17-5 中華料理 心の満腹
ようやく搭乗となったそれに乗り込みどっかりと狭い空間のそこに座る。
たった一週間前に来たばかりだと言うのにもう東京に帰るんだ。
そうしないといけない事情があるとは言え手放しに喜べはしない。
東京に帰るというのは日常に戻るという事を示している。
つまり俺はまた佐久間礼にならないといけない。
ここ南の方での暮らしは信じられないくらい穏やかだった。
行き当たりばったりに選んだ旅館は余計な事を詮索する者も居らず毎日寝て起きて飯を食い、温泉に入った。
死に場所を求めて来たつもりだったのに、この世に未練があったのかも知れない。
願わくばもう一度会いたいと思った。
会って許しを請うとかそういう訳じゃない。
遠くから見るだけでも良いからもう一度涼を見たかった。
泣いていないか、苦しんでいないか、辛くなっていないか。
それだけでも確かめたいとどこまでも身勝手な俺はそう思い、それが人生に終わりを告げると言う後ろ指差される行為を止めていた。
今の状況を考えればそれは正しかったのかも知れないと思う。
けれど同時に何て情けないのだろうとも思う。
覚悟をしていたはずなのに、それを易々と無かった事にし、言い訳があるからと、彼女に会うつもりで居る。
彼女を幸せにするという覚悟も、結婚する覚悟も、受け入れる覚悟も、全部自分で砕いてきた。
もう何も覚悟なんて出来ない。
戻ったら待っているのは彼女の居ない単調な日々。
雛子と結婚させられたら、他の女でも作って子供を産ませれば良いだろう。
そう思えば不快感から吐き気が起こり眉を寄せてから小さく息を吐いた。
俺にはその覚悟すら持てないで、居る。
けれど、俺にはひとつだけ覚悟が残っている。
涼を守る覚悟。
それだけは最後まで砕けずに残っていて、それだけが俺をこうさせていた。
ドリンクサービスで冷茶を貰ってから目を閉じた。
最後の自由なのだから、せめて、何も考えずに眠ろうと思う。
佐久間という地獄に笑顔で戻るまでは、せめて、ただの俺で居たかった。
「はふっ!!」
横浜の中華街の一角。
庶民的な値段設定のそこを私が選べば徹さんはいいねとだけ同意して中に入っていった。
当たり前なのだが中国風の店内を見回しながら奥の方の円卓に座る。
四人掛けのそこの一番奥はもちろん私だった。
彼は他の席を許さないというように見事なエスコートでそこに座らされる。
平日の昼間とあって大して混んでおらず時間制限無しの謳い文句にうきうきとラミネートされたメニューを見ている。
私と徹さん以外は何て言うかお通夜みたいだ。
居心地悪そうにしている安田さんと、泣きそうな田中さん。
好意的な態度を二人には取っているけれどそれは本心じゃない。
はっきり言えばそんなに好きではない。
どうでも良いし、関わって欲しくない。
けれど、こういう事態になって、出資者がそう言うなら従うしかないだろう。
兄に頼るという手もあるけれど、由香里さんとの約束をすっぽかした手前会いづらい。
彼女の事は今でも大好きだけに合わせる顔が無い。
「とりあえず翡翠餃子と海老蒸し餃子、あとは-……大根餅」
とそれから顔を上げて彼が頼んだそれをたった今食べた所だ。
あっつあつの海老蒸し餃子は猫舌にはちょっと無謀だった。
「ほら、これ飲んで」
と彼の分のドリンクの冷たいウーロン茶を渡されごくごくとそれを飲んでからはーっと息を吐き飲みほしたグラスと自分の物を交換する。
それに驚いたように目を開いて彼はそれを受け取った。
「気にしなくて良いのに。どうせドリンクだって飲み放題なんだから」
そう言われいえいえと首を振ってから大根餅に手を付ける。
私が頼んだ物の他にフカヒレ入り蒸し餃子やちまき、鶏肉と木耳のオイスター炒めが並んでいる。
そのどれも美味しくてついつい箸をどんどん伸ばす。
人間って空腹には勝てないんだと思う。
お通夜だった二人も何だかんだ言い箸を伸ばしては遠慮しながら食べている。
そこで気付いた。
私の右隣に座る人の箸は綺麗なままだ。
