15-12 それぞれの結果
泣き崩れてしまった笹川さんを見下ろすしか出来なかった。
体育座りをしてただ静かに泣いている背中に何も言えない。
それでもエレベーターは一階に着いてしまい、扉を開けたまま待つものの笹川さんは動かず二人分の荷物と彼女の靴を持ってからしゃがみこんで彼女の脇に手を入れて立たせ背中に手を当てて押し出すようにすればゆっくりだが歩いてくれた。
本来こうしているのは私じゃないはずだ。
私は彼女を傷つけて恋人と別れる原因となった女だ。
だから本当はこんな事したくない。
彼女に恩を売るような真似はしたくない。
落ち着いたらまたきっと申し訳なさそうに謝られてしまう。
会社の出口の自動ドアの前まで来て一度立ち止まってから彼女の前でしゃがんで靴を履かせ、また背中を押しながら外に出て、目の前の通りまで来れば俯いていた彼女が顔を上げた。
「すみません」
そう言われ物凄い勢いで首を振ればそれに涙を拭ってから少し笑ってから手を伸ばし、彼女の視線の先がコートと鞄にあったので素直にコートから渡し、着るのを待ってから鞄を渡す。
すると彼女は鞄の中から赤い手帳を出してやや見つめてから私に差し出した。
見つめているその瞳はまだ少し濡れている。
「これ……祐樹さんに渡して貰えませんか?それから結婚式には行けないと思うので申し訳ないです、落ち着いたら連絡します、と伝えて貰えませんか?」
それを受け取りながら首を傾げれば彼女は一言、社長のスケジュールですとだけ答える。
多分秘書になったばかりで買ったらしいそれはまだ傷も少なく綺麗で心が痛む。
眉を寄せてから口を開く。
「辞めるんですか?」
そう言えば彼女は意外そうに目を少し開いてから笑って口を開いた。
「はい。もう居られませんから。笹川は実家に帰ってお見合いでもしようと思います」
その言葉にもう一度首を振ってから受け取ったそれを握りしめて言う。
「辞めるのは私の方です。笹川さんが辞める必要なんてどこにも無いのにっ」
そう言えば彼女はちょっと寂しそうな顔をしてから首を振る。
それから小さく息を吐いた。
「もう居られませんよ。私は佐久間さんに拒絶されたんです。一緒になんてどうしたって居られない。でも安田さんは違う。安田さんを佐久間さんはまだ必要としているんだと思います」
そう言われ辞表を返された事もあり俯けば彼女がまた口を開いた。
どんな顔をしているのかは分からない。
「もうランチは一緒に出来なさそうなので、その分、佐久間さんの、礼の側に居て上げてください。仕事の面だけでも支えてあげてください。それからもう一度挑んでください。あんな風に大見栄切ったのに一緒に居られない私が言うのも何ですが、安田さんなら彼と一緒に居れると思います」
顔を上げて彼女を見ればその顔はさっぱりと笑っていて余計に胸がズキズキと痛んだ。
「でも、どうやったら付き合えるかについてのアドバイスはしません。さすがに笹川にもちっぽけなプライドがあります。そこはご自分で頑張ってくださいね」
くすくすと笑ってから言う彼女に何の反応も出来なく、けれど何か言わないとと口を開く。
「せめてっ」
そこまで告げてから口を閉じれば彼女は笑うのを止めて首を傾げて私を見つめてきて、どうせ断られるだろうと思いながら目を閉じたまま口を開く。
「笹川さんがどうしているのかだけでも、落ち着いたら連絡してくれませんかっ」
「良いですよ。ご連絡しますね」
間を置かずに言われて目を開ければ彼女は嬉しそうに笑っていて涙が浮かんで落ちた。
彼女は本当は私なんかと連絡なんて取りたくないはずなのに、笑って快諾してくれている。
