2-1 俺と祐樹の出会い
年を取ると日にちが過ぎるのは早いものでもう大晦日だ。
喧嘩をしたのが嘘のように毎日を穏やかに平穏に過ごしている。
俺たちは今リビングの応接セットのテーブルだけ動かしてそこに彼女の部屋からこたつを持ってきて入りながらテレビを見ている。
ステレオは他の御宅に迷惑ですと注意されて控えめなボリュウムで音がテレビ本体から音が流れている。
見ているのは紅白だ。
どうしてもそこだけは譲れないという彼女の言葉に俺が折れた。
というか、何でも良かった。
大晦日にこうしてテレビを見るのは久しぶりだ。
家が特に親父が苦手だった俺は義務教育が終わると同時に大晦日は外へと出ていた。
大学からは友達と年越を飲み屋だったり家だったりで過ごした。
一年ぶりの電話でそれを断り恋人が出来たと告げると友人は絶句していた。
それからおめでとうと祝福してくれる。
「この歌は有線で聞きました」
と彼女が言う。
流行りのアイドルグループが歌うそれは確かに聞き覚えがある。
しかし彼女が働いていたコーヒーショップはジャズっぽい音楽が流れていただけだ。
「ふーん、どこで?」
掛け持ちしていたバイト先のコンビニだと言う。
何か苦労しているんだなぁとその横顔を見つめて思う。
「礼はバイトした事は無いんですか?」
不意に彼女が俺を見た。
多分アイドルグループにはあまり興味が無いんだろう。
ここ数日で礼と呼ばれないと返事をしないという戦法を取ったおかげで彼女の口から佐久間さんはすっかり消えた。
「いや、あるよ。大学の時に」
「へー、意外です。そんな事しないで勉強してそうなイメージが」
ふふっと笑って籠に盛られたみかんを一つとって剥き始める。
やっぱり大晦日はみかんですよと力説して日中に二人でデパートに行って箱買いしたそれはまだ玄関にたっぷりと残っていた。
「前から思ってたんだけど、俺にどんなイメージ持ってるの」
半ば呆れてそう返すと彼女は白い筋を丁寧に取りながら顔を上げる。
「優等生っていうか真面目っていうか。乱暴な口調も無いですし大人しいなぁとは思ってます」
えぇっと声を上げる。
そんな風に思われてるなんて逆にプレッシャーだ。
「そんな事無いよ。普通の男だと思うけど」
「でも優しいですよ、普通より」
それはね、君の事が好きだからだよ、と言ってしまいたくなる。
いやいや、大晦日の夜に、せっかくのんびりと二人で過ごしているのにその
空気を壊したくない。
「そんな事無いけどね。俺より祐樹の方がずっと優しいよ」
そうですか?とみかんをばらばらにして皮の上へと置く。
テレビを見ながら食べるにはそれが一番良いそうだ。
「そうだよ。あいつはね口は悪いけど誰にでも優しいんだ」
と言葉を続けると彼女はテレビから目を離して俺を見た。
何を待って見ているのかは分からないけど彼女が聞いてくれるなら、と俺は昔話を少しする事にした。
「お前が礼かよ」
目の前に突如現れた同じくらいの男の子が僕を見て言った。
その子は膝もすり傷だらけだし服には穴まで開いている。
家を囲う有刺鉄線を越えてきた勲章だろう。
「そうだけど」
存在感に圧倒されそう答えるとにかっと相手が笑う。
泥だらけの手をぐっと差し伸べられる。
うわ、汚い。
「そうか、俺、黒井祐樹。よろしくな」
へへっとまた笑う彼の手を取ってその黒井という名前に聞き覚えがあった。
たしかそれは父さんの秘書の一人の名前だ。
「うん、よろしく」
小さい頃から周りに合わせるよう教えられてきた僕は笑顔を浮かべる。
その顔をみて彼は怪訝な顔をした。
