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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第十話 私達とバレンタインとチョコレート
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10-20 私と新しい悪夢と自殺願望

彼が出て行ってしまってからへなへなとそこに座りこむ。

疲れた。

ほんっとに疲れた。

彼の言葉に驚いて仕事をして欲しいと思わず言ってしまった。

一人になるのは嫌だ。

不安になる。

けれどそれでも佐久間礼が居なくなるのはもっと嫌だ。


仕事を辞めたら彼の母親はきっと怒り狂う。

その矛先は全部礼に向くだろう。

私のせいで彼が傷つくのはもう見たくない。

そんなの絶対嫌だ。


ようは私が彼の側を離れなければいいんだ。

それならちっぽけなプライドも全部捨ててやる。


立ちあがり痛む体に鞭打って机の周りを信じられないくらい時間を掛けて片付けた。

それからソファに座りすっかり冷め切った珈琲を飲めば胃の中に久しぶりに食べ物が入ってきてきりきりと痛む。

こんな事では先が思いやられる。

マグカップを置いて横になり黒い借り物のコートを体に掛ける。

ずいぶん冷えていたようでウールのそれはすごく暖かかった。

眠ってしまっては駄目だと思う。

きっとまた嫌な夢を見る。

もっと酷くなっているかもしれない。


それでも疲れ切った体は欲望に対して物凄く正直で目を閉じてしまえばそのままゆっくりと意識が遠のいてしまった。



真っ暗だった。

冷たい水の中に私が一人縛り付けられていてその液体は私が溶けた物だ。

手足も体も感覚が無い。

ぽたりぽたりと上から栗の花の臭いのするそれが垂れてきて顔に掛かる。

顔なんて無いはずなのに相変わらず感覚だけはリアルだ。

もがいてそこから出たいのに壁からは手が無数に出ていてその一つが私を大事そうに抱きしめていた。

シルバーアクセサリーがたくさんついた指は明の物だ。

その手はお腹の前できちんと組まれていてそこに無い私を抱いている。

離してと言いたくても声が出ない。

出るのは黄色い腐った液体だけ。

垂れた液体が徐々に徐々に溜まっていき私の体を沈めていく。

鼻が曲がりそうな悪臭に何度も吐き気を催し口から戻せば出したそれも栗の花の臭いがする物だった。

体中それで出来ているかのように私の中から止め処無く溢れ溜まっていく。

ついに口までそれが水位があがり背伸びをするように顎を上げるも水かさは急に増してゴーっと音を立てて液体が流れ込み私の鼻までついに来て苦しくて苦しくて息が吸えなくて気持ち悪くて目が覚めた。


はぁはぁっと空気を求めて肺が勝手に動いて肩が上下する。

その衝撃で体が酷く痛む。

点けっぱなしの蛍光灯に目が眩み瞬きを繰り返す。

入れっぱなしのコンタクトがさらに張り付いて痛い。


「……っ」


涙が流れた。

手を動かして口を覆い嗚咽を堪える。

何だ今の夢は。

まるで今の私みたいだ。

胃がぐるるっと動いて気持ち悪くなる。


「……れ」


名前を呼びそうになった。

来るはずない彼、きっと仕事をしているだろう。

何かあったら呼んでくれと言われた携帯はそのまま机の上だ。

大きく息を鼻で吸って口で吐く。

息も臭い気がする。

体中腐ってる臭いがする気がする。


「い……」


名前の続きを口にすればちゃんと声は響いて私が生きている事を証明してくれる。

本当にそう生きているのかどうかはよく分からないけれど、多分、手がまだかすかに暖かいから生きているんだろう。

生きている価値なんてあるのかと思う。

こんな風に虐げられたくさんの人に迷惑を掛け親にも話せずに他人にお世話になってばかり。


「しにたい」」


思っていた事は口に出ていた。

だからそれですこし落ち着いた。


「はやく死にたい」


もう一度呟きうん、と一人で頷く。

手を退けてもう一度同じ事を言う。


「早く死にたい」


そう思っている私とそれでも自殺をする勇気がない私。

死のうと思えばここで死ねる。

さっき片付けて居た時にカッターだってあった。

屋上へ行けばなんとかフェンスを越えて落ちることだって出来る。


「早く死んで楽になりたい」


涙は止まった。

生は自分では選べない。

でも死は自分で選べる。

それの是非は別の問題として死を選ぶのは逃げだとしても楽になる方法のひとつだ。


それでも死なないのはきっと泣いてくれる人が居るからだろう。

両親も友達も、祐樹さんも由香里さんも。

礼も。


みんな泣いてくれると思う。

だから、まだ、私は大丈夫だ。


体をのろのろ起こせばさっきまで気持ち悪かったはずのそこはぐーっと小さく唸り思わず吹き出す。

現金な体に何も食べる物は無いよと呟きそれからオレンジ色になった空を膝を抱えて眺めた。


太陽が昇って沈んで星が出てそれが太陽と交替して。

一日一日がそうやって過ぎていって、その当たり前の事が今は少し嬉しくて。


夢はしょせんどんな夢でも夢にしか過ぎない。

悪夢だって明がそこに居るわけじゃない。

礼はもうこんな事はさせないと言ってくれた。

それを信じるよりほか、今は、それしか無い。

このコートの男の人がきっと明を捕まえてくれている。

何をしでかしたのか全部は分からないけれど彼の腕に残る注射の痕だけで充分だ。


「今日バレンタインだ。ケーキ焼くはずだったのに、どうしよう」


ぽつりと呟いてそれから携帯を取りに体を動かしまたソファに戻ってそれからロックを解除した。

その画面には私と由香里さんがおにぎりを持ってピースしている。

たったそれだけなのに胸が酷く痛んだ。

由香里さんの番号を探しきちんとフルネームで入ったそれに電話をする。


数コールで彼女は出てどこに居るのかと聞けば下のフロアにいるらしい。

他の皆はレンタカーに乗って出て行ってしまった、と。

礼も祐樹さんも居ないからこっちに来ればとの言葉にはいといつものように返事をしてコートを外して立ちあがる。


「すぐに行きますね。ちょっとご相談があって」

『いいわよ、ココアでも飲みましょう。祐樹の引き出しったら甘い物ばっかり』


いつもと変わらないように接してくれる彼女の言葉と態度にだいぶ救われて礼の携帯を握りしめたままその部屋を後にした。

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