17-3 擬似餌と生き餌
電話を切ってから笹川さんを見れば彼女は俯いたままカフェオレのカップを持っていた。
その姿を見てさっきと大違いだと思う。
「……黒井とは兄妹なんですか?」
単刀直入にそう尋ねれば彼女は顔を上げてから困ったように笑いそれ以上の反応は示さなかった。
つまり言いたくないという事だろう。
「すみません、調子に乗って立ち入った事を聞きました」
気まずくなりそう謝れば彼女が首を小さく横に振ってから大丈夫ですとだけ言う。
沈黙が流れる中、有線で掛かっている音楽と店内の小さな騒音だけが耳に聞こえる。
彼女はカフェオレを全部飲んでからそれを置いて顔を上げた。
「お土産買いに行きましょうか」
その言葉に首を傾げれば彼女はくすくす笑ってからまた口を開く。
「だってメールに安田さん書いてたじゃないですか。お土産待ってますって」
そう言われ冗談で書いた事を思い出してから手を振って告げる。
「いえ、あれは、言葉の綾でして。そんなつもりで言ったんじゃないんですよ」
慌てた私を見て彼女は笑うのを止めてから目を閉じた。
小さく溜息を吐くように息を吐いてから口を閉じる。
それを思わず怪訝な顔をしながら見つめる。
「それでも何か買わせてください。安田さんが居てくれて良かった。一人だったら新聞を見てパニックになっていたし、祐樹さんからの電話の途中で泣いていたかもしれません。安田さんがあの人が居ないと教えてくれたから祐樹さんとは冷静に話す事が出来ました。知らなかったら混乱してどうしたらいいのか分からなくなってました。それに安田さんなら私は我儘言えますし、祐樹さんか雛子さんかどちらが言い出したのか分かりませんが良い人選ですね」
相槌を打ちながら全部聞き、最後の所でえ?と眉を潜めた。
我儘を言われるのは仕方ないと思う。
けれどやっぱり一緒に帰らないと言われるのは困る。
どうやら私の役目は無事彼女を東京まで連れて帰る事だったようだ。
そう怪訝な顔をした私に彼女が首をまた小さく横に振ってから笑みを浮かべて口を開く。
「大丈夫です。ちゃんと御一緒に東京には帰ります。けれど」
そこまで聞いてほっとしてからまた不安が過る。
私を見て彼女は眉を下げてから口を開く。
まるで大した事ないんですけどね、と言いそうな雰囲気で。
「あの人には会いません。それが唯一の条件です」
彼女はまたにっこりと笑いその言葉にほっとして思わず誰にも許可を得ずに同意して頷けば彼女は満足そうに頷いてから立ち上がり伝票を持ってレジへと向かった。
荷物を持ち慌てておいかけ自分の分だけ払ってから一緒に外に出てお土産を選らんで、それから新幹線に乗った。
遠い東北の地の滞在時間はとても短くけれど充実していたと思う。
美沙が居なくなったそこで祐樹の報告を受けて一人テーブルに座ったまま大笑いをする。
冷めきった朝食はそのまま手を付けていない。
食物を摂取する事はあまり好きじゃない。
体重の変化は俺の母のストレスになる。
いつも綺麗な姿で居ないと駄目だと言うのが口癖の彼女は俺の生活すべてを監視したがり、こうやって離れている間に少しでも太れば愚痴愚痴と小言を聞かされる羽目になる。
携帯は思惑が順調に進んでいる事を知らせてくれていてひとしきり笑ってから素に戻り立ち上がりテーブルに携帯を置いてバスルームに向かった。
鏡を見ないようにしてガウンを脱ぎ熱いシャワーを浴びる。
自分でも驚くほど順調だ。
やっぱり美沙でなく安田明子を向かわせてよかったと思う。
美沙から聞いた話で彼女達が意外と打ち解けて居ると思っていた。
「……くっくっくっ……」
口の中にお湯が入るのも気にせず笑い続け軽く体を流してから蛇口をひねりそれを止めバスタオルで体を拭ってから全裸のままリビングルームへと戻る。
俺も礼も狂っている。
俺達は狂ったルールしか知らない。