私はこんな良い人を会社から追い出すような真似をしてしまったんだ。
泣き出した私に彼女がおろおろと戸惑っていてそれに首を振った。
「笹川はそろそろ行きますね。お世話になりました」
そう言ってから頭を下げ彼女は去っていってしまう。
引きとめる言葉も謝る言葉も言えなかった。
ただその後ろ姿に深く頭を下げてしばらくそのまま、彼女の姿が見えなくなってもそうしていた。
「美沙、みーさ。いつまで泣いてるの。いい加減面倒だから泣き止んでくれる?」
迎えに来た井村の車に美沙から先に乗せとりあえずいつものホテルに向かわせている車内で彼女は俺の反対側の席の端に座ってぐすぐすとまだ泣いている。
俺の言葉に一度顔を上げたもののまたわんわんと泣き出して頭を抱えるように片手を当てた。
これだから女って面倒なんだよ。
そう思いながら懐から携帯を取り出し平たい画面のそれを指先で操作して電話を掛ける。
女じゃないけど面倒な奴が一人居る。
彼の様子は美沙以上に気に掛っていた。
あれからだいぶ経っているのだから、どうにかなっているだろうと、そのどうにかを確かめるべくコール音を聞いていれば珍しく彼はそれに出ず、もう一度掛ける。
今度はワンコール目に彼が出たらしいが、何も声は聞こえなかった。
向こうは静からしく何の音も聞こえない。
「礼?」
もしもしは言う必要が無いだろうとそう呼べば美沙が体をびくりと震わせて俺の窓側の手に持ったそれを恐ろしい物を見るような目で見ている。
その目はまだ涙に濡れているが泣き声は止まった。
やりゃ出来んじゃねーかよ、と思いながら目を細めて睨むようにすればぼろぼろと声を出さずに泣き出し、携帯を隠すように壁に挟んでそれに凭れかかり面倒だから美沙からは視線を逸らした。
『雛子か』
そうぼそりと聞きづらいほど小さい声で言われ眉を寄せる。
画面も確認せず出たっていうのか、と驚いてから何を言おうか考え口を開いた。
「どうなった?涼さん捕まった?」
そう言えば彼はまた黙ってから大きく息を吐きそれから口を開いた。
『いや、別れたよ』
その電話越しの沈んだ小さな呟きに目を見開いて息を飲む。
どうしてそうなったのか分からない。
眉を寄せそれから何を言えば良いのか悩んだ。
どうして、とは聞けない。
「大丈夫か?」
そんなつまらない言葉しか出てこない自分の貧相な考えに反吐が出そうになる。
大丈夫なわけ、無い。
俺と礼は同じ佐久間の名でも全然立場が違う。
彼が背負っている物の半分も俺は背負って無い。
それを彼自身もよく分かっているし、それを自覚しているはずだ。
その背負っている物を考えれば涼さんの過去は障害になる。
それなのに彼は他の誰より彼女を幸せにしたいから結婚したいと思っているのだと告げたんだ。
生半可な気持ちで言ったわけじゃないのはそれを鑑みればよく分かる。
『大丈夫、雛子には迷惑を掛けたね。また結婚が遠のいてしまって、それも申し訳ないよ』
その言葉に怒りさえ覚えた。
何をこんな時に言っているんだろうと思う。
確かに彼が結婚してくれないとこちらは動けない。
あくまで許嫁だったけれど礼が結婚してしまったから他の人と結婚するというスタンスでなければ俺に自由は無い。
しかも性別的には俺の方がタイムリミットが早いのも分かる。
けれど、今このタイミングでそんな心配をされたくない。
「何言ってんだよ、そんな事どうでもいい。何でそうなったんだよ」
声を荒げてそう言えば彼は少し笑いながら返事を寄越した。
『どうでもよくは無いだろう。本当に悪いと思ってるよ。涼とは……そうだな、限界だったんだと思うよ』
