チーズ入り蒲鉾のたとえ
※ この小説はフィクションです。実在の人物などとは一切関係ありません。
ある小説家が語る。——
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僕が書きたいのは、反戦小説ってわけじゃないんだ。
たとえば、チーズ入り蒲鉾というのがあるじゃない。チーズ入り蒲鉾っていうのは、チーズの入った蒲鉾のことだよね。
彼にとってチーズとは、最大の特徴であり、他の蒲鉾との差別化を図る上で大切な要素なはずだ。では、彼にとって蒲鉾とはなんだろうか。それはつまり、彼自身のことだ。
もしも彼がチーズを失ったとしたら、彼は最大の特徴を失うことになるわけだけど、でも彼が蒲鉾であることには変わりない。大切な特徴がなくなったとしても、僕らは彼に対して「よう、蒲鉾」と挨拶することができる。つまり、彼自身の同一性は保たれているってことだ。
では、彼が蒲鉾であることを失ったらどうだろう。そうなったら、彼はもはや何者でもない。チーズ? いや、それは彼の特徴のひとつに過ぎないのだから、彼自身をチーズと呼ぶことはできない。彼はもはや、アイデンティティを持たない。
僕の小説にとって反戦思想というものは、チーズ入り蒲鉾のチーズの部分なんだ。じゃあ蒲鉾はなにかっていうと、ストーリーであったり人物同士の会話であったり、ミステリのトリックであったりする。僕は主題という考え方が好きではないので、どうしてもこういう曖昧な言い方になってしまうのだけど……、とにかく、そういった蒲鉾の要素があれば、僕の小説は僕の小説として成立するんだ。
そして、その物語の中に、僕の小説の大きな特徴のひとつとして、反戦思想が色濃く入り込んでいるって形態なんだ。
僕自身は小説家であって、思想家ではない。だから、僕の小説は小説でなくちゃならないと思っている。
小説か思想か、どちらかを失わなければならないとしたら、僕はよろこんで思想を選んで捨てるだろう。その時は、この僕が嬉々として戦争讃歌を書いていてもふしぎはないんだ。