introduction
肌寒い夜気に、旋律が流れた。
聞き惚れてしまうほど美しい、透き通るような女声。
声はとても優しいのに、凍てつくほど無慈悲な、悲しい調べ。
その歌声が世界を救った魔女のものだなんて、この時は知るはずもなくて、まだ幼い“彼女”は目を背けたい現状に戸惑っていた。
その静かな“鎮魂歌”を、呆然と聴きながら――。
空からは日が落ちて、幾ばくかの茜色だけを残して宵闇に染まっていた。
木々は風に揺れて擦れあい、さわさわと音を立てている。
その敷地にはジョギングコースや小さな公園があって、足場の整備された山道は、夜間に於いても人がよく通る。
しかし、その夜はいつもと違っていた。
人はおろか、自然に生息する生き物すら見当たらない。
まるで透明なバリアで遮られているように、誰もそこに立ち入ろうとはしない。
ただひとり、蹲る“少女”を除いては。
少女の上半身が大きく揺れる。
身を引き裂かんばかりの悲しみは、肉体にも変化をもたらしていた。
強烈な嘔吐感が、喉をせり上がってくる。
蒼白になった顔の口元に掌を宛がうと、必死に吐き気を堪えた。
あどけない白い繊手が血で濡れ、蒼海のような瞳からは、雫が頬を伝う。
夜空に浮かぶ満月は、ただ静かに淡い光を照らしていた。
吐き気が収まった少女は、地に手を当てて肩で息をついた。
ぱしゃんっ、という濡れた音に、うっすらと眼を開ける。
辺り一面に血だまりが出来ていた。
視界を埋め尽くす、紅――――。
「あ……」
零れた呼気が震える。
喉元で掠れて、それ以上の声は出てこなかった。
少女の血液にしては少女自身に外傷が全く無い。
少女以外の、何者かの血液が辺り一面に広がっていた事は、明白だった。
両腕を抱きしめながら、声にならない声で叫んでいると、ひときわ大きく、ぱしゃん、という音がした。
何者かが、血だまりを踏む。
その気配は水音を立てながら、少女の傍までやってきた。
「君が『ヘレナ』か?」
耳に心地良い低音――やや渋みのある男の声が、頭上から降り注ぐ。
『ヘレナ』と呼ばれた少女は、肯定の意思を示さずに、声を振り絞った。
「“あいつら”の仲間……?」
「生憎、そうではないな。君の父親の親友だ」
「親父の……」
「私は『パリアッチ』という者だ」
少女は、訝しげに男――パリアッチを見上げた。
月光を受けて輝く銀の長髪が、流れるように靡いている。
顔の方は逆光で見えにくい。
黒いロングコートに身を包んでいるからか、『死神』のイメージが脳裏を掠めた。
男が片膝をついて少女に目線を合わせて来ると、先程よりも鮮明に顔が見えた。すっきりとした鼻梁に、薄い唇。切れ長で藤色の双眸が、まっすぐにヘレナを見つめる。
一見すると優男のような整った美貌だった。
注目すべきは、その個性的なメイク。
左目を縦に両断するように、一筋のラインが引かれている。それは目元から顎にまで走り、“道化師の涙”を彷彿とさせた。
男が纏う雰囲気は、見た目の若さを裏切るほどの風格を帯びているように“見えた”。
――すべてに於いて、奇妙な青年。
ますます、ヘレナの警戒は強まった。
「構えないでくれ。これから、君の保護と管理を務めなくてはならん」
「何、それ」
「君の父親『ゼウス』の遺言だ」
“遺言”と聞いた途端に、ヘレナの胸に凄まじい痛みが走った。
この血だまりは、父親『ゼウス』が流した血液で作られたものだったからだ。
「……あんたが殺したんじゃないの?」
低く、唸る様にヘレナが呟いた。
男を殺しかねない程の気迫。
涼しげな顔は崩さずに片眉を上げると、パリアッチは肩を竦めてみせた。
「私なら、こんなヘマはしないさ」
そう言う彼は、ヘレナの目尻にたまった涙を指先で掬った。
「てめぇ……!」
反射的に手を払うヘレナに、わざとらしくため息を吐く。
「親友に手をかける程、私も堕ちてはおらん。それで、『ゼウス』は何処だ?」
「……消えた。抱えられた途端、まるで、煙みたいに。」
「煙?」
パリアッチは、眉根を寄せて少女を見詰めた。
煙、とは。
辺りに視線を巡らす。煙は見当たらなかった。
ただ、“花のような甘い香り”が、鼻を掠めるだけだ。
「まさか、本当に死んだというのか?」
疑問が、男の唇から洩れた。
一方、すっかり蒼白になったあどけない顔には、戸惑いの色が浮かぶ。
父親の安否は、ヘレナの眼から見て絶望的だった。
相当量の出血の上、死相が色濃く滲んでいた。
“今”動かなければ、必ず後悔する。
少女の小さな胸の内で、冷たい憎悪が膨れ上がっていく。
蒼海の瞳が、昏く揺らぐ。
「辛いだろうな」
思考を遮るかのように、男が声をかけた。
月並みな言葉は、今のヘレナには神経を逆撫でする言葉でしかなかった。突き刺さるような眼光を、男に向ける。
「あんたに、何がわかるんだよ」
「君は、かつての私だ。最愛の者を亡くしたショックで、見境なく人を殺しかねない。――違うかね?」
見透かされた――それ以上に。
男の口振りが殺戮者のように聞き取れてしまい、戦慄を覚えた。
ヘレナが怯えている事を気にもせず、パリアッチは彼女の肩を抱き寄せた。
夜気に冷え切った身体を案じたつもりだったが、彼女は腕を突っ張って、離れようとする。
「放して!」
血に汚れた小さな指先は、小刻みに震えていた。
一回り大きな手で包んでやれば、恐怖と怒りが伝わって来るようだった。
「放したら、君はどうする?人殺しにでもいくのか?黙認出来んな」
「あんたの許可なんて、いらない!!」
「復讐など、『ゼウス』が望んでいたと思うのか?」
「……っ」
彼の一声に、ヘレナの力が抜けた。
「今泣かなければ、後が辛いぞ」
その優しい声音に、少女は顔を歪めた。
まだ幼い声は弱々しく掠れている。
嗚咽を洩らすヘレナの瞳から、涙がこぼれ落ちて頬を濡らしていく。
月明かりの下で、二人は寄り添った。
辺りに響いていた鎮魂歌は、いつしか聞こえなくなっていた。