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同盟

作者: 雨森 夜宵

 彼は同学年の連中のほとんどから「バシ」と呼ばれていたけれど、他ならぬ本人から禁止令が出ていたので個人的には石橋と呼んでいた。禁止令が出ていたのは石橋とある程度以上親しい人間だけで、私がそこに含まれてたのは偶然とか、巡り合わせだとか、そういう名前で表現される類いのものだった。

 石橋という男子の顔と名前とその他諸々が一致したのは半年も経ってないくらい最近のことで、存在を認識したのがその一か月とか前。そのころに知ってたことといえば、クラスと、席の位置と、なんだか女の子みたいに丸っこい字を書くってことくらいだった。初めて目が合った時の驚きったらない。男子にしては小柄な、つまり女子にしては少し大きい私よりまたほんの少しだけ大きな、でもほとんど変わらないくらいの背の、よく陽に灼けた細身。一目で「ああサッカー部か」って判断してしまうような見た目で、体育着の半袖半ズボンがよく似合ってた。こいつのためにデザインしたんだろうか、って思ったくらい。それで実際サッカー部なんだから、素晴らしいキャラクタークリエイトだ。

 この「バシ」という名のアバターを上手に操作しながら生きる石橋は、この夏休み前の時期にして早くもクラスの人気者の枠を勝ち取って、妙に忙しそうに生きている。それで時々、水面に顔を出すみたいにして私に話しかけてくる。大人なら煙草休憩でもしてるのかもしれない。

 私たちは「バカ同盟」だ。


「結城ー?」

 エネルギーを爆発させるみたいな呼びかけと共に教室のドアを開けた石橋が、ひとり文庫本を開いていた私を見つけてにっと笑った。

「いたいた。悪い」

 背中のリュックを派手に揺らしながら近付いてきた石橋に、机の上でスタンバイしていた世界史のノートを差し出した。サンキュ、と受け取った直後、誰のものかも知らないであろう隣席に躊躇いなく腰掛ける。筆箱だのなんだのをぽんぽん机の上に並べながら、ちらりと逸れた視線は私の手元を素早く確認して、またすぐに戻っていった。

「それ、何読んでんの」

 興味がありそうにもなさそうにも聞こえるトーンで石橋が訊く。私は一瞬机に視線を落として、それから意味もなく壁の――石橋とは反対側の時間割に目をやる。

「ダニエル・キース」

 なるべく近いトーンで返した。

「書名は?」

「書名は『アルジャーノンに花束を』」

「ふうん。聞いたことねえや」

 軽く笑った石橋は余韻を残したまま目を伏せると、そのままノートを写す作業に没頭していった。真剣に物事をする人間の周りには陽炎のような圧が生じる。その隣で読書を続けられるとは最初から思っていなかったけど、特に何かしようと思っていたわけでもなく。ぼんやりと黒板を見つめるうちになんだか甘いものが欲しくなってきて、財布を片手に席を立った。

「学食?」

 顔も上げずに石橋が言う。

「うん。なんか買ってこようか」

「今はやめといた方がいいかもよ」

「……なんで」

「三組でやってる補習、あと一時間くらいだろ。連中、なんか食いながら駄弁ろうぜって言ってたし、今行くと鉢合わせると思う」

 気になんないならいいけど、と事もなげに言った石橋を見下ろして、なるほどね、と思う。確かにあまり顔を合わせたい相手ではなかった。自販機の方にしておくなら、紙パックがある一フロア下まで足を延ばしてもいい。なんだか久しぶりにいちごオレが飲みたいような気もしてきた。

「いちごオレ飲む?」

「ん?」

 何が、という視線を向けた石橋は、私の説明を待たずにああと納得したような声を漏らした。に、と口の端だけを持ち上げて笑う。

「俺、バナナオレの方が好き」

「バナナオレね?」

「おう。なかったらいちご」

「了解」

 財布片手に教室を出て、突き当たりの連絡通路を抜けたら階段を下りる。どこからか聞こえてくるざらついた笑い声に、やっぱり学食へ行かなくてよかったと思った。ちょっとした糖分補給のためにわざわざ学食に入って、たむろしてる連中に暇つぶしのネタを提供してやるのも馬鹿らしい。そう思うと、たった今回避したはずの状況が鮮明に想像されて背中がざわついた。