膝に置いていた手を握りしめて目線を下に下げる。
限界だったというのは嘘だろう。
昨日、嬉しそうに話していたばかりだ。
他の誰かなら嘘を吐いていても、俺にはその手の話で嘘なんて吐かない。
「……そうか。本当に大丈夫か?そっち戻ってもいいぜ?」
けれど、俺のせいだと思う。
やっぱり涼さんが居ると分かった時点であの話をしなきゃよかった。
逃げるとは思っていた。
だけど礼が追いかけていくとばかり思っていたんだ。
『いや、本当に大丈夫だよ。雛子は?殴ってごめんね。大丈夫?』
そっと頬に手を当てれば腫れ始めてきているそこがずきずきと痛む。
それでも目を閉じて口元だけ笑ってから口を開いた。
「大丈夫だ。どうってこと無い。また連絡するよ」
『そう。それなら良いんだけど。……そうだね、また』
そう言って彼の電話は切れて無機質な音が単調に響くだけだった。
美沙を見れば泣き止んだまま心配そうにこっちを見ていて、自分だけ恋人と一緒に居る事に胸が痛んで仕方なく、その顔から視線を逸らした。
俺は後に礼の元に戻らなかった事を後悔する事になる。
雛子からの電話を切ってから手に持ったそれを見つめてぼーっとしていればそれに水滴が落ちた。
それが俺が流した涙だと気づくのに時間が掛かった。
涼に別れを告げてしまった、と思う。
本心で言ったのかと言われればきっとノーだ。
怒りやストレスに負けて口走ったというのは甘えた考えだろう。
でも、そうだと思う。
彼女が投げつけた札束の意味を知った時に後悔した。
私の汚い体の対価です、とそう言われて自分が彼女を一番に傷つけたと自覚する。
違う、分かっていてそれを告げたんだ。
そうすれば嫌ってくれるだろうと思ったから?
そうすれば確実に別れられるだろうと思ったから?
じゃあ、どうしてこんなに喪失感を感じているんだろう。
胸にぽっかりと大きな穴が開くと言うがそれどころじゃない。
心ごとどこかに忘れてきたみたいに、何も考えられない。
何も考えたくないのだと、思う。
事実を受け止めたく無いんだ、だから、泣いている事すら気付かない。
腰を下していたソファの背もたれから立ち上がり札束のままのそれらを拾って机に置き、それから金庫を開けた。
中にある通帳や印鑑、キャッシュカードだけとにかくポケットに突っ込んだ。
会社の書類をまとめて取り出し机に札束と一緒に置いてから金庫を閉めた。
机の上にあるメモ用紙にボールペンで一言ごめんと走り書きをしてその上に社員証と一緒に置いてからオフィスを出て鍵をきちんと掛ける。
ごめんの一言じゃ済まされないだろう。
後に残される者の負担を考えればそれは許される事じゃない。
けれど、祐樹も居る。
安田だってきっとこういう事態になれば残っていてくれるろう。
トップに立つのが佐久間じゃなくてはいけないならあの人に頼めば良い。
今は会長職で暇を持て余している親父を母が俺が居なくなったと知ればそこに戻すだろう。
俺一人居なくてもきっとこの会社はやっていける。
でも涼一人居なくなれば俺はやっていけないと思う。
ひとつ下のフロアに行ってぶちまけたカップラーメンの片づけをしてから祐樹の机に社長室の鍵をそっと置いた。
それがどこの鍵なのか彼は分からないかもしれない。
けれど、きっと気付いてくれるだろう。
エレベーターを呼び一階まで下りて一度も振り返らずにそこを出た。
行くところなんてもう無い。
家も会社も、酒井の車さえも、涼との思い出がある。
それのどれひとつとして触れたくなくてそのまま駅に向かった。
どこか遠くに行こう。
佐久間の名も煩わしい事も無い、どこか遠くに行って。
それから?
