混乱の本番、そして開眼の時間①
エルガの話を聞いてから、僕は一人でいる時間に元の世界――日本にいた時のことを考える時間が増えた。というか、今までが考えなさすぎだったのだと思う。僕がここに来てから、おそらくすでに一週間以上の日にちが経っているはずだ。親や友達は突然行方不明になった僕のことを、さすがに心配しているだろう。
「いや、そうでもないのかな……」
僕の手の甲に浮かぶ、白くて小さな文様。この小さなエニの中に、僕の家族は本当に含まれているのだろうか。もしその答えが否だとしたら、僕は家族とさえ心理的なつながりを持てていなかったということになる。
それとも、僕の方から拒絶しているのだろうか。思い返してみても、何か特別に嫌なことがあったという記憶はない。会話も喧嘩もほどほどにする、ありきたりな家族だったはずだ。
家族だけじゃない。友人関係だってそうだ。特に何かいじめにあっていたとか、反対にいじめていたみたいな記憶もなくて、僕はごく普通に学校生活を送っていたはずだと思う。
誰かの話に笑って、くだらない冗談を言って、また誰かが笑って。そんな日々の繰り返しが、僕が元居た世界だったはずだ。
「……あ。そういえば、あいつ、元気かな……」
つらつらと日々を思い返しているうちに、僕はある一人の友人のことを思い出していた。ちょっと口が悪くて、愛想も悪くて、目つきも悪いあいつ。僕としては結構中が良かったつもりなんだけど、少しくらいは僕のことを考えていたりするんだろうか。
「……そりゃないか。だったら僕のエニ、もう少し大きくなるはずなんだもんな」
ため息に混ぜて吐き出した独り言は、思っていたよりも投げやりな響きをしていた。
誰も僕のことを気にかけてないからって、それを悲観しているわけじゃない。友達も家族も、記憶にある限りは僕に良くしてくれていたと思う。本心が冷たいものであったとしても、それを隠して接してくれているなら構わない。人の本当の気持ちなんて、本来は絶対に分からないし知ることのできないものだ。
だけど、僕は自分の持つつながりの希薄さというものを、エニという形で目の当たりにしてしまった。もちろんこれが何かの間違いだとか、この世界の常識が僕に通用されるのはおかしいと否定することだってできる。
そうしないのは、僕はエルガの言葉に心の奥では納得してしまっているからだ。だって、見知らぬところに連れてこられたというのに、僕はエルガに記憶のことを言われるまで、友人も家族の顔も思い出さなかった。頭が混乱していた、というのは言い訳にはならないほど、僕は多くの時間をこちらの世界で過ごしている。それでも両親にさえ一度も思いを馳せなかったなんて、本当に薄情なのは僕の方なのかもしれない。
そうだとしたら、たとえ儀式が成功して無事に向こうに戻ったとして、僕は以前のように笑うことができるのだろうか。
*
悩んでも考え込んでも、時間は同じ速さで過ぎ去っていく。ベッドに寝転んで友人のことを考えたり、ルルーラたちと一緒にぽこぽことハカホンを叩いたりしているうちに、気づけば祭典の当日になっていた。
いつもは静まり返っている僕の部屋の廊下の前も、今日は朝から人が行き来して騒がしい。だが、そのおかげで誰に見とがめられることもなく抜け出すことができた。
僕はハカホンをしっかりと抱えて、例の倉庫へと向かう。今日は僕が最後だったようだ。
「ごめん、お待たせ」
「思ったより早カったな。エルガには気づかレなかったのか?」
「うん、エルガも忙しいみたいで、今日は他の人が食事を持ってきてくれたから……それより、二人とも綺麗な衣装だね。今日はお祭りだから?」
「そうダ。良く似合っテるだろう?」
服装を褒めると、ムコリタは得意げに胸を張ってその場でくるりと一回転した。髪と同じ若葉色の長い裾がふわりと広がって、倉庫の中に爽やかな風が吹いたように思える。ところどころにあしらわれた花のような模様の刺繍も、ムコリタの活発な雰囲気にあってとても可愛らしかった。