 ぎちぎちに椅子とテーブルの詰め込まれた中を私が歩いていく。他の女子と変わらない「普通の」格好、つまりローファー、ソックス、二回折ったスカート。学校指定のカーディガン。ひとつ開けたボタンとチェーンで伸ばしたリボン。色付きのリップ。

 そこに、色の明るい髪。

 遠めでも目立つ私の姿を誰かが目ざとく見つける。おい、ほら、とそいつが同じテーブルを囲む仲間に伝える。一様に下卑たにやつきを浮かべたあいつらは交互に私を見て、顔を見合わせて笑いかわす。周囲には他の学年の生徒や先生もいるからあからさまには絡んでこないけど、売店を物色する私が自分たちの方を見ないのをいいことに、こそこそと背中を丸め、声を低めて、あれこれ噂話の確認をする。それでも無視されるのは気に食わないらしく、時々は少しだけ声を張って私の耳に届くようにする。特に私のことだとすぐ分かる言葉ははっきりと、執拗に、周りが少し振り向くくらいの悪意を込めて。

 茶髪。ギャル。真面目系ビッチ。もっとえげつない言葉は一度だけ口に出されて、周りがおいやめろよって笑いながら止める。そうやって、私が傷ついた顔するのを嬉しそうに待つのが彼らのお作法。

 くだらない。チンパンジーの方が、最初の期待値が低いだけまだマシ。

 苛立ちをバナナオレのボタンにぶつけてしまって、少しだけ罪悪感を覚えた。いちごオレのボタンは注意深く押し込んだものの、なんか変な音がしたなと思って覗き込んだら、いちごオレの直撃を食らったバナナオレが取り出し口の下に挟まって少しひしゃげていた。

「やっば……!」

 慌てて引っ張り出そうとしたけど、これで穴なんか開いたらたまらない。慎重に向きを変えながらどうにか取り出した。ちょっと凹んでというかくびれが出来はしたけど、一応中身が漏れた様子はない。ほっと一息ついて、よっこいしょと立ち上がって。

「――おっ、カオリン?」

 軽い、キャラメルポップコーンみたいな声。

 そうかこっちと会う可能性は考えてなかった、と思いながら振り向けば、美樹と、曜子、友理奈、要するにいつもの仲良し三人組が立っていた。校則何それおいしいのみたいな、パンツ見えそうなくらい短く折ったスカートに、紺か黒で指定されてるはずのカーディガン、クリーム色。髪は最初真っ黒だったはずなのに、まるで洗う度に色落ちしていくみたいにどんどん明るくなってきて、今では私のと大差ないくらいになった。

「よう」

 ぱちん、と内心で呟いて頭の回路を切り替える。へらっと、なるべくだるそうに笑う。

「何、忘れ物かなんか?」

「ううん。自習室にいたんだけど小腹空いちゃってさ。今から二組で菓子パすんの」

 それでそのでっかい手提げなのね、と肩にかけたトートバッグに納得する。それ以外の部分は「普通」だったから、その大きな荷物が結構目立っていた。多分ポテチか何か、重くないけどかさばるものを買ってきたのだろう。

「カオリンも来る? マジで売るほど買ってきたからさあ」

 美樹のトートバッグにちらりと目をやって友理奈が言った。こっちは白のセーター。ブラウスのボタンは二つも開けて、DだかEだかありそうな胸の斜面にだるんだるんのリボンが載っている。

「あー、ごめん。明日の数学の課題まだ終わってないんだわ」

「ええ? いいよそんなの。山田ちゃんなら別に怖くないっしょ」

「違うわ。内申点稼いでんの」

 あーね、と笑った美樹は、拝むように手を合わせておどけた。

「いつもお世話になっております、カオリン大明神」

「はいはい」

 美樹が提出する課題の五つに一つくらいは、私が解いたのを「適度に」丸写ししたものだ。本当にお世話になられている。そろそろお礼のひとつくらいも支払われていいレベルだと思うけど、今までにそういうことは一度もなかった。多分この先もない。

