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私と彼の新しい生活  作者: 竹野きひめ
第六話 彼と私と変化
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6-6 彼と私と狂気

「礼?」


その名で呼ばないで、と願う。

口元を覆った手をきつく握り締めるようにして顔を締め付ける。

壊れた欠片を集めてもそこにあるのは後悔だけだ。


「どうしたの?どうして泣いているの?」


泣いていると言われて頬から手に流れたそれに初めて気付く。

涙なんかもうとっくに枯れ果てたはずだったのに。

彼女がそうっと俺を離してベッドの上に立ちあがり、手を伸ばしてそれを拭う。

冷たい指先、体がびくびくと震える。


「礼?泣かないで、大丈夫だから」


いつも自分がそうしていたようにそう言っていたように彼女が言って笑う。

穏やかな笑顔は今は狂気を増幅させる力しか持っていない。

そのまま俺を見つめていて不意に視線をマットレスへと落とした。

彼女が叩いていた辺りをじっと見つめてから顔を上げる。


「シーツ」


その単語に眉を潜めて口元を覆う手を外した。

吐き気はまだおさまっていなく、時折喉仏が勝手に動く。


「シーツ、汚いから、泣いてるの?」


何を言われたのか分からなくただ呆然と彼女を見つめる。

視線が絡まってからそっと外されてまたそのマットレスの上に敷いてあるシーツを見続けた。


「シーツ、汚いね。ごめんね。取れないの擦っても擦っても全然」


そう言われ視線をやれば細かく皺が寄ったそこには薄らと染みがついている。

俺がつけたのだろう。


「……シーツ?」


それが何だというのだろうと思い呟くように尋ねれば彼女はまた俺を見た。

不安そうな困った顔を浮かべて首を傾げてから小さな唇が動く。


「シーツ」


首を戻して頷く。

何が何だか分からなくて頭が混乱する。

シーツよりずっと涼の方が壊れているのだ。

それなのに彼女はシーツをずっと気にしている。


「洗おうか?」


そんなに気になるのならと告げると眉を顰めて不安そうに手を伸ばし俺の手を握り締めてくる。

それを無意識に握り返し冷たい手を暖めるように自分のそれで覆う。


「……洗うの?」


頷くとまた彼女が手を伸ばして俺の手を取った。

両手を繋いだ形になり両方で握り返す。


「そう、洗濯機で。洗剤一杯入れて洗おう」


彼女の体が小刻みにがたがたと震えて瞳が揺れる。

きょろきょろと小さく見回すように黒目があちらこちらを見た。


「……干すの?」


不安そうに呟くように誰にも聞こえないように声を潜めて呟く。

その顔にそっと顔を近づけて耳元に唇を寄せた。


「俺が、干すから。涼は見ていてくれれば良いから」


びくりと体が大きく震えて俺が顔を離すと何度も瞬きした。

それから瞳に力が宿って目を見開いて俺を見る。

小さくいやっと叫んでしっかり握り返している手を引き離そうともがく。

不安定なマットレスの上で動いたため足元のバランスを崩して後ろに倒れこんだ。

危ないと思うより前に体が動いてぐっと両手をひっぱり引き寄せる。

どさりとマットレスの上で横倒れになった体に引かれて俺の体もその上に倒れた。


「……佐久間さん?」


呟く声は不安を帯びているけれどぽつりぽつりと呟いていたさっきよりずっとしっかりしていた。


「……私、どうしてた?」


目を落とし鎖骨についた小さな赤紫の痣を見て表情が固まる。

体を起して動かない彼女の体を抱き起こして、力いっぱい抱きしめた。


「どうもしてない。どうもなってないよ、涼は何も変わってない。何も壊れてない。ごめんね」


背中をとんとんと叩くと彼女が嗚咽を上げて泣き始めた。

その声が耳に脳にどんどん張り付いていった。






笑わない泣いている彼が怖くて怖くて堪らなかった。

どうして泣いているんだろう。

どうして壊してくれないんだろう。

そうしたいのならして構わないのに。

不意にさっきまで何をしていたのだろうと思ってそうだシーツだと目を遣る。

そこは確かにまだ汚れていてうっすらと染みが見える。

視線を彼に戻して小さく呟く。


「シーツ」


口元が見えてすこしほっとする。

それでもその顔は歪んで見えて堪らず尋ねてしまった。


「シーツ、汚いね。ごめんね。取れないの擦っても擦っても全然」


彼がそれを見た。

見ないでと思わず叫びたくなる。

そんな汚い物目にしないで。

目にしたら貴方まで汚れてしまうから。


貴方まで?


