15-8 それぞれが思う事
ドアを開けて中に入ればそこに居るのは笹川さんだけだった。
私を見て弾かれたように顔を上げる彼女の目元は腫れていてあれからも泣いていた事が分かり思わず俯く。
「あ、あの。すみませんでした」
がたがたと音が立ち足音が響いて顔を上げれば彼女は私の数歩前に立って頭を下げていた。
その小さな肩が震えていて美沙じゃないけど思わず抱きしめたくなった。
「良いのよ、当然だもの」
そう小さく告げれば彼女が顔を上げて心配そうに私の左頬を見つめてから口を開く。
どうしてひどい事をした私にそんな顔が出来るんだろう。
「でも……。本当にすみません。痛くはないですか?冷やしますか?」
そう彼女が不安げに言いそれに首を振った。
痛くないと言えば嘘になるけれど気にするほどじゃなくなっている。
「大丈夫、トイレで冷やしてきたから。私の方こそ、本当にごめんなさい。謝って済む問題じゃないけれど、もう二度と、本当に貴方にも社長にも嫌な事をしたりしないわ。それだけはどうか信じて欲しい」
そう頭を下げれば彼女は間を置いてから小さく呟く。
「大丈夫です。信じてますから。さっきは……感情が抑えられなくなっちゃって、あんな事するつもりはなかったのに。ただ、彼と一緒の空間に居れなくなっちゃったから逃げてきただけだったんです」
彼女が言い終わる前に顔を上げればその表情は少し切なく歪んでいた。
どうして数日前まで敵だった女にそんな顔を出来るんだろう。
私がそれに対して口を開こうとすればドアが勢いよく開いて私に直撃する。
あまりの痛みに振り返って睨めばそこには美沙がコートと鞄を持って立っていた。
社長室を出て上手く誤魔化せただろうかと目を見開く。
雛子から聞いたって何の話なんだろう。
あたしは何も聞いていないし知らない。
むしろこれから話すっていうのに。
とにかく一刻も早くこの場所から離れたくて走って階段に向かって行き駆け下りた。
自分の部屋に着く頃には肩で息をしていて、さすがに運動していないと体力が落ちるなぁと思いとぼとぼ部屋に近づけば中から話し声がした。
電話ってことはなさそうだし、とよく見れば磨りガラスには人影がふたつ重なって見える。
多分明子と笹川さんだろうと察しが付き、少し迷ってからドアを勢いよく開ける事にした。
その結果、荷物を持ったまま、お説教をくらっている。
「だからね、いつも言ってるでしょう?!私じゃなかったらどうするのっ!!」
数日ぶりの明子の怒鳴り声は脳天を直撃した。
まぁまぁ、と間に入ろうとした笹川さんにまで彼女は怒鳴る。
「ちょっと黙ってて下さいっ」
そうぴしゃりと言われ固まった彼女を見て困ったねーという顔を浮かべればそれがまた火に油だったらしく明子は怒鳴る。
「ちゃんと聞いてるのっ?!」
目がまた一段と釣り上った彼女に思わずぶんぶんと何度も首を縦に振れば部屋の奥からあたしの携帯が鳴る。
そのメロディは徹からの物で思わず彼女に叫んだ。
「た、タイムっ!!」
その言葉に彼女がすぅっと息を吸った瞬間、彼女の後ろから大声で笹川さんが言う。
「タイムを認めますっ!!」
明子の表情が狐につままれたように驚いて止まりその隙に部屋の奥に逃亡する。
というかいつの間にここはサッカー試合の競技場になったんだと込み上げる笑いを必死に堪えて携帯を鞄から探せば背後から笹川さんが焦ったように言っている声が聞こえる。
「だめですっ、レッドカードですよ!!」
その言葉についに笑いは決壊しあはははっと大声で笑いながら電話に出ればあたしのそれに驚いた彼は言葉を一瞬失ってから口を開く。
『何だか楽しそうだけど、どうしたの?仕事は終わった?』
柔らかく優しいその声に笑いながら合間にうんうんと答えれば彼は一言、そう、と言いあたしが笑い止むのを待ってからまた口を開いた。
『落ち着いた?そっちには十七時四十分くらいには着くから、ね。いつもの所で待っていてくれる?』
そう言われ大丈夫と答えてからあっ、と小さく声を上げて言葉を続ける。
「今回の当事者を二人連れて行きたいけどいいよね?」
そう反論されても連れて行きますという態度で聞けば彼は小さな溜息を漏らしてから返事を返す。
『だめって言っても連れてくるんでしょ?構わないよ、俺はね』
俺は?と思ったけれど分かったとだけ答えて電話を切り、時計を見てから二人を見れば明子が笹川さんにあーだのこーだの講釈していた。
声を掛けずに聞いてみるとどうやら審判の仕草について話しているみたいだ。
「だから、こうよ。こう。こうカードを顔の横に持ってきて掲げるの」
明子がそうやって見せれば小柄な笹川さんがそれを真似して見上げながらこうですか?なんてやっている。
その笹川さんの手に明子の手が掛って角度がなんて言っていてまた吹き出した。
「なにそれ、楽しそう。あたしも混ぜて」
笹川さんの荷物を椅子に置いて走り寄ればさっきまで怒っていたのが嘘のように明子はにこにこ笑いがら審判のポーズをやってるの何て言う。
「ちょっと美沙は妨害する選手やってよ」
そう言われてなんて無茶ぶりだと思いながらえーいと明子の後ろに回り込んで両手を振りかざせばすかさず笹川さんがカードを掲げる真似をして笑顔で告げる。
「ピピーっ!!レッドカード!退場してくださいっ」