二人が居るのは佐久間というゲームの中で、俺達はそのゲームの駒でしか無いんだ。
その狂ったゲームのルールは知らない間に俺達を狂わせている。
そのゲームが嫌でも、もがいてもがいて苦しんでいるだけで、そこから逃れる事は絶対に許されない。
駒がひとつでも欠ければゲームは出来ない。
だから俺は笹川涼をそのゲームに引き摺りこむ。
そうすれば美沙もゲームに引き摺りこませられる。
礼が気付けば、それをしまいともがくだろうが、今回ばかりは先手を打っている俺の方が圧倒的に有利だ。
携帯をまだ少し濡れて居る手で持ち上げロックを解除してからアドレス帳を開く。
顔はずっと笑ったままだ。
可笑しくて可笑しくて堪らない。
思うがままに俺の駒達は動いてくれている。
目的の人物を探り当てて顔を戻す。
それからまたそっとしとやかに緩やかに穏やかに目を細めて笑って声音を変える。
俺の大嫌いな雛子に俺のすべてを戻して相手が出るのを待った。
『雛子さん?どうかされたの?』
そう告げた大嫌いな声にそれを感じさせないように小さく声を漏らす。
会いたくてお話したくて堪らなかったという感情を乗せて。
「伯母様、突然申し訳ありません。大事なお話があってお電話しましたの」
しとやかに告げれば電話の向こうの礼の母親が小さく息を飲んでから静かに答える。
『まぁ、何かしら。良いお話よねぇ?』
媚を売るような語尾に苛立つ感情をぐっと抑えて演じ続ける。
それをごくごく自然に出来てしまうのが本当に嫌だ。
「いいえ。きっとお嘆きになられますわ。……礼が行方不明でしたの。でもようやく見つかりました。会社も休ませて頂いて両親にも何も告げずに一生懸命探しましたの」
そう残念そうに途中からは安心させるように告げれば電話の向こうでは何かが落下した音が響きそれに触れずに彼女は言う。
『……全く存じてませんわ。礼はどこに居ますの?ご一緒?』
相手に見えないのにその言葉に首を振ってからわざと聞こえるように溜息を漏らしてから口を開く。
「いいえ。これからこちらにいらっしゃって頂けると礼からご連絡頂きましたから、今日中にはお会い出来ますわ。……大切な話があると仰ってましたので、伯母様にもご連絡いたしました。こちらへいらっしゃって頂けますわよね?」
言い切ってから口元を厭らしく歪ませた。
大切な話があると言えば彼女も彼女の夫もきっと勘違いするだろう。
息子が一大決心をしたと思うはずだ。
黒い過去を持つ女と決別し自分達の言う通りにしたと思うはず。
俺の思惑はそれも外れてはいなかった。
『そう……。えぇ、伺います。またご連絡してちょうだいね?』
それに、分かりましたと返事をしてから電話を切ってそれを握りしめたままくつくつと笑う。
ベッドルームに足を向けドアを開けて薄暗い室内に入る。
俺も礼も佐久間の鳥籠から逃れられるわけがない。
最初から最後までそう決まっているんだ。
笹川涼の無事を確認したら彼はまた逃げ出そうとするだろう。
けれど彼は俺に勝てない、鳥籠から逃げれない。
大丈夫そんなに悪い話じゃないはずだ。
俺は何だかんだ言ってそれでも礼を愛している。
俺が普通だったらすんなりと彼と結婚し今頃子供を産んでいただろう。
だからこそ今回ばかりはどうしたって成功させる。
切り札は全部俺が持っている。
美沙の香りの残るベッドに潜り込んでから握りしめていた携帯を開いてまたロックを解除する。
ギャラリーと名前が付いたアイコンをタップしてそれを開けば、寝て居る美沙の携帯から転送したそれらが小さなサムネイルとなってずらりと並ぶ。
その適当な一つを画面いっぱいに表示させてからくすくすと笑った。
こっちを見る礼の大事な存在の酷い姿にすら今は興奮しそうで布団を体に掛けながら自分の体を抱き締めた。
どんなに非難されたって構わない。
どんなに泣かれたって構わない。
どんなに罵られても殴られても殺されそうになっても全然構わない。
