七夕の不思議な笹
今日は7月7日、七夕だ。毎年この日になると俺の家では決まって笹を置く。もっとも、今となっては古い習慣として置いてあるだけで、誰かが短冊を飾ることも、きれいな飾りつけをすることもないのだが。
「浩介!笹片付けるの手伝って!」
「はーい!」
俺は勉強を切り上げると、白紙が半分ほど混ざった単語カードをポケットの中に入れ、階下へと降りる。俺の家では笹を出しては物置にしまう、ということを慣習として繰り返し続けていて、よく笹の配置と片付けの手伝いをさせられるのだ。
「ねー母さん、この笹出すのいつまで続けるの?」
「そうねえ、お婆ちゃん次第かしら」
母さんもそんな適当な返事をする。つまりはこの慣習を強制する人間がいなくなるまでは続けるということらしい。
「そうは言ったって毎年これを出したりしまったりするのは俺の役目じゃないか」
「嫌ならお婆ちゃんに言えば? 私は嫁いできた立場だからそんな権利もないし、あんたがお婆ちゃんを説得するしかないわね」
その返事に俺はため息をつく。俺の家は旧家であることもあって、様々な昔の風習をいまだに行っている。それが悪いことばかりであるとは言わないが、こういう形だけのものに関してはそろそろどうにかしてもらいたいのが本音だ。結局こういうことをやるのは全て跡継ぎの自分なのだから。
「それじゃ、その笹物置にしまってきてね」
「はいはい」
俺は諦めて笹を片付けに行くことにした。
「よいしょ……っと」
俺は担いできた笹をいつも笹が置いてあった場所に丁寧におろす。
「そういや、何でこの笹枯れないんだろうな」
よくよく考えてみると、うちの笹には大分不思議な点が目立つ。この笹はもう俺の婆ちゃんが生まれる前からあるので、かれこれ60年以上はこの家に置いてある。だが、いまだに枯れる気配がない。最初は人工的なものなのだろうと考えていたのだが、どうもそういう訳でもないらしい。明らかに普通の笹なのに、何年経っても青々と茂っている。それどころか、毎年見るたびに成長しているようにすら思えるくらいだ。
「……せっかくだから何かお願いでもしてみるか」
俺はポケットの中に入れておいた単語カードを取り出す。白紙の紙を1枚丁寧に外すと、逆のポケットからシャープペンシルを取り出した。
「そうだなあ……」
ここにしまってしまえばもう来年まで誰もこの笹を見ることはない。ならばせっかくだし、自分の欲望に忠実に書いてみるとしよう。
(織姫と彦星のような恋愛がしたい)
「こんなもんかな」
俺は単語カードの穴の部分を笹に通して縛り付けると、そのまま物置を出た。
次の日、
「浩介さん、起きてください」
俺は耳元で誰かがささやく声を聞き、それで目を覚ました。
「ん……」
腕を伸ばし、目を覚ます。
「あ、起きてくださいましたか」
「……ああ、って何だお前!」
俺はそこでようやく事の重大さに気づく。俺の布団に同い年くらいの萌木色の長い髪の毛を持つ少女が横になっていて、俺の布団の中で一緒に寝ていたのだ。彼女の髪には白い四角の髪留めがついていて、何かの文字が書かれていた。
「静かに。まだ朝には早い時間です。あまり大きな声を出すと皆さん起きてしまいますよ」
「……分かった」
確かに携帯を見たところ、まだ時刻は朝の5時だ。あまり騒ぐわけにもいかないだろう。
「で、お前は何なんだよ」
「私はナナって言います」
彼女はそう自己紹介をする。
「で、何でここに?」
「ほら、昨日浩介さんが笹に願いを書いてくださったじゃないですか。そのお願いを叶えるためにやってきたんですよ」
彼女はこともなげにそう言う。どうやら昨日の俺の行動が原因らしい。
「願いを叶えるったって、俺が書いたのは確か……」
俺は昨日何気なく書いた願いを思い出す。
「織姫と彦星のような恋愛がしたい、ですよ」
「……そうだったな」