「……中華料理お嫌いですか?」
言ってからぱくりと冷ましたフカヒレ入り蒸し餃子を食べれば咀嚼しながら見つめる私を見て彼はくすくすと笑って首を振った。
「好きだよ。でもね、あんまり体型を変えたらいけないんだよ。だから食べれないの」
その言葉にこの人はモデルか何かなのだろうかと思う。
すごく綺麗な人だ。
あの人に何処となく似ている顔はやっぱり端正で整っている。
しいて違いを上げればあの人の方が目が少し大きいかも知れない。
でも彼はそれに負けない程透明感のある綺麗な白い肌を持っている。
中世的なその顔を覆うのはほんの少しだけ塗られたファンデーションだけでそれが人形のような中世的なイメージを醸し出している。
けれどどこを見ても太りすぎなんて事は無い。
ごくりと飲み込んでから首を傾げて聞いてみる。
「太ってるようにはお見受け出来ません。どうしてですか?」
お箸を持ったままの私の手がつまらないと言った風にかちかちと箸先を合わせるのを見て彼はまたくすくすと笑った。
何がそんなに可笑しいんだろう。
そういえばあの人もよく私と話していて笑っていた。
「ありがとう。たった二百グラムの変化でも目敏く見つける人が、ね。居るんだよ、俺の実家には。毎日体重計に乗って食べる量を決めているから、俺の事は気にしないでたくさんお食べ」
その言葉に今度は箸を止めて眉を寄せた。
なんだ、それ。
聞いた事ない。
減量中のボクサーじゃないんだし。
あとの二人は私達の会話を聞くようにぼんやりとこっちを見ている。
「……嫌です」
むっとして唇を尖らせて言い、箸を置く。
それから腕組みをして目を細めて告げる。
彼は私に驚いたように目を少し開いて見ていた。
「一緒に居る人が食べれないなら、私も食べません。楽しくない食事は嫌いです。一緒にテーブルに着いた人には出来れば同じように美味しいと思って貰いたいです」
ふんっと鼻息を吐きながら言えば彼は困った顔をして何も言わずに私を見つめていて、それが余計に嫌だった。
思えば私はこの人を何も知らない。
どんな仕事をしているのか、どこに住んでいるのか、どんな人生を歩んで来たのか。
どうして女の人が好きなのか、どうしてあの人と仲が良いのか、どうして私を呼び寄せたのか。
知らない事は罪だ。
ただそれだけの事で彼を傷つけたり喜ばせたり無意識にしてしまう。
ご飯の食べる量を調整しているという事実を知らなかったせいで私は彼に失礼な事を言ったのだ。
もう一度鼻息を吐き腕組みを解いて箸を取ってそれを伸ばし海老蒸し餃子を掴んでから自分の口ではなく隣に座る彼のそこへ持って行った。
「あーん」
そう笑ってから言えば彼は小さく首を振ってそれに応え、私は笑みを消して口を開く。
「あーんして下さい」
彼の唇にぺたぺたと何度かそれを当てれば彼は首だけ後ろにのけぞった。
そういうのが一番嫌だ。
だって私が望んでここにいるわけじゃないんだ。
それなのに彼は自ら何も話さず、私を喜ばせていると勘違いしている。
私の喜びはそんな薄っぺらいもんじゃない。
「ほら、早く。……私が不愉快になって帰っても良いんですね?」
全く口を開かない彼にそう脅迫する。
彼の恋人のせいで私はそうされたのだから私がする権利くらいあるだろう。
そう言えば彼は渋々口を開きその中に押し込んだ。
箸を自分の元へと戻してから次はどれにしようかと悩む。
皿に盛られた料理を見ながら彼の方を見ないで告げた。
「貴方には私を喜ばせ気持ちよく過ごさせる義務があります。私は好きで戻ってきたんじゃない。預かったと言うのならきちんと私が喜ぶ事をしてください。それが礼儀って物ですよね?それとも本当にただの誘拐犯なら今すぐ警察を呼んで貰いますよ?」
堂々と自分の意見を述べる小さな少女を見てへーっと思った。
もぐもぐと食べさせられた蒸し餃子を咀嚼してから飲み込む。
今日の分はもう食べたんだけど、ね、と朝のロールパン一個を思い出しながら苦笑いを浮かべる。
けれど内心は少し嬉しかった。
