15-10 それぞれの行動
涼が立ち上がり俺の横を抜けて去っていくのを見ながらそのまま居れば雛子は不思議そうに首を傾げた。
「追わないの?」
そう言われて返答に困っていれば安田が恐る恐る口を開いて小声で雛子に何かを話しそれを受けて雛子の顔から笑みが消えた。
それから俺だけを見て口を開く。
「情けないね、礼。そんな男だと思わなかったよ。ひどく失望した」
その言葉に眉を寄せ睨みつければ彼女はそれを何ともないように受け流して大きな溜息をわざと吐いてからにやりと笑う。
「失望?お前に何が分かるんだよ、俺の真似しかしてない癖に。その気持ち悪い話し方を止めろ。虫唾が走るっ」
吐き捨てるように声を低くして言えば彼女はくつくつと笑い出してから口を開く。
泣いている田中なんてどうでもいいような口振りで。
「あぁ、そう。分かんねぇよ、何にも。追わないなら俺が行く。涼、可愛いもんね?美沙なんてもう要らないからこっちの佐久間の子はあの子に産んでもらうよ、いいだろ?追わないって事はお前は要らないって意思表示をしてんだからな」
そう言いながら彼女立ち上がる。
田中は雛子の口調に驚いたように顔を上げたが美沙は要らないの言葉にまた突っ伏して泣いていた。
俺は雛子のそんな言葉が許せなかった。
同じように立ち上がり雛子の行く手に出る。
「俺だって追いたいに決まってるだろ?!そう出来ない事情があるんだよ、こっちには!!」
そう言えば彼女は俺を見上げながら睨んで口を開いた。
「情けないな、礼。いつからお前そんな腑抜けになったんだよ?そんなに女に捨てられんのが怖えーなら、もっとちゃんと捕まえておけよ、アホ」
そう吐き捨ててから表情をさっと変えて柔らかくしとやかに笑ってから口を小さく開いて目を細めて告げる。
「雛子だったら、あんな風にショックを受けたら、声を掛けてくれた方に心が落ちてしまいますわ。……礼にだってそれくらいお分かりになるでしょう?女なんて意外と脆いのよ。それでいて狡賢くいつも男性に甘えたいと心の底から願ってますの」
ふふっと笑っていう久しぶりに見た雛子に目を見開いてから奥歯を噛みしめる。
言われなくてもそれくらい分かっている。
けれど涼が横を抜ける時に迷ったんだ。
そうして欲しくないのでは無いかと迷った。
だから動けなかった。
どうしても昼間の考えが頭から離れない。
「ですから、涼さんは私に下さいな。……お前と一緒に居るよりずっと幸せにしてやるから、俺に寄越せ。どうせお前じゃ老人どもから守れねぇよ」
浄瑠璃か何かのようにコロコロと変わる雛子の態度に思わず胸倉を掴んで少し持ち上げた。
小さく悲鳴を上げたのは安田で彼女はどうしたらいいのかずっと俺達を見ていた。
「それ以上余計な事を言うな。お前はどんなに望んだって、俺にはなれないんだよ、雛子。たかが分家の分際で、本家の俺に口出すなよ?」
目を細めて言えば彼女は鼻で笑ってから小さく呟いてくる。
同じように目を細め馬鹿にしたようにそっと。
「何だ、結局、佐久間の名がねぇと、何も、出来ねぇんだな?お坊ちゃまっ」
頭に血が昇って気がついた時には雛子を殴っていた。
殴ってしまった左手がズキズキと痛み、けれど、吹っ飛んだ雛子に一瞥もせずそのまま店を出た。
焚きつけられたからではない。
そんなに欲しいならくれてやると思った。
だから、その前に、もうはっきりと涼に別れを告げようと決心した。
もうたくさんだ。
もう疲れた。
何もかも信じられない。
築き上げた会社の部下からそんな風な事をする奴が二人も出たのも、あんな風に雛子が言うのも、守ろうと思っていた涼が自分から過去を話すのも、もうたくさんだ。
もうどうでもいい。
明日から会社にも行かずにどこか遠くに行く。
そこで一からただの佐久間礼になってやり直したい。
もう佐久間グループの本家の御曹司も、本当に愛した大事な人も、大切な部下も、親友も、何もかも。
俺には、もう、必要無い。
「いってぇ……」
殴られた衝撃で隣のテーブルまで倒した俺が起き上がれば店員が慌てて駆け寄ってきて警察を呼ぶか聞いてきて首を振った。
「ごめんなさいね。ちょっとした内輪揉めで。もう出ますから」
雛子になってやんわりとそう言えば店員は不審な顔をしてそれでも去っていき他の店員と話している。
起き上がった俺に駆け寄ったのは美沙では無く明子さんで起き上がるのを助けてくれた。
「悪いね。悪いついでに一個頼まれてくれる?」
心配そうに見つめる彼女にそう穏やかに言えば小さく頷いた。
涼さんが置いていった荷物に目を向けてから口を開けば彼女も同じように見た。
「礼があんな風になるのは結構やばい時なんだよ。だからあれ持って追っかけてくれる?ちょっとむきになって言いすぎちゃったからさ」
そう告げれば分かりましたと返事をして自分の荷物と涼さんの荷物を持って頭を下げて出ていく。
なるほど、確かに長く礼と働いてるだけあって状況判断に優れている。
それから立ち上がりすこしふらつく体で美沙の腕をそっと取る。