何でこいつがここまで詳しく覚えているのかということにはもう触れないでおこう。そもそもここにいること自体に突っ込みを入れたいくらいだ。
「その願いを叶えるために、私はこうしてここにいるんです」
「それは分かったけど、具体的に何してくれるんだよ?」
俺はそう聞く。
「えっと、そうですね。デートなんかいかがでしょうか」
ナナはそう提案する。
「いや、悪いけど俺今日学校だからそれは……」
俺は残念そうにそう返す。今日は7月8日の水曜日。週で言えばど真ん中、普通の登校日だ。何がどうあってもずる休みするわけにはいかない。
「ああ、そう言えば昨日も平日でしたっけ。それじゃ、ちょっとだけ、あなたのために一肌脱がせていただきますね」
彼女がそう言うや否や、彼女の髪についていた短冊が光る。すると、周りが何かに包まれるようなそんな錯覚を覚えた。
「これで1時間だけ、周りの時間が止まりました。短い時間ですけど、あなたの彼女としてそばに置いてください」
彼女はそう言って頭を下げてくる。気付くと髪留めの文字は少しだけ薄くなっていた。
「ナナさんだっけ? あんた、何でそこまで……」
俺はなぜ彼女がそこまでしてくれるのか、その理由を問う。
「……数十年ぶりの願いですから。きちんと叶えないと、私の気が済まないんです」
「数十年?」
俺は聞き返すが、
「さ、そんな余計なことはいいですから。短い時間ですけど、浩介さんの好きなこと、いっぱいしていいですよ」
彼女は上目づかいでそう俺に言ってくる。よく見ると、このナナという少女はとても美しい。状況が状況だったからよく呑み込めてはいなかったが、この状況を楽しまないのは明らかに損だ。いろいろ考えるのは後でもいい。今はこの少女との時間を楽しむことにしよう。俺は目覚めてきた頭でそう考えると、
「それじゃ、一緒に散歩でもしないか?」
彼女にそう誘いをかけてみる。
「もちろん。それがあなたの望みなら」
彼女は優しい笑みを浮かべてそう返した。
「なあ、ナナさんはどこから来たんだ?」
外に出た俺は家のすぐ隣にある公園に着くと、彼女にそう聞く。本当に時間が止まっているのかが心配だったが、外に出てみるとごみ袋を持ったまま動かない男性がいたり、近づいても飛び立たないカラスがいたりしたので、ナナのいうことは本当だと考えて良さそうだ。
「私は……遠いところから、ですかね」
彼女は視線を虚空に漂わせながらそう言う。
「遠いところ?」
「はい。詳しくは言えませんけど、とにかく遠いところから」
「ふーん……」
大方外国から来たとかそんなことなのだろうと俺は納得する。髪の色も薄い緑色だし、まず日本人ではなさそうだったからだ。その割には日本語が流暢なのが気になるところだが、細かいことを気にするのはやめておこう。
「そういえば、浩介さんはなぜお願いを書いてくださったんですか?」
今度はナナが質問してきた。
「うーん、特に何か叶えてほしいって明確な願いがあった訳じゃなかったんだけど、ずっと笹が何も使われないのはもったいないなって思ってさ。それで、何となく思ってたことを書いてみたんだ」
「そうでしたか」
彼女は少しだけ微笑んだ。嬉しかったという風にとらえてもいいのだろうか。
「ところで、ナナさんのその髪飾りって結構変わってるよな」
俺はナナの髪飾りに手を触れようとする。だが、
「ダメです!」
彼女はそれまでの穏やかの口調から一変、鋭い口調で俺を制した。
「……すみません。これだけは触らないでいただけますか」
「大切なものなのか?」
「……はい。それはそれはとても大切なものなんです」
確かに肌身離さずつけているところを見ると、よほど大切なものなのだろう。だが、俺にはそれ以上に気になっていることがあった。
「その髪飾りの文字、大分薄くなっているように見えるんだけど気のせいか?」
彼女の髪飾りに書かれていた文字はすでに内容が判別できないほどに薄くなっていた。
「……そんなに薄くなっていましたか。浩介さん、今どのくらい私の短冊の文字は薄くなっていますか?」