「あんまり食べたくないんだけど、そこまで言われたら仕方ない、ね。じゃあ少しだけ。だから警察は無しね。」
そう言いながら使っていない箸に手を伸ばしてから皿にそれを伸ばして翡翠色の餃子を取って口に運ぶ。
もう冷めているそれはすべらかな食感が口の中にくっつき噛めばもちもちと歯ごたえがあり中からはぷりぷりとした海老が口の中に溢れた。
美味しいと思う。
食べる事は嫌いだが食べ物は好きだ。
矛盾だらけだと思うけれど、そうなのだから仕方ない。
「美味しいですか?」
大根餅を俺の皿にそっと乗せながら涼さんが聞いて来てうんうんと頷けばぱぁっと明るい笑顔になった。
どきり、とする。
俺の事なんてどうでも良いはずなのにどうしてそんなに嬉しそうに幸せそうな顔をするんだろう。
「追加で何か頼みますねっ」
ふふっと笑ってから彼女がメニューを取り見ながら俺の反対に座る安田と話はじめ不思議な気持ちでそれを見た。
安田は彼女の恋人と寝たいわば天敵のような存在なのにまるで友達同士のように笑顔で話している。
彼女は輪に加わっていない美沙にもメニューを見せながら写真を指差している。
安田がそれを見守り美沙はすこし嬉しそうな顔をして緊張を緩めてから頷き何か言っている。
なんだって言うんだろう。
どうして彼女はあんなにもまるで『何も無かった』かのように振舞えるんだろうか。
俺や礼ならまだ分かる。
小さい頃からそうするのが当たり前だと教わってきた。
けれど彼女は違うだろう。
そうするのが当たり前だと教わったわけじゃない。
つまり、そうするのが彼女の『当たり前』なんだ。
当たり前?
そんな簡単な言葉で片付けられる事じゃない。
実家に逃げ帰る程傷ついたはずなのに、どうしてこうも『普通』なんだろう。
普通?
彼女の普通とは何なんだろうか。
周囲の人間に歩調を合わせ波風立てない事がそうだと言うのなら、きっと、彼女は天才だ。
俺と礼が秀才なら彼女は生まれ持っての天才だろう。
作られたのでは無く自然にそうする術を持って生まれたのだ。
だから、か?
だから礼の中にあっという間に入り込み、彼だけじゃ無く周囲の人間にも溶け込んでいる。
違う、溶かしているんだ。
彼女を中心に周囲を取り巻く環境が彼女に合わせて溶けている。
ごくりと喉を鳴らした。
それからポーカーフェイスを少しだけ崩した。
そう考えれば礼が彼女に惚れた理由がよく分かる。
佐久間という北風が凍らせた彼の心を笹川涼という彼女が溶かしたんだ。
彼女はごく自然にそれをやり遂げ、また、俺のそれもそうしようとしている。
本人が気付かぬうちにそうしている。
初めて彼女を怖いと思った。
礼とは違い、俺は彼女に恐怖を抱く。
美沙よりも彼女を好きになる事は絶対に許されない。
彼女を必要としているのは俺じゃない、礼だ。
礼には彼女が必要で、けれど、彼女には礼で無くても良いんだろう。
ぞくりと背筋が凍り目を閉じてしまえば隣から小さな心配する声。
「大丈夫ですか?具合悪いでも悪いんです?」
隙間にそれが入ってくる。
だから目を開けて首を振った。
ポーカーフェイスな笑顔を向けてから口を開く。
「大丈夫。何から食べようか」
そうやって当たり障りのない言葉で、彼女が入ってこれないように扉をそうやって閉めた。
俺は礼じゃない。
だから彼女を好きになっても礼にはなれない。
礼じゃない俺の事なんて彼女は好きにならないだろう。
だから傷つかないように心を閉じた。
竹野劇場みかん座
控室その1(本編とは関係ないですよ)
涼「……竹野さんってばっ!!」
……っ?!
え?何々。どうしたの?
涼「どうしたの、じゃないですよ。二回も連続でやらないおつもりですか?」
……。
涼「……もう、いいです。皆で飲茶食べに行きますから。竹野さんはお留守番です。散々書きながらシュウマイ食べてたでしょっ」
いや、そんな事ばらさないでください。
まるでシュウマイが美味しかったから中華料理にしたみたいじゃないですか。
涼「えっ、違うんですか?」
……いえ、違わないです、すみません。
涼「……」