15-7 それぞれの一日の終わり
笹川涼の事は知っていた。
彼女が好んでそうして居ない事も知っている。
明はそれを楽しそうに話してくれていたし、当時のあたしはそれを楽しく聞いていた。
けれど、今は過去の二人に虫唾が走る。
目の前に居たらボッコボコにぶん殴ってると思う。
一度突っ伏した物のあまりの剣幕に顔を上げれば笹川涼は明子を掴んで揺すったまま苦しそうに泣いていた。
いつも大人しくあたし達を脅す時だって見せなかったような感情の現れの強さに驚いて立ち上がっても彼女も明子も気付かなかった。
悲痛な叫び声が一際大きくなってから小さく呟くように彼女が言う。
「礼は……関係、ないのにぃ……。ただ、私を好きにっ……なってくれただけっ……」
その言葉に涙が出そうになった。
どれだけ彼女が佐久間礼を愛しているのかそれだけでよく分かってしまった。
だから体は勝手に動いて椅子を蹴り飛ばし崩れ落ちる彼女に合わせるように後ろから抱きしめた。
ずっと誰かを責めたくて仕方無かったんだ。
今回の件だけじゃなく自分の過去の事だって誰かを責めたくて仕方無くて、でも誰も責められず、一人でずっと我慢していたんだ。
そう思って彼女の背中に顔を埋めてしまう。
こんな事しかあたしには出来ない。
彼女の手があたしの腕に掛って子供のように大声で泣き始めてからその背中から明子に向けて叫ぶ。
「出て行って!!」
そう言えば彼女が小さく息を飲んだ。
それだけで動かない彼女にもう一度叫ぶ。
こんな笹川涼を彼女に見せたくなかった。
「早く出て行って!!あんたは加害者だろうっ!!!」
そう叫べば彼女は少しだけ間を置いてから立ち上がり駆け足で部屋から去っていく。
その間中、そこに誰も居ないように笹川涼は泣き続けていた。
自分の涙に嗚咽に咽て咳をしてまた落ち着けば泣いていた。
明子に加害者と言ったけれど、本当はあたしが一番の加害者だ。
それはよく分かっている。
けれど今それを言えなかった。
あたしのちっぽけな頭じゃこの状況を打開する秘策なんて思いつかなかったし、それを告げたら彼女はひとりぼっちになってしまう。
ずっと泣き止まない彼女から腕をそっと離せば彼女もまた自分の手を離して両手で顔を覆った。
そっと前にずれて頭に手を伸ばしかけて止めた。
これはあたしのやるべき事じゃない。
これは佐久間礼がやるべき事だ。
でも、今の彼女はきっとそれを望んでいない。
「大丈夫……じゃ、ないよね。何かして欲しい事ある?」
そう恐る恐る声を掛ければ泣いている声が小さくなりそれから彼女は首を横に振った。
それを見てやっぱり彼女は笹川涼なんだと思う。
こんな時でさえ無関係だと思っているあたしに気を使う。
「じゃあ、とりあえず顔上げてよ。もう明子は居ないから。あたししか居ないから」
ね?と言えば彼女は手を外しまたくしゃりと顔を歪めてぼろぼろ涙を落した。
こんなに小さくて細くて強がっている女の人があんな目に遭ってたなんて、どうして楽しいなんて思えたんだろう。
写真という媒体は人の本当の姿を映し出さない。
だからこそ明子も勘違いをしたんだ。
彼女の頬を伝う涙を手の平で拭ってあげながら立ち上がり机の引き出しから今朝買ったばかりのチョコレートを出す。
「甘いものでも食べよ?そしたら気分落ち着くから」
箱を開けて一粒取り出し彼女の口元に近づければ素直にその小さな口が開いてあたしの指ごと食べられた。
慌てて引き抜いてからにっこり笑ってみせれば彼女も口の中で丸い形をしているそれを転がしてから小さく笑ってくれる。
「美味しい?」
そう尋ねれば一度だけ首を縦に振ってから涙を流さずくすんとしゃくり上げた。
時計をちらっと見ればもう終業まで十五分を切っている。
この顔で社長の所に帰すのは忍びなかった。
どうしたって心配されまた彼女は何も告げずに我慢するだろう。