 美樹にとってはもう当たり前のことなのだ。

「まあじゃあ、宿題頑張って」

「あれ、終わってんの?」

「終わってるわけないじゃん。逆に終わってるわ」

 あはは、と笑って手を挙げた三人の背中に、ふと教室でのやりとりを思い出す。

 ――三組でやってる補習、あと一時間くらいだろ。

「あ」

 待った、と思わず声をかけた。

「ん?」

 不思議そうな顔をした三人が振り返る。

「二組っつった?」

「うん言った」

「それやめといた方がいい……っていうか、二組はやめた方がいいかも」

「え、なんで? 誰かカップルでもいんの?」

 美樹の質問にくすっと曜子が笑った。この手のゴシップは曜子の大好物だ。多分、実際二組にそういうカップルがいるかどうかも、既に把握済みなんじゃないかと思う。

「違う違う。三組で補習やってるから、隣だとめんどくさいかもよって話」

「え、そうだっけ?」

「あっそうだ。英語っしょ? ユカが引っかかったっつってたわ」

 友理奈がふんふんと頷きながらそう言った。美樹と曜子が相槌を打って、苦笑に近いものを浮かべて顔を見合わせる。

「英語かあ……。おじいちゃんはいいとしてもチリセンはめんどいな。説教長いし」

 葛西先生と西野先生な、と内心で訂正する。

「ねー。サワと土田もさあ、手つないで帰ったの誰かにチクられて、一時間くらい絞られたって」

「ヨーコそれサワに愚痴られたんでしょ?」

「そーそー。軽く二時間くらい。しかも夜、寝る前」

「うっそ、それ平沢君超怒ったっしょ」

「めっちゃめんどかったわ、友達と俺とどっちが大事とかって」

「それで?」

「ホイッピアンの抹茶タピで許してもらった」

「女子かよ」

 あっはっは、と高らかに笑い声を揃えたところで、三人は当初の目的を思い出したらしかった。

「あ、カオリンありがとね! なんか、どっか別んとこ探すわ」

「うん」

「じゃねー」

 美樹たちが向かったのはエントランスの方だけど、まあ多分学食だろう。ああいう人間たちには何かそういう正の走性でもあるんだろうかと思う。友理奈は小さく手を振り、曜子は振り向きざまにちらりと私の手元へ――二つ並んだいちごオレとバナナオレに視線を向けた。

「バシによろしく」

 に、と曜子の両目が三日月の形にしなる。

「うっさいわ」

 笑い飛ばせばまた笑みを深める。不快なねとつきを感じさせる笑みだった。美樹と友理奈は振り返らなかった。ただ、背中には一様に、よく似た含み笑いとねとつきとを滲ませていた。なんで言うんだよ、と遠慮のない声量で友理奈が言い、わざわざ邪魔してやんなよイイトコロなんだから、と美樹が茶化す。遠ざかっていく声が聞こえなくなるより早く、踵を返した。悪意がないのは知っている。これでも私はあの三人の友達だし、向こうもそう思っているだろうし、そういう付き合いをしている。要するにこういうのが彼女たちの普通で、日常なのだ。

 男子と女子が一緒にいれば恋愛関係とみなし、髪の色が明るければルーズで尻軽だと決めつけ、先生のことは説教の長さと小言の多さで評価する。課題というものが何のために出されているかなんて考えたこともなくて、適度に書き写して提出点を稼ぐことしか頭にない。

 みんなの普通ってそういうことだ。

 学校という場所は、その「みんなの普通」を押し固めて作られている。


 まだノートと格闘していた石橋は、私が戻ったのに気付くと僅かに口角を上げ、鞄の中に手を突っ込んだ。

「いくらだったっけ」

「百円でいいよ」

「ノート見せてもらったお礼におごるって言ってんだけどなー」

「じゃあ二百円でいいよ」

「ん」

 バナナオレを置いて、二百円を受け取る。日に灼けた、かなり色の黒い手。

 こんな見た目で、石橋はあまり体が強くない。時々体調を崩して学校を休み、稀にはそのまま入院したりもする。その分のノートを、石橋はクラスの連中ではなく私に借りる。曰く、放課後に暇しててまともにノートを取ってる人間、というのを探した結果、辿りついたのが私だったらしい。