「何だよ、別に無理に笑わなくたっていいんだぞ」
不貞腐れたようなその顔に妙な安心感を感じて笑顔を消すと彼はぱっと手を離した。
嫌われたのかと落ち込みそうになる僕に彼が声を掛ける。
「遊ぼうぜ」
気にしていない風な言葉、先に走り出す彼に、僕は必死に着いていった。
幼稚園の頃の初めての出会いだ。
広い屋敷の片隅の僕に宛がわれた不相応な大きな部屋でこれまた大きな机に向かって宿題をやる。
やらないと父さんが怒る。
これが終われば家庭教師が来る。
ノックがされ返事を待つ前にドアが開いた。
「何だよ、礼、また勉強かよ」
うへーと自分の事でも無いのに祐樹が入ってきて彼の手にはすこし大きいゲーム機をピコピコやる。
ベッドに飛び乗りうつ伏せになる姿を見て溜息を吐いた。
あれから5年も経ったというのに彼は全く変わらない。
それ所か悪ガキへと変化した。
こうやって彼が気軽に尋ねてくるのは訳がある。
彼は両親と共にこの屋敷に使用人として住んでいるんだ。
それが分かったのはあの出会いの後、すぐで、父さんから紹介された。
「なーなー、そんな事しないで遊ぼうぜ」
ゲームに飽きたのかスイッチを切りごろごろとベッドの上を転がる。
「そういう訳にはいかないよ。先生も来るし」
一応軽めに断るとえーっと不満気な声。
だってそう決まってるんだから、さ。
「そんな将来いっくら社長になるからって、子供の頃からそんなんで良いのかよ」
俺ならごめんだねと彼がベッドから飛び降りた。
いや、待て。
靴のまま乗ってたのか。
「俺は将来、宇宙飛行士になるんだよ」
へへんっとえばる彼に肩を落とす。
それなら尚更僕より勉強した方が良いよと言うと俺は天才だから良いんだとの回答。
いや確かに天才的に理解力がある祐樹は勉強が出来る方だとは思うけれど。
「お前は?お前は本当に社長で良いの?」
動かない俺に業を煮やして一人で遊びに行こうとドアを開けた彼が振り返った。
そんなの聞かれても困る。
一人っ子で誰も後継者が居ない父さんの会社を継ぐのは僕の生まれた時から決まってる運命なのだから。
返答しないで居ると言うだけ言って気が済んだのか彼は部屋を出て行った。
遠くで彼の母親が彼を叱る声がする。
坊ちゃまの邪魔をしちゃいけないと言ったでしょう、と。
中学に上がると祐樹は帰ってこなくなった。
ドアが突然開く事も無くなり平穏な生活が戻る。
ますますスケジュールは家庭教師が3人もついて埋まっていき、学校の送り迎えは父さんの担当だった酒井がずっとしてくれてる。
「坊ちゃま、おかえりなさいませ」
そう声を掛けて車のドアを開けてくれる酒井が俺は好きだ。
父さんに何を言われたのかは知らないが優しくしてくれる。
「父さんは?」
顔を合わせたくないからと聞いてみると長期出張に今日から出掛けたとの事。
他の誰にも優しい父さんは俺にだけ厳しい。
小さい頃から殴られてばかりだったしそれを止める母さんにも罵声を浴びせる。
だから俺は父さんが大っきらいだった。
「祐樹は?」
酒井が困った顔をした。
黒井は相変わらず父さんについているけど、奥さんはとっくの昔に屋敷を出て行った。
離婚したらしい。
親権も養育権も放棄し、祐樹は黒井と共に屋敷に残った。
「申し訳ありません、存じません」
大して期待もしていなかったからふーんとだけ返す。
母さんの意向で小学校は公立だったが、中学からは私立に通っている。
祐樹とはそこで別れ別れになった。
「あいつ宇宙飛行士になるってさ言ってたんだよ」
不意に昔の事が頭を過り酒井に告げるとほうっと関心したような声。