彼女はそう聞いてくる。俺はしてきた腕時計で時間を確認する。
「えっと……、もうほとんど見えないな。すごく薄くなってる」
「そうですか……。大体あと数分くらいってところですかね」
彼女はため息をつく。どうやらもうあまり時間がないということらしい。
「本当はもう少しあなたと一緒に居たかったんですが、少し無理をし過ぎたみたいですね。そもそも今日は七夕でもないので本来の力の10分の1も出せてませんし、仕方ないのかもしれません」
「七夕? 本来の力?」
唐突に得た彼女からの情報をそのまま繰り返す。
「申し訳ありません。私が力不足なばかりに」
だが、彼女は俺の疑問には答えない。
「なあ、さっきからいったい何の話を……」
俺は彼女に向けてとにかく疑問をぶつけ続けるが、彼女が俺に向けてとった行動はシンプルなものだった。
「んっ」
俺の唇が彼女の唇によって塞がれる。いわゆるキスと言うやつだった。しかも俺にとって初めての。
「これに免じてこれ以上は何も聞かないでください。それに、もう私も姿を保ってはいられないようなので」
そう言った彼女の姿はもう既にほぼ見えなくなっていた。
「ナナさん!」
「あなたが私を忘れなければまた会えます。来年も、会えたらいいですね」
俺が叫んだ時にはすでに彼女の姿はなかった。だが、代わりに俺の隣にはあるものが残されていた。
「これは、ナナさんの……いや、違う」
だが、言いかけた俺は気付く。これはナナさんの髪飾りではないということに。
「これは、俺の単語カードだ」
どうして今まで気付かなかったのだろう。これは間違いなく俺が笹に括り付けた単語カードだった。
「確かめてみるか」
俺は急いで自宅に戻り、物置を確認してみることにした。
「ちょっと浩介、あんた学校は? っていうか今までどこに行ってたの?」
「ごめん。確かめたいことがあって」
俺は玄関に引っかかっている物置の鍵を慌てて引っ掴むと、外に出て物置まで走る。鍵を開け、昨日自分で置いた笹の前に着くと、確かに縛ったはずの単語カードはどこにもなくなっていた。そして、代わりに今までどんなことがあっても枯れなかった笹の葉が枯れ、地面に落ちてしまっていた。
「……浩介。お前、その笹に何か願い事を書いたんだね?」
「婆ちゃん……」
俺はいつの間にか後ろに立っていた婆ちゃんの声にそう反応する。
「その笹には不思議な力が宿っていてね、七夕の日に書いた願い事を叶えてくれるんだよ。もっとも、その笹に願い事を書いたのはお前以外だと死んだお前の爺ちゃんくらいのもんだがね」
婆ちゃんはそう言うと、笹の前まで歩いてくる。
「この笹が枯れるってことは、相当願いを書いてくれたことがうれしかったんだろうねえ。今までずっと飾られるだけで、何もつるしてもらえなかったんだ、それも無理のない話さ」
婆ちゃんは笹に手を触れるとそう言う。
「婆ちゃん、この笹はどうなるの?」
「心配することはない。また来年になったら葉をつけるよ。この笹はそういう笹なんだ」
何かを悟ったようにそう言う婆ちゃん。
「ありがとうよ、いつもみんなを見守ってくれて」
手を合わせた婆ちゃんに、俺も一緒に手を合わさずにはいられなかった。
そしてそれから1年の時が過ぎた。
「浩介! 笹出して!」
「はーい」
もう去年のように笹を取り出すことにめんどくささを感じることはない。俺は素直に物置に向かうと、鍵を開け中に入る。
「すごいな、本当にもう元に戻ってる」
俺は笹を見上げる。むしろ去年よりも青々と茂っているような、そんな印象を受けた。まるで1年俺が来ることを待っていたかのようにさえ見える。もっともそれは俺の思い過ごしなのかもしれないが。
「今年は単語カードじゃなくて、ちゃんと短冊つるすからな」
そう言った俺は笹を抱えて物置を出た。今年の願いはもう決まっている。
(ナナさんとまた会えますように)