1-9 私に拒否権など無かった。
クレア様のにやりとした笑みを見て、私はがっくりと諦めるしかできなかった。
此処で拒否したら、私はすぐにメイドをクビ。
きっと、次の就職先を見付けるのは大変であろう。
「……分かりました。クレア様に協力致します。そうすれば、クレア様はヘンリー様に、私に関する色々な事を話さずに済むのでしょう?」
「無論だ。」
「先程は協力してくれればと仰っていたのに…。これは、協力という名の強制ですわ。」
「強制してはいない。選択肢はあった。」
ーーー悪魔。
私はつい恨みがましくクレア様を見てしまったが、クレア様は全く気にしていない。
「君は密偵にとても抵抗があるようだが、そんなに気を張らなくともよい。密偵と言っても、今まで通り、オーラル伯爵家で働いていれば出来ることだ。」
「それはどういう意味でしょうか…?」
てっきり、他の貴族の屋敷で働くのと思っていた。
先程ヘンリー様に探偵の仕事を頼まれた、という情報が頭によぎり、私はまさか、と呟く。
「その通りだ。オーラル伯爵家にいるであろうスパイを見つけ出してほしい。」
クレア様の言葉に、私は衝撃を受けた。
まさか、オーラル家にスパイがいるなんて…。私は今までそのスパイの人と一緒に働いていたのだ。
「ヘンリー様と、執事のローランドはこの事を知っている。詳しくはローランドから聞けば良いだろう。
スパイはメイドもしくはそれ以外の使用人の中にいるはずだ。人数はおそらく一人。二人の可能性もある。」
「私は…、何をすればいいのでしょうか。」
「情報を集めろ。そして、不審な動きをしている者がいないか監視をしてくれ。」
クレア様は、ソファーからすっと立ち上がり、私との距離が詰まった。
距離の近さに、私はもぞもぞと少し後ろに下がった。
「くれぐれもスパイが勘づくような接近は止めておくように。君に頼むのは、先程の二つのみだ。自ら、怪しい者に近付くような馬鹿な真似は絶対にしないように。」
「はい。」
私をじっと見ると満足したのか、またソファーへと戻る。
「情報の伝え方は、私が来たときに報告してもらう。紙に書かず、記憶で覚えてくれ。」
「…本当に、私に密偵を任せるのですね?」
「無論だ。」
不安な気持ちのまま、私は黙るしかなかった。
クレア様は、多分そんな私に気付いてはいただろうけど、何も言わなかった。
気持ちが落ち着かないまま、私はようやく帰りたいと思っていたオーラル家へと戻れた。
屋敷の前に、ちょうど執事のローランドがいたので、クレア様はローランドに何かを耳打ちした。
すると、ローランド様は私をチラリと見たので、きっと私の密偵の件であろう。
「それじゃあ、また伺う。」
「お待ちしております、クレア様。」
クレア様が颯爽と馬車へ戻り、去っていくのを私とローランドで見送った。
「アイ、少し説明したいことがあります。今宜しいですか?」
ローランドの言葉に私は少し迷った後、ごめんなさい、と言った。
「今日は本当に色々あって…。明日まで気持ちを整理しておきたいんです。すみません。」
「いえ、その方がいいでしょう。では、明日。」
その後は、レイティ奥様にブティックで買って頂いて子供用の服をお渡しした。奥様から優しくありがとう、と言って頂けた。周りのメイドからは冷やかしを受けたが、返事する元気が無かったので、少しぞんざいな受け答えをしてしまった。
そんな私を気遣ってくれたのか、今日はもう休んでいいと言ってもらえたので、有り難く私は部屋へと戻った。
部屋に戻って、私は自分がショックを受けていることに気がつく。
何故?睡眠薬を盛られたことがショックだったのだろうか?自分を知らない内に試されていたこと?それとも、私がこの世界の人間ではないことを再確認してしまったこと?
五年前、この世界にきたばかりの私は、生きるのに必至だった。
今日されたことなんか、ちっとも気にならないぐらい、毎日が大変だった。どうやったら生きていけるか。いつもギリギリのところをなんとか生きてきた。あの経験を比べれば、今日クレア様にされたことなんて、そんな酷い事でもない。
それでも、今はなんだかクレア様に対してショックがある。
それは、おそらく今のオーラル伯爵家の環境に慣れたから、なのかもしれない。
オーラル伯爵家にいる人々は皆、温かく優しい。ヘンリー様もレイティ様も、お優しい方。
私は此処に来てから、この世界に来てからずっと存在していた心の氷が溶けていったような思いがしたのを覚えている。
それが、今日クレア様から私は……。睡眠薬と、勝手に監視、調査。さらには、わざと困らせる行為を受けた。なにより、脅迫。私は脅迫を受けた。言うとおりにしなければ、此処にいられなくすると。
こうなってしまった原因は私の嘘。だから、嘘をついた私が悪かったけれど、それでもクレア様の行動は受け入れがたいと思ってしまう。
優しい人々と接していたから、心が少し平和ボケしていたのかもしれない。
心を落ち着かせると、不思議と密偵を行うことにあまり抵抗がなくなっていた。
これは、オーラル家のためになることなのだ。
ヘンリー様が探偵に依頼をするほどに、事態は良くないということなのだろう。
ならば、私に出来ることは、スパイを見つけ出すこと。
クレア様からは、情報を集めること、そして不審な動きをしている者がいないかを監視すること。
それだけを意識して、いつも通りに働けばいい。簡単なことだ。
今日はなんだか、珍しく弱気になってしまった。
明日から、頑張らなきゃ。
その日、私は早めに就寝をした。