「それなのに碌に学校も行かないで、どうするんだろうね」
子供の頃に夢見る事をしなかった俺には分からない。
それを追う気持ちも諦める気持ちも。
「祐樹様は坊ちゃまと似て聡明でいらっしゃいますから、宇宙飛行士は無理でもきっと素晴らしい職業に就かれましょう」
俺の友達というだけで酒井は祐樹を自分と同じ使用人の子として扱わずいつも客人に対するように話す。
それが俺にとっては当然だけど祐樹にとっては違ったらしく、一度怒っていたのを思い出した。
「確かにあいつは頭が良いからなぁ」
何度覚えようとしても無理な事をあっという間に覚えた姿を思い出す。
その時なぜか、祐樹が宇宙飛行士になれなかったら、俺の会社で働いて貰おうと思った。
「礼の事は好き。でも、やっぱり忙しいのは寂しい」
高校に上がる時に思いっきり反発したおかげで、また公立校へと通っている俺はモテる。
けれど相変わらずの部活すら出来ないスケジュールで、自ら告白してきた癖に女が次から次へと俺を振っていく。
意味が分からない。
それでも問題を起こすのはいけない事だと笑顔を作る。
「そう、ごめんね」
謝ると女はいいのと手を振ってその場を後にした。
良くないよ、全然と思いながら居なくなるのを待ってから歩き出す。
何人もの女が近づいてきて俺の名前と親父の金に胸をときめかす。
断っても側に居るだけで幸せだからと離れない。
けれど、放っておくと、ああやって離れていくんだ。
俺が悪いのは分かってる。
けれど、人間やっぱり期待をしてしまう。
どうにか遣り繰りして作った時間を費やしても、どんなにメールを返してもその溝は埋まらないようだ。
校門から少し離れた所で待つ酒井を見つけて手を上げる。
彼は変わらず俺に尽くしてくれて頭を下げて車のドアを開けた。
乗り込み鞄を置こうと床を見れば黒いボロボロのローファーが目に入る。
顔を上げるとそこには見知った、しかし懐かしい顔があった。
「おう」
手を上げるそれは成長し大きくなった祐樹だった。
「祐樹!」
笑顔が自然に零れる。
数年の時間がクロスワードを完成させる瞬間のように埋まっていく。
「お前何してたんだよ、学校行ってるのか?」
「おう、行ってるぞ。お前と違って底辺だけどな」
へへっと笑うその顔をよく見れば髪は明るすぎる茶色だった。
何で、と力が抜ける。
頭も悪くない祐樹なら狙おうと思えば俺と同じ所だって容易いはずだ。
「だって俺頑張るの嫌いだからな」
酒井が車を出す。
屋敷へとの道順だ。
「一緒に帰るのか?」
ふとそう告げると顔が一瞬曇った。
あぁ、うん、と答えが返ってくる。
ふーん、明日は雪でも降るかもしれないなと寒くなってきた秋空を思う。
「え?」
と、女中の中山に聞くと彼女はもう一度ゆっくりと俺に告げた。
「ですから、黒井が今朝方、急逝いたしました」
黒井ってそれってまさかと持っていた本を落とす。
彼女がそれを拾って付いても居ない埃を払ってから俺に渡した。
「な、なんで?」
事故でございます、と告げる彼女の目は真っ赤だ。
泣いていたんだろう。
「事故?」
「はい、旦那様に向かってきた車に身代わりになったそうです」
旦那様?それって親父の事だろう。
詳しく聞けば酔っ払い運転の車に親父が撥ねられそうなのを黒井が庇ったのだと言う。
昨夜の深夜に起きた出来事らしく今朝までは意識不明の重体だったらしい。
嘘だろ。
祐樹の父親が俺の父親のために死んだ?
酒井の車で一緒に帰ってきた祐樹を思い出す。
昔通りの笑顔。
でも一緒に帰るなんて今までに無かったのに。
俺は馬鹿だ。
何にも気付かなかった。