このままじゃ誰も幸せになんてなれないんだから、それなら俺は自分から進んで悪役になるだけだ。
それでみんなが幸せになれるなら嫌われるだけの価値があると思っている。
静かに目を閉じてからすぅっと息を吐いた。
少し寝たら東京駅に行こう。
美沙が心配だからでは無く、餌を確かめに行く。
擬似餌では食いつかない猛禽類のように鋭く尖った怒りをぶつけてくる礼という鳥を捕まえるための生き餌を自分の目で確かめるんだ。
最初は生き餌だと気付かれないようにしないといけない。
段々と、そう、食虫植物のように彼女を捕えて手足をもぐ様に自由を無くしていけば良い。
上りにあたる新幹線は混んでいて指定席にして正解でしたねと顔を合わせて笑ってからシートに座る。
それから携帯を取り出して母にメールをした。
不自然に渡された三万円の意味は祐樹さんから帰ってこいと言われた時に分かった。
母は知っていたんだろう。
私が着替えに言った隙に兄に電話をした、それだけだ。
だから必要以上の事を話す事は無いと思う。
ただ東京に行くとだけメールをすればすぐに彼女から返事が来た。
気を付けて、落ち着いたら連絡してちょうだい。
それに返事を返すことはせずぱたんと折りたたんでから鞄へとしまう。
高校生の頃に使っていた合皮の白い鞄はそんなに大きくなく、けれど必要な物はきちんと入っている。
財布にハンカチ、ティッシュに手帳。
携帯の充電器まで入れてある。
嫌な予感はしていた。
安田さんが何も知らなかったのは意外だったけれど、誰かが動いているだろうと思った。
「あ、ワゴン来ましたよ。何か召し上がります?」
遠くから車輪が回る音と決まり文句を小さなけれど通る声で言いながら女性の添乗員が歩いてきていて考えるのを止めて顔をあげにっこりと笑う。
「そうですね、コーヒーにしましょうか」
彼女も良いですねと同意して二人分のコーヒーを受け取ってから私にひとつ渡してくれて前の座席の背面に付く折りたたみ式のテーブルを出してから受け取ってそこに置いた。
それから少し考えて鞄を膝の上にそっと置いてその中に手を突っ込んで携帯を探り当て電源を切った。
多分、東京に居る間は使う必要はないだろう。
私を雛子さんと祐樹さんが一人になんてしてくれるわけ無い。
母には兄から連絡して貰えばいいだけの話だ。
帰ってこいなんて嘘っぱちだ。
どうせ私に自由なんて与えて貰えない。
東京に着いたからさぁ好きな所へ行ってくださいと言われたら間違い無くそのままとんぼ返りする。
つまり私は拘束されに行く。
彼が彼女が何の目的であんな物を新聞に乗せたのか意図も分からないまま。
どうしてかと言われればきっとこう言うだろう。
それでも彼が好きだから、彼には佐久間礼で居て欲しいから。
だから、彼を彼が居るべき場所に戻すために私は生贄になるんだ。
安田さんが買ってくれたコーヒーはミルクがひとつでお砂糖もひとつだった。
少し溜息を吐いてからそれらを入れてプラスチックのマドラーでしつこい位にかき混ぜた。
竹野劇場みかん座(本編とは全く関係ありません)
舞台裏七幕目
涼「雛子さん何か企んでませんか?」
雛「うん、企んでる」
礼「そんなにはっきり言わなくても……。で、何考えてるの?」
雛「あぁ、それはね。実っ……もごもご」
だめでしょ、話したら。
後書きでネタばれしない……ごふぅっ!!
田「ちょっと!!あたしの徹に乱暴しないでっ!」
安「美沙っ、竹野さんに何してんの。駄目だって、殺されちゃうわよ」
いやそんな事しませんって。
明子姉さんは優しいなぁ……。
それなのにごめんね、一人だけ恋人も居なくて。
安「……。美沙、行け」
田「あいあいさーっ!!」
ちょ、ちょっと止めてっ、明子姉さんだけカップルじゃないのは事実だけど、だけどー、……あー!!!
礼「あっ……結局俺また出て無い……」