突っ伏していた彼女が引かれたそのまま顔を上げて俺の顔を見てまた涙が浮かぶ。
「出るよ、美沙。俺の荷物持って。財布入ってるから払っておいて。お釣りは差し上げてね」
そう言えばぐすぐす言いながら立ち上がり二人分の荷物を抱えて先に歩き出しその後を追った。
口の中は不快な程鉄臭い味がしていて眉を寄せながらレジに立つ美沙の横をすり抜けて外に出る。
外は思いのほか涼しくて風が頬に当たればずきずきと痛んだ。
どんなに男のようにしていたって腕力やら筋力やらは本物には敵わない。
体は女のままなのだから。
地面に血が混じった唾をお行儀悪く吐き捨ててから情けなく呟く。
「あーあ、父さんに何て言えばいいんだよ、礼のアホ」
言い終わるちょうどその時に店のドアが開き美沙は俺に背中に抱きついてきた。
そのままえぐえぐと泣き続けそれが終わるのをじっと待ってから空を見上げて彼女に告げる。
どうして泣いているかなんてすぐに分かる。
自分が悪い事をしていた自覚と俺の要らないという言葉だろう。
「それでも俺は美沙が好きだよ。俺の子供を産んでくれるのは美沙だけだろ?」
そう言えば一度止まった涙がまた溢れたらしくまたしがみついて泣いていた。
礼が涼さんを想うように俺は美沙を想っていた。
けれど、今の礼はそうじゃないかもしれない。
さっきの彼は彼らしく無かった。
大事な女を追いかけず、俺の言葉に誘われて暴力を振るうなんて佐久間礼じゃない。
と言う事はよっぽど思いつめるような何かが昨日別れた後にあったんだろう。
「……あーあ、何だかなぁ。美沙がみんなを連れてくるからややこしい事になったんだよ」
そう言えばまたわんわんと泣きだし、いい加減その態勢も疲れたからとそれを振り切って歩き出せば、後ろから泣きながら美沙が着いてきた。
肩で息をしながら社屋を見上げ何も持っていないのに社員証だけは首から下げたままだったのに気付く。
慌てて出たからこれを外し忘れていたんだと、誰も残業していないらしい真っ暗なそこに入る事にする。
当然自動ドアは開かないから社員証を使って開ける。
ロビーは明かりが点いたままだから誰かに見つからないように足早にエレベーターへ向かった。
最上階のボタンを押してそこに辿りつき、それから気付いた。
鍵が、無い。
ドアノブをがちゃがちゃ回してもそれはやっぱり開かず、へなへなとそこに座りこんだ。
鞄を取りにあの店に戻るのだけはしたくない。
ここに来れば金庫にお金があるからそれでどうにかしようと思ったのだ。
なのに、その金庫の鍵すら私は今持っていない。
それに気付かないくらい動転していたんだ、と涙が零れた。
なんでこんな事になってるんだろう。
コートも無く、お金も、携帯も無かったらどうしろって言うんだ。
定期だってもちろん無い。
それに礼は迎えには来てくれないだろう。
そういう風に約束したんだから彼はきっとそれを忠実に守るはずだ。
はぁっと溜息を吐いて体育座りをする。
外に出るよりはここに居た方が風は当たらない。
それならもう今日はここで一夜を過ごしてしまうしかないだろう。
明日になれば礼はまたここに来るだろうから、笑って自分のドジを話せばいい。
鞄やコートは誰かが預かってくれる。
それが誰でも明日には戻ってくるだろう。
窮屈なパンプスを脱いでそこら辺に転がして足をグーパーグーパーする。
そうすればそれだけで気分が少し良くなった。
それから抱えた膝に額を付けて目を閉じるとどうしたってさっきの話が頭に浮かんで眉を寄せた。
何か他の事を考えようと思えばお腹が空いている事に気づき、今食べたい物を頭の中でリストアップしていく。
画像とともに浮かぶそれに空腹は増していくけれどそれでもさっきの事よりはずっと良い。
というか本当にお腹が空いているのだ。
まず最初に浮かんだのは小腹を満たしてくれるものだった。
肉まん、あんまん、ピザまん、カレーまん、カレーライス、カレーうどん、カレードリア、グラタン、クリームシチュー、ビーフシチュー、ハヤシライス、オムライス、ハンバーガー、チーズバーガー、てりやきバーガー、てりやき丼、うな丼、かつ丼、天丼、天ぷら蕎麦、たぬきうどん、きつねうどん……きつねうどん?
連想ゲームのようにそこまで考えて頭をふっと上げる。
頭によぎったきつねうどんはお蕎麦屋さんのそれじゃなくて、カップ麺の方のそれだった。
チープな出汁の味がする平たい面と薄いお揚げを思い出した所であっ、と呟き立ち上がる。
それからにんまりと笑ってからパンプスも履かずに一目散に階段を目指し跳ねるように飛ぶように下りて、一つ下のフロアに向かった。
鍵の掛っていないそこへ入り電気を点けて忍び足で一番奥の机に向かう。
いそいそとその机の一番下の引き出しを開けばそこにはやっぱりそれが鎮座していた。
「あったー!!」
声を上げそれを取り出す。
それは残念ながらきつねうどんじゃ無かった。
醤油ラーメンと書かれたカップ麺を取り出してそこでくるくる回ってからポットのお湯を沸かすために部屋の反対側へと向かった。