16-1 夜が開けて
行方知らずの恋人達
「おはよーっす」
早く出社しても誰かは居る。
俺達の部下は意外と真面目な奴が多い。
昨日は誰彼ともなく早く帰宅する奴が多くて誰も残業はしなかったらしい。
「おはようございます」
と、口々に挨拶され机に向かって座る方と反対側からそこを見て足を止めた。
見慣れない鍵がひとつぽつんと縦に置かれている。
あんなもんは昨日帰る時は無かったはずだ。
そのまま手を伸ばしそれを取ればずいぶん長い事置いてあったらしくひんやりと冷たかった。
それを持ったまま部屋の中央に振り返りかざして声を掛ける。
「これ何だか知ってる奴いるか?」
そう言えば皆手を止め顔を上げてから首を振った。
そうか、とそれに答えながら指先でつまんだままのそれを机に戻してから椅子の方へと回りどっかりと座った。
自宅の鍵はちゃんとある、倉庫の鍵もある、となれば俺の鍵では無いだろう。
じゃあ何だろうと置いたままのそれを俯いて見ながら眉を寄せ考えていれば始業のベルが鳴り、机の引き出しにしまってからノートパソコンを鞄から取り出した。
始業のベルが鳴る前に行くつもりだったのに、今日は寝坊してしまった。
私にしては珍しい事だと思う。
昨日は帰宅してから泣いてしまって眠れなかった。
明け方になりようやく目を閉じれば次に目を開いた時はもう家を出る時間だった。
慌てて支度をして、彼女からの預かり物を鞄に入れて飛び出した。
通勤電車の中でその赤い革の手帳を開いてから動揺した。
分刻みに書かれた社長のスケジュール。
忙しいとは思っていたけれどこんなにだったんだと溜息を吐いてからそれを鞄にちゃんとしまって最寄り駅に着けば小走りで来た。
おかげで自分の机に寄る間も無く、いつもよりひとつ上のフロアにそのまま向かった。
ガラスのドアを開ければやや騒がしい中が見えて息を整えてからまっすぐに歩く。
その先に一人だけ他とは違う並び方をしている机の主はノートパソコンに夢中で私に気づいていない。
「黒井」
そう声を掛ければ顔を上げてから目を開いた。
あまりここに来ない私に驚いたのだろう。
彼の事を私は呼び捨てにしている。
それはあまり多くない同期だからだ。
立場や職位は違っていても最初からそうで良いと彼が言った。
「安田じゃねぇか、珍しいな。どうした?」
にっと笑う子供っぽさが残るそれは社長とはまた違って魅力的だと思う。
社長がよく飼い慣らされた犬なら彼は野生の狼のようだ。
けれどそんな事は顔に少しも出さないで無表情のまま鞄からあれを取り出す。
それを見た彼の顔が強張り目を細めた。
「返して欲しいって頼まれたの」
そう差し出せば彼は唸るように声を潜めて言う。
「何でお前が持ってんだよ」
それに何て答えれば良いか分からなくなった。
どう説明すれば良いのか分からない。
他人のプライベートな出来事をぺらぺら話す訳にはいかない。
それが自分のせいでそうなったなら尚更話せない。
受け取って貰えないそれを机に置いてから口を開く。
「……頼まれたから、持ってるの。詳しい事情は社長に聞いて?私からはどっちにしろ言えないわ」
そう言ってから踵を返して足早に歩き出せば背後からは黒井の私を呼ぶ声が聞こえた。
怒ったようなその口調に小走りに走りだし自分の部屋へと向かった。
「おい!!安田っ!!」
そう呼んでも安田は止まらずむしろ走って逃げていってしまい、置かれたそれを睨むように見つめる。
もちろん見覚えがある。
俺が涼の就職祝いと称して渡したものだ。
それをどうして安田が持っているって言うんだ。
そんなに仲が良いなんて話は聞いてねぇ。
正体知れない鍵と言い、手帳と言い、今日は俺の机にそういう物が集まる日なのかと溜息を吐いてから電話に手を伸ばす。
これを涼が俺に返してきたって事は辞めるという事だろう。
彼女も持っている訳に行かなくてどういう訳だか安田に頼んだ。
それなら、とにかく事情を聞かないといけない。
彼女が電話に出るとは思えず、知ってそうな礼を捕まえる事にして内線を掛けるもコール音だけが鳴り響き彼は出なかった。
「っんだよ!!」
悪態を吐き受話器を叩きつけるように置いてから携帯を出し彼の携帯へ電話すれば落ち着いた女の声で電源が切れているか電波が……と告げてきて舌打ちをしてから涼に掛ける。
が、彼女もまた礼と同じ状態で目を丸く開いた。
さすがに異常事態だと思う。
それから立ち上がり誰にも何も告げずに早足で携帯だけを握りしめて階段へ向かい駆け上がった。
その先にある社長室のドアの磨りガラスは薄暗く誰も居ない事を示している。
一応とがちゃがちゃとノブを回すもやはり開かず、仕方なく自分のオフィスへと戻ってからガラスドアを乱暴に閉めた。
部屋の部下達がその音に驚いて顔を上げるも彼らを睨みつけて机に戻った。
何だってんだ、一体。
あの様子じゃ頑固な安田からは何も聞き出せそうにない。
今出来る事と言えばと考え椅子に座ってからメールを二人に一斉送信する。