 まあ要するに、こいつもあまり「普通」じゃない。

 学校だの、学生だの、カレカノだのセックスだの、そういうのに関心を持つことができなくて、制服を着崩すことも自然にはできない真面目な学生。おまけに二人とも、小説というものの面白さを知っている。ダニエル・キースを知らなくても、そこに眠っているはずの面白さに思いを馳せることができる。だから気が合った。それだけ。曜子が邪推するような関係じゃないし、そういう関係になりたいと思っているわけでもない。私たちはただ、このコミュニティの中で「普通」でいることができなくて、平和に生きるために何らかの擬態を強いられる人種なだけだった。そのために生じる孤独を埋めるために、私は丁寧なノートを取り、石橋はいちごオレをおごった。私たちの関係は感情の上に何となく成立する当たり前なんかじゃなくて、互いに対価を払って得る同盟関係なのだ。

 だから。取るに足らないその些細な金額を石橋が「おごる」という時、私は少しだけほっとするような、そんな気がする。

 ぷつんとストローを差して吸い上げる、いかにも人工的なピンクと甘味。本物のいちごと牛乳の味を活かして作ればそれはそれでおいしいと思う。だけど、きっと私が飲みたいと思うのは、この不自然な色と味の何かなのだろう。

「さっき自販機の前で美樹たちにあった」

 ぽろりと転げ落ちた言葉に石橋は一瞬手を止めて、やっぱり何事もなかったかのようにまた作業へ戻っていった。

「へえ」

「菓子パするんだって」

「ふうん。いいの、行かなくて」

「うん。バシによろしくって」

 ははは、と石橋は声を上げて笑った。

「ちゃんと伝えてくれたわけ、そのくだらない台詞」

「まあ一応ね」

「流石優等生」

 少し茶化した石橋の言葉も、今は気にならなくなった。昔、真面目にしていろというママの言葉を無邪気に守り続けていたあの頃に比べれば、今の私なんか全然「優等生」じゃない。ママは真面目にしていろと散々言ったし、私もそうじゃなきゃいけないんだと思い込んでいた。でも、それは少し違った。

 フランス人のママの血を引いて明るい髪色で生まれた私を、ママは案じただけだ。だから、真面目にというのは少しだけ間違っている。真面目が普通じゃないこのコミュニティでは、真面目にいい子にすればするほど、余計に異質になってしまうから。

 バシとカオリン。「バ」と「カ」のお面を被って生きているからバカ同盟。別に誰かがそう名付けたわけじゃない。ただ、私がこの関係に名前を付けるならそんなところだろうと、何かの拍子にふと思っただけだ。でもなかなか洒落てる。少なくとも、バシとカオリンとかいうつまんない渾名より、ずっとマシ。

「あのさ」

「ん?」

「さっきの本のタイトル、なんて言ったっけ」

 よく陽に灼けた腕が、女の子みたいな丸い字で私のノートを写している。

「貸そうか」

「え、まだ読んでるんじゃないの?」

「いいよ。もう何周目か分かんないくらいだから」

「そう?」

「そうだよ」

「あそう」

 すげえな、と呟いた石橋は暫く考え込むように手だけを動かしていた。もう一口含んだいちごオレを飲み下したところで、あ、と徐に声を上げる。

「じゃあ、俺の今持ってる本貸してやるよ。もう何周目か分かんないし」

 俯いたままの横顔に目を向ける。

「ホント?」

「ホント」

「なんて本?」

「岩野泡鳴の『耽溺』」

「……ふうん。聞いたことないや」

 ちょっとだけ声色を寄せると、くすりと石橋が笑った。二人きりの教室ではその微かな笑い声がほとんど全てだった。ここには余計なものはない。余計なもののない分、ほんの少しだけ息をするのが楽になったような、そんな気がする。

「――その本、貸して」

 いいよ、と石橋が頷いた。体を起こすなり大きく伸びをして、軽く目をこする。バナナオレを手に取り、ストローの先をごく浅く咥えた。

「何事にも対価はあらまほしき……」

 虚空を見つめて石橋が呟く。不自然な黄色が、一気にストローの中をせり上がる。


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