うーんと小さく唸ってから口を開く。
まずは彼女の意志を確認しないといけない。
「上、戻れる?」
そう簡単に聞けば彼女の顔が歪んでいきまた目に涙が浮かんでしまって慌ててもう一粒を口に入れてやる。
今度は指は食べられずに済んだ。
「あたしのカレシの所に行かない?今日会う予定で居るんだけど、悪い人じゃないから、きっと、笹川さんの話も聞いてくれるよ」
そう告げたのは徹の事で、彼女はしばらく目を伏せて考え込んでから小さく頷いてくれてそれで、あたしもちゃんと話そうと思った。
一人では言えなくても徹が居てくれればちゃんと話せそうな気がする。
その場に明子が居ても二人でもう一度ちゃんと謝る機会を徹がさりげなく作ってくれそうな気がした。
「よかった。あたしが上に荷物取りにいくね。……あ、明子も一緒に来るんだけど、あたしが守ってあげるから、大丈夫だよっ」
加害者なのだから守るもへったくれもないのに、そう言ってしまって心がずきずき痛んだ。
それなのに彼女は嬉しそうに屈託のない笑顔を向けてきてそれから少し恥ずかしそうにあたしが持っているチョコレートを指して口を開く。
「ありがとうございます。……もう一個下さい」
そう言われて全部上げるよと箱を押しつけてから部屋を出た。
出てから階段へ向かいながら今だけでも彼女の味方が出来る事を嬉しく思い、反面、すぐにそれは彼女への償いだと分かってしまう事が怖かった。
階段を上りながら社長に何て言おうか考えていればすぐにそこに辿りついてしまった。
部屋を追い出されて駆け込んだのは女子トイレでまずは鏡を見た。
あの小さな体だからと左頬に当てていた手を離してみれば、やっぱり大して腫れてはいなかった。
むしろ頬の痛みより心の痛みの方がずっと強い。
彼女に言われるまではぼんやりとしか自覚していなかったそれはもうはっきりとした事実となって私の記憶に植えつけられた。
私を利用して、自分の価値を利用して。
私の価値とはどれを指すんだろう。
労務でありながら総務までなんでもこなす事なのか、それとも社長を一途に想い続けていた事なのか。
彼女の言う言葉は何一つ間違っていない。
あのランチの時も彼女は嘘をひとつも吐いて居なかったのだろう。
だから社長を佐久間礼を私が傷つけた事に対して怒っていたんだ。
鏡を見ていても何も変わらなくて個室へと入って扉を閉めた。
下着を下さないままそこに腰かけて溜息を吐く。
膝に肘を乗せて両手首に額を乗せる。
フェアじゃないのはどっちの方だ。
彼女はフェアに戦おうとしていたのにフライングスタートをしたのは私じゃないか。
彼女が自分の事を汚いと言うなら私はもっと汚い。
肉体的にそうなのではなく心が汚すぎる。
もっともっと責め立ててくれたって良かったのだと思う。
拳で何度も殴られても良かったのだと思う。
それなのに彼女は自分が殴ったと気付いた時に慌てて飛び退いた。
そんな風に相手をいつも気遣う彼女に対してどうしてあんな事をしていたんだろう。
今ならよく分かる。
彼の相手は貴方じゃ務まらないと思いますと言われた言葉が。
七年一緒に居ても一度も本心を私達に見せない佐久間礼はきっと彼女にだけは心を開いたんだろう。
あのいつも穏やかな笑顔と態度の裏にある、彼の本当の姿を見せたんだと思う。
私が七年掛けても見れなかったそれを彼女は一瞬で見る事に成功したんだ。
ただ、それは彼女自身が辛い目に遭ったからこそ、そう出来たんだろう。
最初から完敗だったんだ。
私がやったのは試合の後の勝者に敗者が武器を持って殴りかかるような事だったんだ。
ぼんやりとトイレの真っ白な壁を見詰めていればチャイムが鳴った。
弾かれたようにそこから出て走り始める。
もう一度ちゃんと謝らないと、と思って。