彼が怖々とけれどはっきりとした口調で呟いた。


「シーツ?」


そう、と頷いてもう一度ぽつりと呟く。

ごめんなさい、汚くて。

汚いままのシーツと私で。


私?


そんな私に彼が一言言葉を漏らす。

心配そうな不安げな顔にこちらまで胸がドキドキしてくる。

そんな顔しないで。

貴方は笑っていて。

どこにも行かないで。

手を伸ばしその手を取って握ると力いっぱい握り返してきてくれて少し気持ちが落ち着いた。


「洗おうか?」


洗う?

何を?

どうして?

それは私の仕事ではないの?

それを奪われたら私は貴方に何が出来るの?


「……洗うの?」


聞き返せば大きく頷かれ消えかかった不安と生まれた焦りが私を包んでいく。

洗ったら消えてしまう。

壊れて汚れた部分が無くなってしまうと思って不安で不安で泣きそうになりながら彼の反対側の手を取った。

私が握り締めるより前に彼がそれを握り返してくれる。


「そう、洗濯機で。洗剤一杯れて洗おう」


彼が笑いかけてくれる。

安心させるようにただいつも通りに笑ってくれている。

それに私は答えられない。

何も言えなくてただ彼を見続けた。

洗っても染みは消えないかもしれない。

汚いままかもしれない。

汚い私には汚いシーツでも構わないのに。


汚い私?


体が何かを必死に拒絶するように震え出す。

自然にそれは起こって止まらなくて何かを思い出したくて思い出したくなくてただ辺りをきょろきょろと見回してしまう。

洗ったら干すんだ。

干せば太陽が綺麗にしてくれる。

良い匂いに変えて染みを消してくれる。

でもそれは日に焼けてしまう。

熱いし外は風が冷たい。

裸の私には耐えられない。


私が耐える必要があるの?


「干すの?」


声を潜めて聞いてしまった。

引っかかっている何かがもう少しで出そうで、でも出なくて。

彼の顔が首元に寄ってくる。

それを追う様に視線を下げて鎖骨についた赤紫の痣が目に入った。

これはなに?


「俺が干すから。涼は見ていてくれれば良いから」


涼って誰?

私?

そうか、私、笹川涼だった。

この人は佐久間礼。

恋人で大事な人で。

大事な人なのにこの人は私に。


何度か瞬きを繰り返せばスライドショーのように記憶がどんどんと溢れ出る。

映像ではなくそれは感触と音。


赤紫色の小さな痣から目を離して彼を見た。

どうして、手を繋いでいるのだろう。

怖い。

また痛いのは嫌だ。


「嫌っ」


ぐいぐいと手を引っ張り彼から逃れようとしても彼は離してくれなかった。

だから足踏みをするように腰から後ろに逃げようとした。

バランスを崩して背から壁に向かって倒れこむ。

痛いのは嫌だっと体を構えるも両手が引かれてそれを阻止してくれた。

マットレスに体が落ちて何度か跳ねた後に横向きに倒れる。

また鎖骨の辺りの痣が目に入った。


これは佐久間礼がつけたんだ。

そうはっきり思い出してそれを見たまま思わず名を呼んでしまった。


「佐久間さん?私、どうしてた?」


声が震える。

心の体の奥底から恐怖が蘇ってくる。

それを与えたのは彼なのに、私の上に倒れた彼は、私を抱き起こして体を力いっぱい抱きしめた。

体が痛い。

痣がずきずきする。

怖くて怖くて堪らないのにその腕が心地良くて仕方ない。


「どうもしてない。どうもなってないよ、涼は何も変わってない。何も壊れてない。ごめんね」


叫ぶように大声で言われて涙があふれて嗚咽を漏らした。

そんな私を守るように抱きしめて背中を優しくあやすように叩くのは私を傷つけた彼で、それでも彼を私は大好きで。

逃げられなくて、それでも怖くて、溢れる感情をどうする事も出来なかった。

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