夜陰に紛れて.1
朧気な感覚。
四肢は感覚を奪われ、身体は浮遊しているかのような錯覚に陥っていた。
足元を見れば、足は地についている。質量のない、霊魂。
――ああ。これは、“夢”だ。
気付くのに、そう時間はかからなかった。
その夢のなかで、室内に立ち尽くしていたヘレナは、辺りを一瞥した。
オフホワイトの白壁に、ミントグリーンの窓枠、わがままを言って購入した、アンティーク調のダブルベッド。そこは、ヘレナの自室だった。
しかし、現在ではなし得ない光景が、彼女の胸を抉った。
無精髭を生やした男性と、男に寄り添っている小さな少女が、ヘレナのベッドで眠っている。――その男は失踪した父で、小さな少女は幼い頃の彼女自身だった。
在りし日の日常を、少しばかり成長したヘレナは、静かに見下ろしていた。
二人はヘレナの存在にまるで気付かない。舞台上の劇を観ているかのような隔たりを感じる。
たった一人の観客は、その“記憶”が遠くに感じて切なくなった。
もう、戻れない過去なのだと見せつけられていた。
「親父……」
視界が滲み、目の前の二人がぼやける。
名前を呼んでみたのに、男は気付かずに眠り続けている。
「親父!!」
今度は、震える声で叫んだ。
気づいてほしかった。自分を見て欲しかった。
認めて欲しかった。今に至る過程に下した決断と、その行動を。
しかし、無情にも、男の目が覚める事はなかった。
*
もうじき、昼時であろうか。
カーテンを開いた窓から、無遠慮に差し込む光は、夜通し仕事をしている男には一際眩しく感じた。
モノトーン系の、落ち着いた色で家具が統一されている部屋。
寝具とデスクトップパソコンしか無い殺風景な部屋だったが、部屋を訪れる者の置き土産によって、多少なりとも生活感のある部屋に変わっていった。
その部屋の主は静かにパソコンに向かっていたが、やがて深いため息を吐いた。
「余程、自分の学力に自信があるようだな、“ヘレナ”」
男は一つに縛っていた髪をほどくと、後方を振り返った。
長い銀の髪が、肩口から滑り落ちる。
見惚れる程に美しい仕草だったのだが、しかし、そこにいたのは、その美を理解しない女だった。
「仕方ないじゃん。これに出会ったのが運命ってやつだよ」
主以上に、部屋で大きい態度でベッドに寝ていた女『ヘレナ・シュナイダー』。
彼女は、オートマティックのバレルを撫でると、悪戯っぽく微笑んでみせた。
印象的な瞳は、蒼海のように蒼く、肩口まで伸びた栗色の髪は、やや癖があり、ふわふわと柔らかそうだ。
美醜を気にすればきりがないが、男の美貌には及ばず、といったところだろうか。
四肢もすらりと長く、決して背は低くないが、男の長身はそれを凌駕していた。
平日の真っ昼間だというのに、近くの私立中学の制服を着て、男の部屋に上がり込むような人間だ。
まともに付き合えば、仕事が進まないのは男もわかっていた。
「君と違って、私は忙しいのだがね」
“君と違って”の部分だけ、語気を強めれば、彼女は身を起こした。
「あら。私がこうしているのは、仕事熱心だといってほしいね」
予想通りの反応に、男は口の端がつり上がるのを抑えることが出来なかった。
「是非、結果に期待したいものだ」
ヘレナが鼻で笑い、男を見詰めた。
「金に見あった仕事はするつもりだよ、“パグリ”」
“パグリ”と呼ばれた男は、ふっ、と柔らかい笑みを浮かべた。
奇妙な呼称だ。彼をそう呼ぶのは、世界中でただ一人、彼女しかいない。
自らを『パリアッチ』と名乗っている男は、「ヘマをしなければ、文句は無いのだがな」と返すと、頬を膨らませたヘレナを見て、更に笑みを深くした。
彼はこのやりとりが楽しいらしく、意地悪くヘレナをからかってしまう。
釣られる彼女は、相当ムカついているようだが。
二人は数分の間、何やら言い合っていたが、パソコンからコール音が鳴ると大人しくなった。