田中さんが居なくなってから押し付けられたチョコレートをまた二、三粒頂いてから小さく息を吐いた。
なんてみっともない所を見せてしまったんだろう。
それに何て事をしてしまったんだろう。
どんなに相手に対して怒って居ても手を出すなんて最低だ。
やっぱり汚い女ねと罵られてもおかしくない。
立ち上がり田中さんの椅子を起こしてそこに座る。
どうしたって失礼な事をしてしまった安田さんの所には座れなかった。
田中さんの机には色々なキャラクターのシールが貼られ、可愛らしいフィギュアが並んでいる。
彼女らしいと思った。
彼女は似ている。
私や明にすごく似ている。
どこか人恋しさを感じ、捨てられる事に怯え、適当に相手に合わせているような気がする。
だからいつも彼女は自分の意見を言わない。
曖昧に述べるだけだ。
きっと土壇場になって窮地に立ってから初めて、それでもごくごく信頼した一部の人間にだけ本音を漏らすのだろう。
だからこそ誰にでも好かれるように一生懸命容姿を飾り立てているんだ。
私と違う方向性で。
長い髪も気合の入ったマスカラも私と一緒だ。
長い髪をしていればそれだけ女らしく見える。
長い睫毛をしていればそれだけ愛想がよく見える。
知らず知らずの内に私がやっている事を彼女もまたしている。
お菓子をああやって食べさせるのも私の為じゃない。
少しでも私が彼女に良い印象を持つようにと無意識にやっている。
私と一緒だ。
溜息をもう一度吐いてから彼女がしていたように突っ伏してドアを見ていればそれがそっと開いて顔を出したのは田中さんじゃなかった。
ノックがされ返事をする。
涼だろうと思って顔を上げずに居ればそこに入ってきて声を掛けたのは意外な人物だった。
「お邪魔しまーす」
能天気に明るくそう言われ呆気に取られて顔を上げればそこには安田と共に働く田中が居た。
えーっと、と口ごもる俺に対し堂々たる態度で右手をピンと上げて彼女が言う。
「笹川さんがちょっと具合悪いみたいなので、荷物を取りに来ましたっ!笹川さんが社長に申し訳ありませんって言ってましたよ」
その言葉に思わずはぁと呟けば彼女は軽いステップで入ってきてからきょろきょろ辺りを見回す。
それからまるで友達に聞くように俺に尋ねてくる。
「笹川さんの荷物は?」
完全にペースに飲まれた俺が衝立の方を指せばあざーっすとバイト仲間に言うように敬礼をしてからそっちへ行きカタカタと音をさせながら涼の荷物を抱えて出てくる。
それから俺の机の前にある応接セットの前に立ってぺこーんとお辞儀をして見せた。
「それではしっつれいしまーす」
そう言いくるりと背を向けた彼女に思わず声を掛けた。
「りょ……笹川君は大丈夫なの?」
上擦った声でそう聞けば彼女は首だけをこっちに見せてからにんまりと笑って見せる。
それから何度か頷いて口を開く。
「だいじょーぶです。田中がきちんと面倒見ますからっ。それに社長は今そーいう事出来ないでしょ?あたしも明子……安田さん?と一緒に色々聞いちゃいましたっ」
そう言えばそうかもしれないと思う。
というかよくよく考えればこの子は雛子の恋人のはずだ。
それならば画像の持ち主について知っているのでは無いかと思い口を開く。
「そう。あの件もありがとうね。雛子から聞いたよ」
そう告げれば彼女は少し意外そうな困ったような顔をしてからあぁと小さく呟いてからまた笑顔を浮かべた。
何となくそれが俺をはぐらかそうとしているように見えた。
「だいじょーぶですっ。大した事してませんからっ。ではっ!!」
そう言って彼女が出て行ってから、小さく唸る。
そもそも涼が別れたがっていると気付いたのに画像の出所を知る必要性があるんだろうか、とも思った。
少し考えてからまだ終わった訳ではないのだから、と頭を振って残りの仕事に取りかかろうとすれば終業のベルが鳴った。