もちろん内容は連絡を寄越せという短い物で、けれどそれの返事は夕方になっても返って来なかった。
自分の部屋へと行けば中は薄暗く美沙が来ていない事が分かり何とも言えない気持ちになってそこに入る。
居ようが居まいが仕事はしなくてはいけないのだからと椅子に座りパソコンを立ち上げた。
いつもより静かなそこで捗るはずの仕事はミスを連発して全く進まず、溜息を吐いてからモニターの下の時計を見れば始めてからもう一時間半が経っていた。
そうだ、と思い立ち携帯を出して美沙にメールをする。
休むなら一報入れなさいと送ればすぐに返事が返ってきて、それは美沙では無く彼女の恋人からだった。
それによればひどく落ち込んでいてあれからずっと泣いているから休ませましたとのことでそれにまた溜息を吐いた。
「一人でずるいわ。私だって休みたい」
小さく呟いてから首を横に振る。
それから、そんな甘い考えを持ったら駄目なんだと自分を奮い立たせる。
私は笹川さんと約束したんだ、社長を助ける為に会社に居る、と。
結局朝までネットカフェで過ごしてお会計をして外に出る。
東京駅から乗ろうかと思った新幹線は上野からにした。
五分違いのその時間でも寝ていたいと思ったからだ。
早朝の新幹線は空いていて自由席でも座る事が出来た。
大体二時間くらいは掛かるだろう、とお茶とお菓子も準備した。
携帯の電源は切ってある。
多分祐樹さんやもしかしたら礼から、下手したら由香里さんからも電話が掛かってくるかもしれない。
彼らに説得されたら、戻ってしまいそうだった。
けれど戻ってどうすれば良いって言うんだろう。
礼とはもう復縁する事は有り得ないだろう。
それに彼がどう思っているのかを知りたくない。
彼に会いたくない。
顔を見たくない。
見たら泣いてしまいそうだから。
泣いて縋ってしまいそうだ。
そう思えば涙がじんわりと浮かんできて慌てて前の座席の背面にあるポケットの中の冊子を見た。
これから行く地域の事や鉄道会社の事なんかが書かれていてひとつひとつ読めばしばらくは暇がつぶせそう。
けれど数ページめくった所で私は眠ってしまった。
昨日は久しぶりのネットカフェでの一夜に緊張したのか居心地が悪かったのか眠れなかった。
礼と寝る高級なベッドのマットレスはいつだって気持ちよかったし、布団も彼も暖かかった。
一人で眠る固い椅子は冷たく、寝心地は悪く、寂しかった。
電車のアナウンスで目が覚めればもう終点に近いらしく慌てて目を擦り冊子を戻して準備をする。
正直東北の気候に合った格好はしていない。
雪がまだ残っているのかもしれないのにパンプスだし、スカートだし、コートだし。
そんな格好でその地を歩くのは高校生以来だと思う。
冬は寒くていつもパンツを履いていた。
新幹線を降りればその寒さは直撃し身震いをしてからそそくさと改札へ向かうエスカレーターに乗り込んだ。
乗りながら母に電話をし、待ち合わせ場所を決めてから改札を出て、そうだと思い出してぱしゃりと写真を携帯で撮ってからメールに添付して安田さんに送る。
きっと東京から離れた駅名の映ったそれにひどく驚くだろうなとくすくすと笑いながら待ち合わせ場所近くの喫茶店を目指した。
母が来るのは一時間くらい後だろう。
携帯が唸ったような気がして鞄からそれを出せばメールがあると告げていて開いて驚いて息を飲んだ。
笹川さんからの件名も本文も無いそれに添付された写真は東北の県名と同じ名前の駅が映っている。
「……え?」
思わず呟いてから実家に帰ると言っていた事を思い出して、そこなのか、と思う。
記憶の中の社会科の勉強を思い出してからメールを返す事にして指先を動かす。
ただ普通に返しただけでは面白くないと思って散々迷ってからメールを完成させて送った。
笑ってくれなくても良い。
けれど、ちゃんとメールをくれた事が嬉しかった。
寒い所ですね。
風邪引かないようにして下さいね。
お土産待ってます。
またメール下さい。
そして次に繋げたかった。
嫌だろうけれど心配してるんだと分かって貰いたかった。
何も出来ない私でもそれくらいは出来るのだと、伝えたかった。
それから、また、会いたいと思った。
結局夕方になっても返事は来なく、その代わりに電話を寄越した人物に胸騒ぎがした。
『祐樹様でいらっしゃいますか』
その声を知っている。
子供の時は散々聞いたし、今でも会えば挨拶は必ずする。
「おう。酒井さんか。……礼来てねぇけど、どーした?」
そう所謂タメ口で話してしまうのは彼を自分が子供の頃から知っていて近所のおじさんのような感覚だからだ。
そう言えば彼は溜息を大きく吐いてから口を開く。
『失礼いたしました。そちらにいらっしゃるとばかり思っていまして。……どうもこちらにもいらっしゃらないようで御座います。朝からずっとお待ちしておりましたし、ご連絡も致しましたが礼様と連絡が取れませんので、祐樹様なら何かご存知かとご連絡した次第で御座います』
その遠慮がちに告げる言葉にえ?とだけ返してしまった。
礼は家にも居なくてここにも来てない?
