面目に受けてたつもりだったんだけど、何が気に食わなかったんだろう。考えても仕方ないか。
それで、僕は罰を受けることになったんだ。いや、大げさなものじゃないよ。少なくとも、言い出した方にとっては。『そんなにふざけるのが好きなら、今ここでやってみなさい』って言われただけ。うん、クラスの皆が黙って見てる、静まり返った教室で。
その時に、頭を下げて引き下がってれば良かったのかもしれないね。でも、僕は自分が悪いことを下なんて思っていなかったから。今でも思ってないよ。だから、『売り言葉に買い言葉』ってやつだよ。教師に言われた通りにしたんだ。それでも一人くらいは、笑ってくれるだろうと思ってさ。
何を言って、何をしたかは覚えてないな。それこそ、本当に思い出したくないことだから。ただはっきり焼き付いてるのは、冷めたような嘲るような目と、途切れることのない囁き声。まあ、当然だよね。他の皆が黙ってるときに自分だけ笑う気にはなれないし、何よりその場で一番偉い先生が怒ってるんだもん。どんなに愉快なことをしたって笑えるわけがないよ。
地獄みたいな空気だった。言っておくけど、クラスの全員が僕のことを嫌ってたわけじゃないと思うよ。転校生の他にも、よく話す人や友達と呼べる奴はいたはずなんだ。だけど、その誰からも笑い声は聞こえない。僕の味方は、あの空間のどこにもいなかった。不愛想でぶっきらぼうなあいつは……あいつがどんな顔をしているかは、本当に怖くて見られなかった。途中からは、ただ早く終わってくれ、誰か止めてくれって思ってたよ。
はしゃぎすぎて怒られて、痛い目を見た。言ってしまえば、それだけだよ。それだけで、僕は何もかもが嫌になっちゃったんだ。それまで持っていたつながりをすべて拒絶するくらいに失望して、誰もいない屋上から身を投げようかと思い悩むくらいに絶望した。自分の言葉に誰も笑ってくれなかったという、それだけで。
ねえ、そんな弱い僕を笑うかい、エルガ?