それから、それから……。
安田さんと別れてから駅まで行って化粧室で化粧を念入りに直した。
泣いた後の崩れたそれが綺麗になればいくらか気分を持ち直す事が出来る。
別れたんだ、と鏡に映る自分を見て思う。
佐久間礼がどうしてあんな事を言ったのか分からない。
私から別れを告げてもおかしくないのに、彼は自分からそう言った。
それが私の為なのか自分の為なのかすらもう分からない。
けれど事実は事実だ。
彼は私と別れたいと望みそれを言葉に出すという事で実行し、私はそれを受け入れた。
それだけだ。
もう何もかも後悔しても遅い。
カバのポーチの口を閉めて鞄にしまってからトイレを出る。
人が溢れるホームで電車を待ってからこれからどうしようかと思う。
どこかホテルに泊まるのも良いけれど出来れば一人で居たくない。
それならどこかで朝まで飲むかネカフェにでも行こう。
人が居ればそれでいい。
一人で居るのは嫌だ。
一人は怖い。
ひどい事を言われた記憶より幸せだった記憶の方がまだ大きい。
いつかは逆転するとしても今じゃない。
もう少し時間が掛かる。
私は佐久間礼を愛していたんだ。
今も愛している。
だからこそ受け止める時間が欲しい。
受け止めてきちんと噛み砕いて消化する時間が無いと何をどうして良いのか分からない。
それをしなかったらずっと宙ぶらりんのまま彼を愛し続ける事になってしまう。
思えば彼が私の生活のすべてだった。
一緒に居過ぎたんだ。
だから少しでも彼と距離を取りたい。
まだ来ない電車を待ちながら携帯を出しメールをする。
昨日あんな風に話したばかりなのに事実を告げればきっと彼女は驚くだろう。
だから明日、駅まで迎えに来てくれた彼女をどこかご飯でも誘ってすべてを話そうと思う。
誰かと共有したいんじゃない。
彼に話した事で気持ちが軽くなったんだ。
だから彼以上に大切な彼女にはちゃんと言わないといけない。
突然帰って心配を掛けるくらいなら事実を全部告げてから、それから、私を守って貰えるようにお願いをしないといけない。
もう甘えられる人は彼女達しか居ないんだ。
遠くへ、帰ろう。
礼の居ない、けれど世界で一番安全なあそこに帰ろう。
携帯が唸ってメールを見れば母は短い内容の返事を返してくれた。
『分かったわ。明日迎えに行くから着いたら電話してね』
小さく息を吐き突風を起こしながら入ってきて口をぽっかりと開ける冷たい金属の箱にそっと乗り込んだ。
第十五話 宙に浮くのは二人の気持ち 終
舞台裏。
新年らしく羽織り袴と振り袖の二人。
礼「次回より十六話とありましたが十五話のラストが消えてしまっていたので、訂正させて頂きます。申し訳ありませんでした」
涼「申し訳ありませんでした」
申し訳ありませんでした。
礼「ところで……どうしてこうなったの?」
涼「……うーん、ちょっとそれは難しいですね。笑うしか無いと思います。私もびっくりしました」
あ、いや、その……。
礼「……そう、だよね。竹野は何を考えて居るんだろう」
涼「よく分かりません。行き当たりばったりじゃないんだっ!と息巻いていますがそうとしか思えません」
それは違うって、本当に大まかな道筋は……ってそんな目で見ないで。
礼「まあそう言うなら良いけど、ね」
涼「ふふっ、まぁ大丈夫ですよ。十六話からも頑張りましょうね。別れてますけど」
礼「……ソウデスネ」
涼「……そんなにいじけなくても良いじゃないですか。ところで竹野さん、この後はどうなるんですか?」
頑張る、かぁ。
……この後は二人はあんまり出ませんよ。
雛子ちゃんと祐樹くんが活躍します。
あと明子姉さんと美沙ちんも。
涼・礼「?!主人公って……私達(俺達)じゃないの?!」