決して真面目とは言い難いけれど休む時や遅刻する時は必ず俺に連絡してくる。
そう出来ない事情があるならそれで良いのだが、家にも居ないとなるとちょっと問題だ。
「マジか。いや、こっちにも朝から居ねぇ。……佐久間の屋敷には行ってねぇよな?」
そう聞けば電話の向こうの酒井さんは小さく唸ってからそれは無いと思われますと言う。
俺も同意見を持たざるを得ない。
礼と彼の両親はあまり仲が良く無い。
衝突する姿も見た事があるし、何より子供の頃から、彼と両親が仲睦まじく親子をしてる姿は見た事が無かった。
「だよなぁ……。うーん。悪いけど俺も分からねぇな。でも、まぁ探しては見るよ。酒井さんも大変だろうが、ちょっと心当たり探してくれ。後でまた連絡すっから」
そう言えば彼は畏まりましたと返事をして電話を切った。
正直言えば探す所なんて無い。
礼が何をどこでしているかそこまで詳しく無いし、仕事人間だった彼はいつも会社に居た。
残業を分け合うようになってからは早めに涼が待つ家に帰っていた。
つまり心当たりなんてどこにも無い。
「いや、参ったな」
そう言いながら残業をする部下に詫びを入れてから帰り支度をする。
コートを羽織った所でまた携帯が鳴り手に取って画面を見ればそれは由香里からだった。
何だろうと出れば彼女はひどく慌てた声で唐突に話を始める。
『祐樹?あのね、涼ちゃんと連絡とれないの。昨日は来てくれなかったって話したでしょ?今日は来るって言ってたのに……。ねぇ、そっちに涼ちゃん居るんでしょ?替って?』
そう言われて胸の鼓動が速くなった。
礼も涼も居ない、しかも誰とも連絡を取って居ない。
まるで風に吹かれて飛んでいったたんぽぽの綿毛のように姿を二人揃ってくらました。
「いや、今日は休んでる。体調が悪いって連絡あったんだ。伝えるの忘れてたわ、わりぃ」
そう一旦心を落ち着かせてから告げれば彼女は少し怒りながらもわかったと電話を切った。
身重の彼女にそれを告げるわけにはいかない。
俺の頭の中には一番最悪な事が浮かんでいた。
もしそうなら、そうなら、俺は大事な人を二人も失う事になる。
どうかそれだけは、早まった真似だけはしないで欲しいと目を閉じて携帯を握りしめて強く思った。
竹野劇場みかん座
※本編とは全く無関係な話です。
舞台裏第二幕
涼「今日、東京で雪が降りましたね。お正月に雪なんて東京では珍しい。九年ぶりらしいですよ」
礼「(湯のみを両手で抱えたまま)へー、そうなんだ。確かに寒かったよね。……というか、本当に俺出番なしなんだけど」
涼「そうですね……。私は次くらいまではあるみたいですよ。まぁ、それも竹野さんの気分次第ですね」
礼「(お茶をずずっと啜ってからふやけた顔をして)良いなぁ、涼は。それにしても涼の淹れるお茶はいつも本当においしいね。これどこの?」
涼「(じっと自分の湯のみをみたまま)そうですか?別にそんなに高くないですよ。スーパーで七百円の特売品でした」
礼「……え?!」
涼「えっ?」