けれど、ムコリタと同じく鮮やかな色の衣装を着ているルルーラは、僕の言葉が聞こえていないみたいにうつむいたままだ。
「う、うう……」
「どうしたの、ルルーラ? 気分でも悪い?」
「ち、ちが、います……」
手を胸の前で固く組んでいるルルーラが来ているのは、白を基調にした流れるようなラインのドレスらしき衣服だ。短い袖や腰の辺りには細い装飾用の鎖が付いていて、身動きするたびにしゃらしゃらと音を立てている。
「か、体は元気なんですけど……その、緊張……してしまって……格好も普段と違うし、この後、大勢の前に出るかと思うと、くらくらしてきて……」
「倉? 本番の舞台は、コの倉庫じゃないぞ?」
「じゃなくて、めまいがしてるってことね」
いつも通りのやり取りをしてみても、ルルーラの顔色は戻らない。僕はムコリタと顔を見合わせる。
「おいシドウ、なんトかルルーラの元気を出せ。ムコリタたチの出番はモうすぐだ。そろそろ移動しないと遅れテしまう」
「な、なんとかって……」
この世界に来て以来、一番の無茶ぶりだった。しかも時間制限付き。ムコリタは壁にもたれかかっているだけで、協力してくれるつもりは一切ないらしい。
困った僕がもごもごと口を動かしていると、ルルーラがほんの少しだけ目線を上げた。
「……シドウ先生は、すごいですよね。慣れない世界なのに堂々としていて、憧れます。どうしたら、私もそんな風になれるんでしょうか……」
そうだ。ルルーラは確かに内気なところはあるけど、ただうつむいているだけの女の子じゃない。僕の部屋に単身乗り込んで授業を直談判したり、うまくしゃべれない自分を悔しがったり、心の奥には熱い闘志を秘めているタイプなのだと思う。
だから、僕が手を引かれなきゃ歩けない子供にそうするみたいに励ましてあげる必要はない。ただ側にいて、ちょっと気分を明るくすることができればそれで十分なはずだ。
「うーん、そんなに難しく考えることもないと思うけどなあ。僕が聞いたことあるのは、相手をジャガイモだと思え……とか?」
「お、お芋ですか?」
「うん。観客席に座ってるのは人じゃなくて芋だと思えば、失敗しても気にならないでしょ?」
ルルーラは目を何度か瞬いて、その後花が開くように笑みを浮かべた。
「そ、そんなの……い、いくらなんでも無理がありますよ……ふふ、シドウ先生、さすがに私も騙されませんよ?」
「え? 別に僕、今は嘘ついてるわけじゃないんだけど」
「ふふふ、また冗談ばっかり……あは、お客さんがお芋だなんて、すごいことを考えつくんですね」
「シドウは時々、しゃっくりスることを言うな。どんナに腹が空いてても、人は芋には見えナいぞ」
「うん、しゃっくりじゃなくてびっくりね……びっくりしたらしゃっくりは止まるからね……」
おかしいな、まるで僕が常に人間を食材に見立てている食いしん坊みたいな言われようじゃないか。いや、こういう言い回し、緊張するような場面だとたまに出てくるよね?
まあ、どうにかルルーラの調子を取り戻せたようから結果オーライとしよう。
「よし、それじゃあ舞台に行クぞ。シドウ、手を貸せ」
「なになに、円陣でも組む? 僕、そういう体育会系っぽいノリ初めてだよ」
「違う。歩いていく時間が惜しいかラ、魔術を使ウんだ。ルルーラ、手伝え」
「えぇっ? そ、そんな急に……そ、それに、またシドウ先生と手が……っ」
もじもじし始めたルルーラに鼻を鳴らすと、ムコリタはぐいっと僕とルルーラの手を引っ張る。
「いいから行クぞ。二人とも、楽器だけしっかり持っておけ」
「ま、待ってムコリタ、こんな急に言われても同調、できな……!」
「え? どういうこと?」
ムコリタの腕が淡く光り始めたのを見て、僕は慌ててハカホンを抱える。ムコリタの指示に従ったのではなく本能的な不安を感じたからだったのだが、結果的にはそれが正解だった。
一瞬の後、僕の足は地上を離れて漂いだす――。