それに三人で思わず笑い出した。
笹川さんってすごい。
我慢してるだけじゃなくて相手にいつも気を遣って場を和ませているんだ。
だからきっと佐久間礼は彼女を好きになってしまったんだと思う。
気を遣わずに自分が楽しめる相手を見つけて、彼女にもそうなって欲しいときっと願っているんだ。
散々笑ってからタイムタイムなんて田中さんが言うからまた吹き出してしまった。
なんかすごく楽しい。
こういうのって久しぶりだ。
いつも礼に捨てられる事に怯えて小さくなっていた気がする。
「うっくっく……ちょ、ちょっと待って。そろそろ行かないとまずいんじゃないの?」
お腹を抱えたまま笑いながら安田さんが言って三人で時計を見た。
わーっと声を上げたのは田中さん。
それに二人で驚いて顔を見合わせれば、彼女だけがあわあわと支度を始めた。
「やばいってっ!!あと五分しかないじゃんっ」
その言葉にえぇ?!と私達も急いで支度をして部屋を飛び出す。
呼んだエレベーターは貸し切り状態できゃあきゃあわいわい言いながら乗り込み田中さんが一階を押したあと閉じるのボタンを連打していてまた吹き出した。
エレベーターが動き出してほっとしている彼女に声を掛ける。
「なんとか間に合いそうですね」
部屋を出ながら待ち合わせ場所を聞けばすぐ近くで一階まで行ったらまたダッシュする事になっている。
大好きな恋人と会うのにそんなドタバタで良いのかと思いながら彼女らしいと思った。
「うんっ。でも遅れても多分大丈夫すごく優しい人だから」
と言う田中さんの顔はきらきら輝いていてきっとすごく幸せな恋愛をしているんだと思う。
そう思って由香里さんとの約束を思い出して慌てて携帯を取り出した。
二人がそれを不思議そうに見つめる中電話を掛ければすぐに由香里さんが出てくれる。
しかし無情にもエレベーターが一階に着いてしまった飛び出した二人を追いかけながら話をする羽目になった。
「ご、ごめんなさっい。今日、行けなくっなっちゃっ……って。あ、すみませんっ」
謝ったのは由香里さんではなくぶつかってしまった通行人で頭を何度も下げながら走り抜ければ電話の向こうでは怪訝そうな声が聞こえる。
『どうしたの?』
そう言われて泣き腫らして目が腫れてますとは言えず言葉を濁して伝える。
「お、お友達っのっ、彼氏さんと会う事にっなっちゃってぇっ、きゃっ、あ、それでその、本当にごめんなさい。あしったは行けますから」
きゃっと叫んだのは転びそうになったからでなんとか持ちこたえて走り続ければその人が居た。
思わずびっくりして電話を切ってしまってそれを持った手を力なく下げた。
人目を避けるような裏通りのガードレールに座っているその人がそうなのか最初分からなかった。
それは安田さんもそうだったらしく後ろに立っている私をちょっと見てからまたその人に目を向けた。
一人だけ嬉しそうにその人の側に行って満面の笑みを浮かべる田中さんだけが浮いて見えた。
その人はガードレールから長い脚を下してこっちに歩いてきてから仰々しく腕を前で横に折って頭を下げた。
それはけれどとても綺麗な立ち振る舞いで見惚れてしまった。
顔を上げ腕を下したその人が優しい柔らかく少し低くした声で私達に告げる。
「初めまして、美沙の恋人の徹です」
その笑顔をどこかで見たような気がした。
徹さんは仕草は男なのにどうみても顔も体も女で、あまりにびっくりして何も言えずに居れば田中さんが困ったように笑ってから徹さんの腕に自分の腕を絡ませて反対側の手でピースをしてから口を開く。
「騙すつもりはなかったんだけど、あたしの恋人はそういう事なんですっ」
照れくさそうに言うその顔はそれでも幸せそうで釣られるように笑えば徹さんが私達が来た方では無い方へ腕時計を見てから歩き出す。
数歩歩いてから一度振り返ってから穏やかに微笑んで私達にちゃんと声を掛けた。
「おいで」
その言葉にどきりとして誘われるように安田さんの手を取ってそのまま引っ張るように徹さんについていった。
「さて、と」
仕事を切り上げて時計を見ればそろそろ出ないとという時間になっていた。
雛子からはまだ連絡は来ていないけれど来てから降りたんだと待たせる事になる。
虫の居所が悪ければ悪態を吐くにきまってるその相手をわざわざ怒らせる理由は無く身支度を終えて部屋の明かりを消した。
決して短くは無い時間を二つしたのフロアで過ごした涼は彼女たちと何を話したんだろうと薄暗い部屋の衝立を見つめたまま思いそれからドアを閉めて鍵を掛けた。
エレベーターを呼び祐樹達のフロアには寄らずに一階まで下りれば携帯が鳴る。
ロビーを歩きながらそれに出れば騒音と一緒に雛子の声が聞こえてきた。
『もしもし?礼?俺だけど。駅の裏手のアンティークっていう喫茶店に居るから』
そう言われ聞いたこともないその店に驚いて分からないよと伝えれば彼女は声を低くして言う。
『スマホあるんだろ?探して来いよ』
やや口調が柔らかいのは多分周りに誰かいるからだろう。
小さく息を吐いて分かったと告げる。
もう社屋は出たからあとはその店を探すだけだ。
時刻は約束の時間まであと十五分。
携帯のブラウザを立ち上げ最寄駅の名前とアンティークと入れればなんとかそこには辿りつけそうで画面の地図と周りの景色を見比べてから歩き出した。